3月2日(月)〜3月6日(金)
今週は、「六十四年目の東京大空襲」。昭和二十年(1945年)、三月十日、 東京の下町を焼き尽くした東京大空襲と、
そのむごたらしい爪あとをご紹介します。
3月2日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「東京まで1220キロ」です。
東京が初めてアメリカ軍による空襲を受けたのは、 太平洋戦争が始まった翌年、昭和十七年四月十八日。 ドゥリットル中佐率いるB―25が、荒川、王子、小石川、牛込などを爆撃し、死者39、負傷者311、被災家屋251という被害を受けました。しかし、この空襲は、アメリカ本土の戦意高揚を狙った、かなり無理をして決行された、一回限りの作戦でした。この時期、アメリカが制圧する地域から日本本土はまだ遠く、飛行機で飛んでいくのは難しかったのです。しかし、昭和十八年、十九年と日本が劣勢になるに従い、アメリカ軍の勢力範囲は拡大。昭和十九年の夏にサイパン、テニアン、そしてグアムが占領されると、日本本土は、航空機による攻撃の射程範囲となったのです。東京への絶え間ない空襲が始まったのは、昭和十九年 十一月のこと。それでも、死者の数を見ると、十二月が259、一月が591、二月が747…と、いずれも千人以下でした。しかし、三月十日の大空襲では、たった一晩で、およそ十万もの命が奪われています。一体、何が起きたのか?
東京大空襲、そしてそれに続く日本各地への大規模な空襲が 可能になったのは、アメリカ軍が硫黄島を制圧したからです。
サイパンと日本のほぼ中間地点、東京まで1220キロの距離にある、東京都小笠原村硫黄島。 太平洋戦争末期、日本軍の基地が築かれていました。
南から日本へ向かうアメリカの爆撃機を見張って報告したり、 また日本の戦闘機の基地となって、サイパンのB29を
攻撃するなど、アメリカにとっては困った場所でした。硫黄島を取れば、日本軍に邪魔されることなく、本土に大規模な空襲をかけることが可能になります。また、故障の多かったB29が不時着することもできる…など、戦略上のさまざまな理由から、どうしても欲しい島でした。
アメリカの攻撃が始まったのは、2月16日。攻撃に先立ち、指揮官の一人、スミス中将は、「攻略予定は5日間。死傷者は1万5千を予定」と記者会見で語っています。戦力も、アメリカ7万に対し、日本は2万。島は、あっという間に制圧されるかと思われました。しかし、ここを取られたら日本は焼け野原になってしまいます。何としても、国を守りたい。日本軍はアメリカの予想を遥かに上回る抵抗を示します。戦いは結局、四十日余りに及び、アメリカ軍の死傷者は当初の予想を遥かに超え、2万8千にも及んだのでした。それでも、3月の始めには、飛行場はすべてアメリカの手に。本土防衛の最後の砦であった硫黄島を失い、東京はB29の前に、丸裸の姿を晒すことになったのです。
3月3日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「狙われた帝都」です。
死者十万人以上に及んだといわれる、東京大空襲。 当局が正確なデータを把握していなかったため、 現在でも、その正確な数はわかっていません。
この空襲が実現したのは、きのうお話したように、 硫黄島がアメリカの手に落ちたことも大きかったのですが、
もう一つ、アメリカの戦略が変わったという理由もあります。 昭和十九年の十一月から始まった、本格的な空襲は、
当初、「精密爆撃」を目指していました。 これは、空襲は行うけれども、目標とするのは、 飛行機の工場や港湾施設など、軍事関係の場所だけ。
非戦闘員である、一般市民の生活する場所は、 原則として狙わない、というものでした。 十一月の最初の空襲でも、標的となったのは、
武蔵野市にあった「中島飛行機武蔵製作所」。 現在の武蔵野市役所周辺にあった広大な工場です。
当日は雲が多く、目標であった中島飛行機には、 あまり大きな損害を与えることが出来ませんでした。 もちろん、気象情報などを参考に出撃するわけですが、
遠くサイパンから飛んでいく8時間の間に、雲が増えてしまうのは、仕方のないことです。その後も、アメリカ軍は「精密爆撃」を目指し空襲を続けました。「無差別爆撃」に対して、批判を行ってきたアメリカだけに、政府には理想主義者も多く、「非人道的」と国際社会から後ろ指を指されるようなことは、できれば避けたかったようです。しかし、最終的に、このままでは、壊滅的な被害を与えることが難しいと判断。精密爆撃を推し進めてきたハンセル准将は更迭され、後任に、ドイツで「絨毯爆撃」を行った、カーティス・E・ルメイ少将が指名されました。
それまでアメリカ軍の空襲は、昼間、目視によるものでしたが、ルメイ少将は、これを夜間、レーダーによる戦法に変更。ターゲットも、軍需工場だけに限らず、市街地を無差別に焼き尽くそうとしたのです。後に、ルメイは、こんなことを話しています。「私は、日本の民間人を殺していたのではない。日本の軍需工業を破壊していたのだ。日本の都市の家屋は、すべて軍需工場だった。東京や名古屋の木と紙でできた家屋の一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の製造工場になっていたのだ。これをやっつけてなにが悪いことがあろう。日本では女も、子どもまでが軍需産業にたずさわっていた」アメリカで、ビング・クロスビーが歌う
「アイルランドの子守唄」がヒットしていたこの昭和十九年。 ルメイは東京を焼き尽くそうと、プランを練り上げていました。
3月4日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「無差別爆撃の始まり」です。
東京の民家は、すべて軍需工場だ… 民間人への無差別爆撃を決めた、 アメリカ軍のカーティス・E・ルメイ少将。
彼はまた、戦後、こんなことも話しています。 「もし国際戦犯裁判がアメリカに対して行われたら、私は拘引され、人道に反する罪で戦犯にされただろう。ただ幸いにして戦争に勝ったから、そうならずにすんだ」
紛れもなく、東京大空襲を推し進めた張本人であり、 後にはヴェトナム戦争でも大規模な爆撃を行って、 「北ヴェトナムを石器時代に戻してやる」と、
これまたブッソウなセリフを吐いたこの人物。 昭和三十九年、「航空自衛隊育成に協力した」功績により、 勲一等旭日大綬章を授与されています。
昭和二十年三月九日、午後四時過ぎ。 サイパン、テニアン、グアムの飛行場から、 全部で三百機以上のB29が、東京目指して離陸しました。
すべて離陸し終わるまで、二時間四十五分もかかったそうです。 午後十時半。数機のB29が、東京上空に侵入、
警戒警報が発令されましたが、しばらく旋回した後、 海上へと去っていきます。 ああ、今日は空襲はないだろう…と、安心させておいて、
およそ一時間半の後、日付が変わって三月十日になった直後、 三百機あまりの飛行機が次々に東京上空に到着し、
江東区、深川・木場上空を皮切りに、次々に爆弾を落とし始めました。
一機あたりの爆弾搭載量は、実に6トン。 これは通常の、およそ2倍の量でした。 日本の防空能力がほぼ機能していないことを見越して、
もともと取り付けられていた銃器などを取り外し、 極限まで爆弾を詰め込んだ上、 超低空からの爆撃を行った。この結果、
およそ2000トンにも及ぶ、とんでもない量の爆弾が、 東京・下町を中心に撒き散らされたのです。 最初に入ってきた飛行機は、目標地点を、
四角い枠で囲むように爆弾を落とします。 すると、後続の飛行機は、その目標の中を、 塗りつぶすように、さらに爆弾を落としていく…。
この「皆殺し戦術」により、逃げ場を失った大量の市民たちは、 なすすべもなく、命を失っていったのです。 当日は、折からの春の嵐が吹き荒れていたこともあり、
被害は一段と大きなものになっていきました。
3月5日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「旧・本所区の出来事」です。
3月、卒業式の季節です。 昭和十九年、来るべき空襲に備えて、東京市内の3年生から6年生までの子供たちは、地方へと疎開していました。ところが、6年生は、卒業式への出席や、中学校への入学試験準備のため、3月初めに、東京へと戻ってきていたのです。
そのため、多くの子供たちが、空襲の犠牲となりました。たとえば、本所区、現・墨田区の菊川国民学校。この学校に在学していた子供たちは、千葉の東金などに、分散して疎開していましたが、6年生は3月初めに帰京し、東京大空襲に遭遇してしまったのです。6年生、およそ100人のうち、8割が、空襲に巻き込まれ、命を落としました。この菊川周辺は、東京大空襲の中でも、とりわけ、被害の大きかった地域です。錦糸町駅の南西、およそ500mほどにある、堅川(たてかわ)と大横川(おおよこがわ)の交わるところ。運悪く、このあたりには材木納屋が密集していました。
比較的、火の回りが遅かったこともあって、 菊川橋周辺には四方八方からの避難民が押し寄せて、 身動きできなくなっていました。
やむなく、川へ飛び込む人たちも、多かった。 そこへ、火がドッと押し寄せてきて、材木に燃え移り、 行き場のない人々の上に倒れ掛かってきたのです。
橋の上も、川の中も、どこを見回しても、逃げ場はありません。 結局、小さな橋の上で、三千人あまりが亡くなったのです。
また、なんとか菊川国民学校に逃げ込んだ人々にも、 悲劇が待ち受けていました。 講堂の屋根が焼け落ちてしまったのです。
火が納まった後、中には、数え切れないほどの、 死体の山が残されました。 この菊川橋から、北へ、およそ1キロの場所には、
旧・墨田電話局がありました。 当時、電話局は、軍の重要な通信拠点であり、 交換手たちは死んでも職場を離れるなと命じられていました。
そのため、職員は逃げ遅れ、十五歳から十八歳が中心の、 交換手たちを含む三十一人が殉職したのです。現在、NTT石原ビルとなっているその跡地の前には、
彼女たちの死を悼む慰霊碑が建てられています。 旧・本所区では、その96%が焼き尽くされ、 2万6千人余りが亡くなりました。
3月6日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「焼き尽くされた街」です。
昭和十九年から二十年にかけての、 東京での空襲の被害はどれほどのものだったでしょう。 百回以上B29が来襲し、
市街地の半分以上が焼き尽くされました。 そして、死者は合計で十二万人にも及ぶと推定されます。 被害の全貌が明らかにならなかったのには、いくつか理由があります。
戦争中は軍部が国民の戦意が低下することを恐れて事実を隠し、 また戦後も占領軍が報道を規制していたこと。
肉親の安否を確認することもできないまま、 地方へ疎開した人が多かったこと。 行方不明になったままの人は、失踪者とみなされたこと。
また、何よりも復興が優先され、被害の調査が ロクに行われないまま、瓦礫が処理されてしまったこと…。 翌日から、軍や警察、消防団、学生、さらには囚人までもが動員され、遺体はとりあえず、公園や寺院などへ「仮埋葬」されました。
仮埋葬、といえば、聞こえはいいですが、 とにかく大きな穴を掘って埋めてしまったのです。 仮埋葬された場所は、資料によってまちまちですが、
都内、現在の墨田区、江東区を中心に、およそ百箇所、合計八万人あまり。 最大規模の仮埋葬場所は、錦糸町駅北側の錦糸公園と、
南側の猿江公園で、それぞれ一万三千あまりが埋められました。 下町ばかりではありません。 たとえば、青山墓地には、およそ千八百。
駒込、六義園には、六百。 池袋、サンシャインシティ近くの日ノ出町公園に五百。 池上本門寺の本門寺公園に、六百。
代々木上原駅近くの大山公園に、百六十…。 これらの遺体は、昭和二十三年から二十六年にかけて、 再び掘り起こされて荼毘に付され、両国駅の北側、
墨田区横網にある東京都慰霊堂に収められています。この施設は、もともと関東大震災の犠牲者を 慰霊するためのものでしたが、戦後、空襲の犠牲者も合わせて収容することになりました。毎年、三月十日には、追悼のための法要が行われます。
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