番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

3月23日(月)〜3月27日(金)
今週は、「大江戸銭湯ヒストリー」。
江戸っ子たちの憩いの場、「銭湯」の歴史にまつわるエピソードをご紹介します。

3月23日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「銭湯事始め」です。
世界中を見回しても、日本人ほど風呂好きな国民はいない。 よく言われることでございます。 海外旅行に行って、唯一の不満は、 日本式のあのザブンと浸かれるお風呂の少ないこと…と、 いう方も、たくさんいらっしゃることでしょう。 18世紀の日本を訪れたスウェーデンの博物学者、 カール・ツンベルクは、こんなことを書いています。 「船が錨を下ろすと、日本人は急いで上陸して沐浴する。 旅にあるときも、家にいる時も、彼らは一日として 体を洗うのを欠かしたことがない。 町のみならず、村落にも公衆浴場がある。 貧しい者でも、僅かな銭で、入ることができる」 さて、こうした習慣は、 いつ頃から出来上がってきたものなのでしょう? 一般庶民が入浴の習慣を持つようになったのは、江戸時代です。 徳川家康が江戸にやってきたのが天正十八年(1590年)。
そして、早くもその翌年の夏には、 江戸の銭湯、第一号が誕生しています。 伊勢与市という男性が、 銭瓶橋のたもとに、開業したのがそれ。 これ、現在の場所で申しますと、東京駅の八重洲北口からすぐ、 常盤橋の手前、日本ビルのあたりです。この頃はまだ、お風呂というものが珍しい時代で、 入り方を知らない人が多くいたようですが、 もともと日本人は清潔好きだったのでしょう。 江戸の町が開けていくと共に銭湯もどんどん増えていき、 およそ二十年後には、各町内には必ずと言っていいほど、 落語に出てくるような「お湯屋さん」ができていました。
かぐや姫の名曲「神田川」。 南こうせつさんは「風呂屋」と歌っておりましたが、 私は先ほど「湯屋」と申しました。 皆様、この二つの違い、おわかりでしょうか? 実は、もともと「風呂」というのは、蒸し風呂、サウナのこと。これに対し、現在のような首までザブンと浸かるものを、「湯」と呼ぶようになった。 現在では「お湯屋さん」「お風呂屋さん」、 どちらも同じ意味で使われておりますが、 実は、違うものを指している言葉だったんですね。

3月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「湯女風呂大流行」です。
「ちょっと湯ゥ行ってくる」「あいよー」 こんな夫婦の会話が、落語にはよく登場いたします。 銭湯と申しますと、一仕事終えて、サッパリしに行く。 どちらかといえば健全な場所、というイメージがありますが、 実は、江戸の始まりごろは、そうでもなかったんです。 誕生して間もない頃から、銭湯では、 背中を流したりするサービス係の女性、 「湯の女」と書いて「湯女(ゆな)」を置くようになります。 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」で、 主人公、千尋がやることになった、あのお仕事ですね。
当初は、身づくろいに関わるサービス、 現在でいうエステティシャンのような仕事だったわけですが、 それがだんだん、イロっぽい方面にも手を広げていった。 夜になると、このお姉さんたち、こざっぱりした着物で、 三味線を弾き、小唄なんかを歌いだしちゃう。 まあ、男性のお客にしてみれば、湯上りでサッパリした所に、 一杯飲んで、目の前にはうら若き女性がいる。 つい、こう、ムラムラ…というのは、 なんとなく理解できる話でございます。 幕府公認の遊郭、吉原が、現在の人形町あたりにオープンするのは、 元和四年、1618年のことですが、 当時からこの「湯女風呂」が、最大のライバル。 一時は、吉原が存亡の危機に立たされたほどです。 原因は、公認の遊郭である吉原が、 当時、夜間の営業を禁じられていたこと。 また、吉原で遊ぶとお金がかかりすぎること、 この二つだと言われおります。 暗くなって追い出されるよりは、のんびりできて、 リーズナブルな値段で遊べる湯女風呂のほうがいい。 そんな風に考える男性諸氏が多かったんですね。
何とかこっちに客を引っ張ってこようと歌舞伎やダンス、 相撲の興行まで企画しましたが、パッとしない。 で、困った吉原の遊女屋さんが、お抱えの女の子を、 湯女風呂に出稼ぎに行かせたところ、 これが幕府の知るところとなってしまった。 かわいそうに、十一人もの遊女屋の旦那さんが、 大門(おおもん)の前で、はりつけにされた…という記録が残っています。まことに、ツイてない…としか、言いようがございません。

3月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「スーパースター勝山」です。
江戸時代の始め頃に大流行した銭湯、「湯女風呂」。 お姉さんが手の込んだサービスをしてくれる、 現在で言うところの一種の風俗営業でございます。 一時は、あの吉原をしのぐ人気スポットとなったわけですが、 その中から生まれた一人のスーパースターがおりました。 その名を「勝山」と申します。 美しいのは当たり前、声がいい、性格もいい、 そして何よりもオシャレのセンスに優れている。 仙台藩主・伊達綱宗公が通い詰めたとか、 江戸町奉行・曲淵甲斐守の寵愛を受けたとか、 そんな噂が立つほどの、すこぶるつきのイイ女でした。 彼女が所属していたお風呂屋さんは、現在のJR神田駅の東、首都高1号線・本町ランプの辺りにありました。ここには他にも数軒の湯女風呂があり、旗本・堀丹後守の屋敷前であったところから、「丹後の前」という意味で、「丹前風呂」と呼ばれていました。浴衣の上に着る綿入れを「丹前」と言うのも、元はといえば、ここから出てきた言葉です。ナンバーワン湯女、勝山を目当てに、当時のオシャレな若者の代表である、旗本奴の伊達男たちがこの辺りに集います。
彼らの前衛的で華やかなファッションを称して、「丹前風」と呼ばれるようになり、それが上方に移って、いつの頃からか防寒着のことを指すようになりました。そんなファッションリーダーたちを引き付けた勝山、どれほどのイイ女性だったのか?後に彼女は、湯女をやめて吉原の太夫へと移籍しますが、 そのデビューの晩のこと。当時の資料によれば、 「初めて勤めに出る日、吉原中の太夫、勝山を見んとて 中の町の両側に群がりいたりける。 初めての道中なれども、装い、器量、並びなく見えしと。 全盛はその頃、廓(くるわ)第一と聞こえたり」とあります。 要するに、湯女時代から大評判だった勝山という女性が、 いったいどれほどの者なのかと、吉原中の太夫たちが、 メインストリートに陣取って見物したというわけです。
「勝山髷」と呼ばれる彼女のヘアスタイルは、 後にアレンジされて「丸髷」と名前を変え、 身分を問わず既婚女性の髪形として一般的になったほど。 ファッションの歴史の上でも、特筆すべき存在だったんですね。 さて、これほどのスーパースターを生んだ湯女風呂ですが、 1657年に、一切禁止されてしまいます。 幕府は、江戸城にほど近い日本橋から当時は辺鄙な浅草へと、 公認の遊郭である吉原を移転させることに決め、 その代わりに商売敵である湯女風呂を潰そうとしたのです。 銭湯が、落語に出てくるような、健康的な社交場へ変わる 転機となったのが、この出来事だったんですね。

3月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「銭湯な人たち」です。
噺の中に銭湯が登場する落語は山ほどございますが、 この「湯屋番」は、さしずめその代表格といえるでしょう。 番台に座った若旦那が妄想を膨らませるこのお話。 若旦那、最初は、風呂を焚く燃料に使う、木屑拾いの仕事をやらされそうになりますが、 「そんな色っぽくない役はイヤだ」と拒否してしまいます。 確かに色っぽくはないかも知れませんが、 木屑拾いは、お湯屋さんの奉公人の第一歩として、欠かせない仕事でした。 何と言っても、江戸っ子の好みは、肌に噛み付くような、 とにかく熱いお湯、これにやせ我慢して入るのがカッコイイ。 お湯を熱くするには、それだけ燃料である薪、 木屑の類が大量に必要になるわけです。 近所のゴミ捨て場を覗いて、燃やせそうな物はすべて持ち帰る。 また、川岸にも出かけ、流れ着いた木の枝などを集めてくる。 用済みになって捨てられた桶や、 トイレの板なんて物まで残さず集めてきたといいますから、 本当に、ありとあらゆるモノをムダにしなかったんですね。
現在の銭湯では、洗い場で下着を洗うなど言語道断ですが、 江戸時代の中ごろまでは、そうでもありませんでした。 洗い場には男湯にも女湯にも「下盥(しもだらい)」という盥が備え付けてあり、 これで身に着けてきた下着、ふんどしを洗う習慣が あったんだそうです。 田舎から出てきた男が、この習慣を知らず、 漬けてあったふんどしで体を洗ってしまうという場面が、 式亭三馬の『浮世風呂』に描かれています。 後に、衛生上よろしくないということで、 下盥は次第にすたれていきました。
さて、その頃、体をどうやって洗っていたか? 10センチほどの小さな袋に米糠を詰めた「糠袋」を使います。 米糠には油が含まれていますから、泡は立たなくても、 汚れを落とす効果があるんですね。 体を洗うために、きれいなお湯が必要なときは、 「上がり湯」あるいは「岡湯」と呼ばれる、 人が浸かる湯船とは別の場所で温めたものを使いました。 この「上がり湯」、夏は誰でも自由に汲んで使えますが、 冬になると需要が増えるので、専門の係員がついて、 柄杓でいちいち桶に汲んで、渡してくれたんだそうです。

3月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「江戸っ子の好きな銭湯」です。
21世紀の現在、「銭湯」…といえば、 しみじみとしたニュアンスが漂いますが、江戸時代は陽気な場所の代表格。ヒリヒリとヤケドしそうな、五十度近くの熱いお湯に、大騒ぎしながら入るのも江戸っ子の楽しみでした。しかし熱い湯に浸かって、のぼせてしまうのは日常茶飯事。それどころか、もともと体の弱っていた高齢者が、風呂の中で突然、亡くなってしまう…なんてことも、よくあったんだそうです。ちなみに、江戸の銭湯の営業時間はどれくらいだったか。
これは「日の出から日没まで」。仕事を終えて、ようやくお湯屋さんまでたどり着いても、「時間ですから…」と、お湯を抜かれてしまうことも、珍しくありませんでした。
「火事と喧嘩は江戸の華」と謳われたほど、火事の多かった江戸の街では、防災上の観点から、火を使う危険な商売である「お湯屋」の、夜間営業を認めることができなかったのです。さて、これは男湯に限ってのお楽しみですが、入浴を終えた人々は、階段を上がって二階へ参ります。ここは町内の男性たちの社交場となっていて、碁盤や将棋盤なども備え付けられておりました。もともと銭湯の二階は、武士の刀を預かるために作られたので、その後も男湯だけの付属施設となった、というわけ。で、ここには番頭さんが待ち構えておりまして、お茶を出したり、お菓子や寿司などの軽食も出します。湯上りのノンキな町内の皆さんは、ここでダラダラとお茶を飲みながら情報交換したり、のんびりとくつろいだりしたんですね。
ちなみに、この2階にいる番頭さんは、数ある銭湯の従業員のうちでも、店主に次ぐナンバー2。お茶やスナック類の利益は、すべてこの番頭さんのフトコロに入る、というシステムになっていたため、実にきめ細かなサービスを行っていたんだそうです。畳の一部分には格子がはめ込んであり、下の様子を眺めることが出来ました。「お、八五郎の野郎がきやがった。おい、八! 湯から上がったらこっちへ来い」…といった具合に、上から仲間に声をかけることもできました。また、女湯のほうも、この格子の上からじっくり、観察できたんだそうで、この江戸の銭湯風俗、ちょっぴり憧れてしまいます。

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター