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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

3月9日(月)〜3月13日(金)
今週は、「ベンチャーズ・イン・トーキョー」。 今年、五十周年を迎えたエレキ・ヒーロー、 ザ・ベンチャーズの歩みと、 60年代半ばに起きた凄まじいエレキ・ブームをご紹介します。

3月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「ベンチャーズの誕生」です。
ベンチャーズ、最初のヒットレコードとなった、 「ウォーク・ドント・ラン(急がば回れ)」。 1960年代半ばに日本を襲ったエレキ・ブーム、 その真ん中に立っていた巨人、それがベンチャーズでした。 もし、ベンチャーズがいなかったら、 日本の歌謡曲、ポップス、ロックは、現在ある姿とは、 かなり違った形のものになっていたかもしれません。 今から五十一年前、1958年(昭和三十三年)、 日本では日劇ウエスタン・カーニバルが開催され、 巨人軍の長嶋茂雄選手が新人王を取ったこの年。 アメリカ西海岸、ワシントン州シアトルの町で、 二人の若者が出会いました。 父親の中古車販売店で働いていたドン・ウイルソンのもとを、 ボブ・ボーグルが訪れます。 互いにギターに興味を持っていることがわかり、二人は意気投合、バンドを組むことになりました。
そして翌年、「ザ・ベンチャーズ」が誕生。1960年(昭和三十五年)になると、伝説のギタリスト、ノーキー・エドワーズが加入。最も、最初はベースを担当していたそうです。同じ年、「ウォーク・ドント・ラン」が、地元・シアトルでローカル・ヒットを記録。これに目をつけたドルトン・レコードが、全米でリリースすることになり、ベンチャーズのサクセス・ストーリーが始まりました。シアトルといえば、イチロー選手のマリナーズ、スターバックス・コーヒーが有名ですが、元祖シアトル名物といえは、何といってもザ・ベンチャーズ、ということになります。1962年(昭和三十七年)、ドラムスのメル・テイラー加入。ここで、日本で凄まじいブームを巻き起こすことになる、鉄壁のラインアップ四人が顔を揃えたのです。1964年夏、日本でサーフィン・サウンドが大流行。最大のヒット曲は、このアストロノウツ「太陽の彼方に」。日本語のカバーバージョンも作られ、こちらも大当たり。そして翌65年1月、アストロノウツ、そして、ベンチャーズの二大人気インスト・バンドが共に来日、ジョイント・コンサートで大旋風を巻き起こすのです。

3月10日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「人気爆発! ベンチャーズ」です。
ベンチャーズといえば、「ダイアモンド・ヘッド」。 ベンチャーズが、初めて日本にやってきたのは、 1962年(昭和三十七年)。 新宿コマ劇場で開かれた「日米ロック・ツイスト合戦」と 銘打ったイベントに登場しています。 もっとも、この時はオリジナル・メンバーのドンとボブ、 二人だけでの来日で、盛り上がりもほどほど。 しかし、2年後の64年夏のサーフィン・ブームで 人気に火がつき、そして迎えた1965年(昭和40年)。 年明け早々、ベンチャーズは二度目の来日を果たします。 前の年、「太陽の彼方」を大ヒットさせたアストロノウツ、 さらに日本からは寺内タケシとブルー・ジーンズ、 ジャニーズといった人気者が出演するとあって、 会場内は凄まじい熱気に包まれていました。 東京公演は、新宿、厚生年金ホールと、当時渋谷にあった、 リキ・スポーツパレス、通称「リキ・パレス」で行われました。 それまで、日本で行われたコンサートでは、 どんな人気者が出演しても、観客が席を立って踊り出す… ということはなかったんだそうです。
ところが、この65年のベンチャーズお正月公演では、 自然発生的に、オーディエンスが立ち上がって踊り出した。 リキ・パレスの最終公演では、フロアを埋め尽くしたファンが、 ステージ前にどっと押し寄せてきて、 メンバーたちは恐怖すら感じたほど。 その場を目撃していた人々は、 新しい時代の始まりを肌で感じとっていました。 65年、二度目の来日をする前、ベンチャーズのメンバーは、 日本での人気がどれほど凄いことになっているのか、 まるで知らされていなかったんだそうです。 ドン・ウイルソンなどは「まともにギャラが出るのか」と、 気に病んでいたとか。 ところがふたを開けてみると、凄まじい人、人、人。 喫茶店に入れば、かかっているのは自分たちのレコード。 デパートで買い物をしようとしても、ファンに取り囲まれて、 身動きができない、といった状態だったそうです。 この一月の公演のライブ盤が、名高い「ライブ・イン・ジャパン」。雪の舞う赤坂・日枝神社で、蛇の目傘を差した着物の女性と、メンバー4人が笑う有名なジャケットのLPですが、実に50万枚のセールスを記録したと申しますから、凄い。洋楽アルバムとして、当時、史上最高のヒット作となりました。

3月11日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「日本全国テケテケの嵐」です。
1965年(昭和四十年)一月の来日で、 日本でのベンチャーズ人気は絶頂に達しました。 そして、もう一つ、盛り上がったのが「エレキ・ブーム」。 前の年の夏まで、国内でエレキギターを作っていたのは、 わずか2社、月間の生産本数が3500でした。 ところが一年後の1965年になると、 製作会社は実に50を数えるまでになっています。 専業の楽器メーカーはもちろん、家電メーカー、ミシン屋さん、 木工所、オモチャ屋さん、ゲタ屋さんまでもが参入し、 なんと月産6万本という凄まじい数に。 この年6月になると、伝説のオーディション番組、 「勝ち抜きエレキ合戦」がスタートし、 さらによく似た趣向のテレビ番組が各局で放映されました。
ベンチャーズのメンバーも、来日した折、 こうした番組の審査員を務めたことがあったそうで、 ドラムのメル・テイラーはこんな風に話しています。 「14か、15ぐらいのバンドが次々に出てきた。 どのバンドも、レパートリーはベンチャーズのナンバー。 どのバンドも、一つ残らず。あれは印象的だった」 「レコードでは、ときどき、ミスしたところを、 そのまま生かしてしまうことがあるんだ。 そんなに大した失敗じゃなければね。 でも、出てきたバンドは、そのミスまで、 忠実にコピーしていたんだよ」65年1月に続き、ベンチャーズは7月に来日。 到着翌日、池袋の東武デパート屋上でサイン会を行いましたが、 とにかく凄まじいファンの数でした。 65年夏のツアーは、北海道から九州まで およそ四十日間、五十八ステージという大規模なモノ。 全国のエレキ・ブームに火をつけて、ベンチャーズは 9月3日、帰国の途に就きましたが、この後、 日本ではまたまた大変な騒ぎが持ち上がります。

3月12日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「エレキ禁止令」です。
我らが若大将、加山さんは、古くからのベンチャーズ・ファン。既に62年ごろから、エレキバンド「ランチャーズ」を結成して、砧(きぬた)撮影所内のお祭のステージで、ベンチャーズ風の演奏を行っていました。日本では当時、同じ東芝レコードの所属ということもあり、 来日するたびに友情を深め、 後にはステージでの共演も果たしています。 ベンチャーズ人気がブレイクした1965年には、 若大将シリーズ中の傑作の一つ「エレキの若大将」を製作、 エレキ・ブームの盛り上がりに一役買いました。 ところが、この凄まじいエレキ・ブームに水を差す動きが現れます。
同じ1965年(昭和四十年)の十月、栃木県足利市の教育委員会が、エレキ追放運動を開始。小中学生がエレキを買うこと、またバンドの編成やエレキ大会への参加を禁止すると発表。さらに、テレビのエレキ番組を見ないよう指導する、いわゆる「エレキ禁止令」が発令されたのです。この動きは、瞬く間に全国に波及していきました。すると、エレキの売上もガタンと落ち込み、メーカーの倉庫には在庫の山が積まれた…翌1966年(昭和四十一年)になると、今度はビートルズ来日騒動が巻き起こります。歌って演奏もするバンドの人気が上昇して、「勝ち抜きエレキ合戦」の放映も終了、エレキ・ブームは収束へと向かっていったのです。

3月13日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「ベンチャーズと日本歌謡」です。
エレキ・ブームが去った後も、ベンチャーズは日本で長く愛され続けました。 理由の一つは、今お聞きいただいております、 和泉(いずみ)雅子(まさこ)・山内(やまうち)賢(けん)歌うところの「二人の銀座」…、 この曲を皮切りに、次々に歌謡曲の作曲を手がけて、 いくつもの大ヒットを飛ばしたことが挙げられます。 ただこの曲、もともと、ギター・インストで作られた曲なので、 歌うことを前提にしていないため、音域が広く、 生半可な歌手では歌いこなすことができません。 そこで、この「二人の銀座」では、デュエットにして、 男女がそれぞれの音域を歌うようにしたのです。 そしてベンチャーズ歌謡の代表作となったのが、こちら。渚ゆう子さんの代表作「京都の恋」。 ベンチャーズのステージに渚さんがゲスト出演したときの、 ライヴ音源でお送りしています。
もともと本格的なハワイアン歌手だった渚さんだからこそ、 この難しい歌を上手く歌いこなすことができたのでしょう。 どこか哀愁を帯びたメロディが魅力的な、ベンチャーズ歌謡。なぜこんな日本人に愛される曲を書くことができるのか、その秘密は、彼らが日本をとても愛していたから。60年代、現在のように交通機関や宿泊施設のインフラがまだ充分に整備されていない時代から、ベンチャーズは日本を津々浦々まで公演して回りました。楽器も、アンプも、衣装も、自分たちで持ち運ぶ。汽車やバスを乗り継いでコンサート会場にたどり着けば、そこは床にムシロを敷いた公民館、きちんとした楽屋も用意されていない…といったことも、珍しくありませんでした。
夏場は、扇風機を十台ほど並べ、アンプを冷やしながらコンサートを行ったそうです。食事も、大好物のラーメンと餃子さえあれば、それでOKでした。本当に、プロ中のプロなんですね。 四十年以上に渡り、日本を旅し続けたベンチャーズ。今年の夏は五十周年記念ということで、集大成にしたい…と、メンバーたちも意気込んでいるんだそうですよ!

 

 



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