4月13(月)〜4月17日(金)
今週は、「ラーメンの世紀」。
およそ百年前の横浜に始まるラーメンの歴史を、時代を物語るエピソードとともにご紹介します。
4月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「幻のラウメン」です。
極限までお腹が減ったとき、ズズズと啜りこむ熱々のラーメン。たまりませんよね。ラーメン。 もともとはご存知の中華料理ですが、どんどんアレンジされ、いまやすっかり日本の国民食。私たちにとって、なくてはならない食べ物となりました。
この日本流ラーメンの歴史をひもとくと、およそ一世紀前の横浜に行き当たります。幕末。欧米からの圧力により、長い鎖国をとき、港を開いた日本。
ほどなく、たくさんの外国人が海を渡ってやってきます。中でも多かったのが、お隣り、中国からやってきた人々。横浜、神戸、そして長崎といった港町には、しだいにチャイナタウンが生まれていくことになります。
明治三十年(1897年)には、横浜・山下町界隈に、二千人を超える中国人が暮らしていました。これらの港町には、故郷の味を求める人を相手に、次々に中華料理の専門店が開店し始めます。そして、珍しモノ好きな日本人も、こうした中華料理のお店を訪れるようになるのです。たとえば、この方。お聞きいただいておりますのは、氷川きよしさんの
「番場の忠太郎」。番場の忠太郎と申しますと、 大衆演劇でおなじみ「瞼の母」の主人公です。 この「瞼の母」のほか「一本刀土俵入り」「沓掛時次郎」など、
数多くの名作を残した横浜生まれの小説家、長谷川伸。 長谷川伸は、土木業を営む家に生まれましたが、 実家が没落。肉体労働に従事するようになります。
時、まさに二十世紀初頭。 横浜の町に、たくさんの中華料理店が生まれた頃です。 安くて腹いっぱいになる食べ物を求めて、若き長谷川伸は、
チャイナタウンに足を踏み入れます。 「『ラウメン』と言うと、うなずいて向こうへ去り、 『イイコ、ラウメン』と、いささか節をつけて発注してくれます。
豚蕎麦のラウメンは五銭、細く刻んだ豚肉を煮たのと薄く小さくきった筍が蕎麦の上にちょっぴり乗っている。これがたいした旨さの上に、ソバもツユもこの上なしです」
後年、長谷川伸がこの「ラウメン」を懐かしがると、 弟子の池波正太郎が、いにしえの味を伝える店を探し、 師匠に紹介します。しかし、どの店も、どの店も、
「これは違う」と、満足できるものはなかったとか。 幻のラウメン、いったいどんな味がしたんでしょうか。
4月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「東京ラーメン事始」です。
さて、日本風ラーメン、その事始めは、百年ほど前の 横浜にさかのぼる、と言われています。 新しモノ好きな日本人の間で、「ラーメン」は人気を呼び、
やがて各地に広まっていくわけですが、 東京ラーメンの元祖…として、 現在も語り継がれているのが、浅草にあった「来々軒」です。
明治四十三年(1910年)、浅草六区、すしや通りに開店したこの「来々軒」。経営していたのは、尾崎貫一(おざき・かんいち)さん。この方、もとは横浜の税関に勤めていたお役人で、五十二歳のとき、この「来々軒」を始めました。当時の値段は、シナソバ、現在でいうラーメンが六銭。いまの物価に換算すると、およそ二百円になるでしょうか。来々軒の料理は、安くてうまく、腹いっぱいになる…ということで、大繁盛したと伝えられています。
経営者の尾崎さんは、浜松生まれ。後に東京に出て、 横浜の税関で仕事に就くことになります。 おそらく、その横浜税関で仕事をするうち、
中華街に通って、中華料理の味に親しんだのでしょう。 尾崎さんが先見の明があったのは、 料理人として、本場・中国の人材を雇い入れたこと。
大正十三年には、実に十三人もの、 中国出身のコックさんがいたそうですから、驚かされます。 もちろん、いずれもシロウトではなく、
れっきとしたプロフェッショナルの皆様方。 おそらく、味付けなどは、日本風に多少、 味付けをしていたのに違いありませんが、
それでも妥協せず、本場の味を追及したことで、 このプロジェクトは成功へと導かれたのです。
来々軒のラーメンはどんな味がしていたのか? スープの材料は、鶏がら、豚骨、そして野菜。 毎朝六時ごろから仕込みにかかっていました。
そして麺は、小麦粉、玉子、そしてカンスイ。 具は、焼き豚、メンマ、葱、以上。 いかにもシンプルな「東京の味:」という感じですね、
専用のかまどでじっくり焼き上げた焼き豚は、、 大変な美味だったと伝えられています。 この来々軒、戦争が激しくなった昭和十八年に営業を中止。
戦後は東京駅に近い八重洲に引っ越して店を再開、 後に内神田に移りましたが、 昭和五十一年、惜しくも閉店しています。
4月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「江戸川乱歩の屋台」です。
二十世紀の初め頃、港ヨコハマに生まれた「ラーメン」。 当時は「南京ソバ」と呼ばれていたそうです。 大正時代になると、チャイナタウン、中華街を飛び出して東京の繁華街でも親しまれるようになります。明治時代まで、屋台の「夜鳴きソバ」といえば、日本ソバが当たり前でしたが、この大正の頃から、ラーメンが主流になっていきました。
屋台のラーメンといえば…そう、おなじみ「チャルメラ」の音です。 チャルメラが日本に伝わったのは、江戸時代のこと。
長崎に暮らしていた中国人たちが、かの有名な 「蛇踊り」に用いる楽器として、日本に持ち込んだ…と、 伝えられています。
江戸時代の終わりごろになると、チャルメラは江戸に進出。 流しの飴屋さんが使うようになりました。 そして、明治の末から大正にかけて、今度は、
屋台のラーメン屋さんが、この楽器に注目。 「たらりーらら、たらりららりー」、 このおなじみのメロディがトレードマークとなりました。
そのころは、誰でも屋台さえ引けば、 それ相当な稼ぎが手に入ったそうです。 「俺も、ラーメンの屋台でもやってみるか」
そんな人たちが数多くいらっしゃいましたが、 その中で、後にもっとも有名になったのが、この方。そう、怪人二十面相、明智小五郎、そして、いま聞こえている
「少年探偵団」の原作者である探偵小説の父、江戸川乱歩です。
乱歩が屋台を引いたのは、大正八年(1919年)のこと、 その頃乱歩は二人の弟と古本屋を開き、 さらに漫画雑誌の編集も手がけますが、まったく儲からず、
生活はヒジョーに苦しかったんだそうです。 近所の食べ物屋にツケもきかなくなり、 三日間も「いり豆」だけで過ごし、さて、どうしたものか…と悩みに悩みました。乱歩は書き残しています。「そこで思いついたのが無資本でできる支那そば屋であった。チャルメラをふいて歩くあの支那そば屋である」。
「支那そば」は、当時のラーメンの呼び名ですが、 そう、乱歩は屋台を引いて夜の街を流したのです。 とはいえ、この屋台、ノレンに行灯までついた本格的なモノ。結局、冬の夜の仕事はあまりにキツく、半月ほどでやめてしまったそうですが、収入はけっこう、よかった…と乱歩は書き残しています。
4月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「焼け跡で大ブレイク」です。
戦前、東京の町で、ラーメンは既に一般的な食べ物でした。 とはいえ、誰もがこの味に親しんでいた訳でもなく、
まだまだ一部のファンに支えられている存在でした。 それが、現在のように、誰もが知っている外食メニューへと
変化していったのは、やはり戦後のこと。 中国から復員してきた人たちが、 焼け跡、闇市で、大陸で習い覚えてきた味を披露するに及び、
一気にポピュラーな存在になっていったのです。 とにかく、食糧事情が厳しかったその頃。 蕎麦やうどんより脂っこくてカロリーが高く、
しかも安かったラーメンは、人気の的でした。
中華麺の独特の風味を出すのに必要なのが「かん水」。 炭酸カリウム、炭酸ナトリウムなどが成分になっている、
天然のアルカリ性物質です。 小麦粉、卵、そして「かん水」を加えて練り上げると、 このアルカリ分が小麦粉に作用して、あの独特の香り、
そして艶やコシが生まれてきます。 ところが、この「かん水」、中国から輸入していましたから、 戦争中、そして戦争直後は、なかなか手に入れることができません。
そこで、代用品として白羽の矢が立ったのが、「洗濯ソーダ」、炭酸ナトリウムの結晶です。昔から木綿を洗うとき洗剤代わりに使われており、現在でも換気扇やレンジ周りなどの掃除に利用されている、水溶液が実にph11・2という強いアルカリ性の物質。この洗濯ソーダをかん水代わりに使った中華麺は、独特のピカピカした艶があり、風味も十分あって、それなりにおいしかったんだそうですが、考えてみれば、かなり乱暴な話ですよね。
さて、終戦後、全国各地の主だった駅の周りには、どこにも「闇市」が誕生することになります。杉並区、荻窪駅も例外ではありませんでした。この闇市で屋台を出していた数軒のラーメン屋さんが、後に青梅街道沿いに店を出すようになり、後に「荻窪ラーメン」としてもてはやされるようになります。荻窪ラーメンの特徴、大雑把に言ってしまうと、昔から魚介系のダシを使っていたこと。もともと、日本蕎麦から商売替えをした店が多かったので、煮干や鰹節、コンブなどを、上手に使うコツを身に着けていたんだそうです。
4月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「下町の英雄」です。
昭和五十二年(1977年)、巨人軍の王貞治選手が、 ハンク・アーロンの記録を抜く756号本塁打を記録。
創設されたばかりの「国民栄誉賞」、第一号の受賞者となりました。 さて、王選手のご両親は、もともと下町、墨田区で、
中華料理のお店「五十番」を経営されていたこと、 ご存知の方も多いことでしょう。 この屋号、あちこちで見かけますが、
これは、横浜居留地の五十番館に住んでいた、 「謝さん」という中国人が「五十番」というお店を 出したのがきっかけで、広まったんだそうです。
さて、お父様、王仕福さんは、大正時代に中国、浙江省から来日。いろいろな仕事を経験した末に、 東京・深川の中華料理店に、住み込みで働くようになります。
で、この頃、お母様の登美(とみ)さんと知り合って結婚。 昭和三年(1928年)、墨田区八広で、 居抜きで売りに出されていた「五十番」を買って、
二人で独立を果たします。以後、空襲で店が焼け落ちる不運にも恵まれますが、 戦後は押上駅近くの一等地に引っ越して、
お店はどんどん栄えていきました。 もちろん、王貞治少年も、ラーメンが大好きでした。
美空ひばりさんの歌う「チャルメラそば屋」です。 彼女もまた、ラーメンを愛した一人。 ひばりさんが新宿コマ劇場に出演していたとき、
当時、すでに巨人軍のスターとなっていた王選手が、 「差し入れするよ、何がいい?」と、 聞いたんだそうです。すると、ひばりさん、
「ワンちゃんちのラーメンがいいわ」 「もっと高級なものにすれば?」 「ううん、ラーメンがいいの。落ち着くんだもん」。
そこで、王選手、お父さんにラーメンをこしらえてもらい、 それを自分でコマ劇場まで運んで出前。 二人で、歌謡コンサートの幕間に、
一緒にラーメンを啜ったんだそうです。 世界のホームラン王に、ラーメンを出前させる! さすがは、天下の美空ひばりさんですね。
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