2月23日(月)〜2月27日(金)
今週は、「うれしいひなまつり」。 江戸時代から盛んになった女の子のお祭り、
3月3日=桃の節句、「ひなまつり」にまつわる あれこれを、ご紹介して参ります。
2月23日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「ひな祭りの始まり」です。来週の火曜日、3月3日は、ひなまつり。 女の子のいらっしゃるご家庭では、お雛様を飾り、ちらし寿司やハマグリのお吸い物をこしらえて、お祝いをされるところも多いでしょう。この楽しい習慣が日本で始まったのは、平安時代のこと。もともとは中国から伝わってきたもので、「3月最初の巳(み)の日に、川や海で禊を行い、
無病息災を祈る行事」だったんだそうです。ところが、この季節、日本はまだ寒いところが多い。厄払いに出かけて、かえってカゼでもひいたんじゃたまらない。ということで、いつの頃からか、紙で小さな人間の形をこしらえて、それで自分の体を撫でる。
これ、どういう意味があるかと言いますと、撫でることで、病気やツキのなさをその「人間の形」…これを「人形」と書いて「ひとがた」と申しますが、その「ひとがた」に移しちゃうんですね。で、自分の身代わりの「ひとがた」を川や海に流して、それで、「禊」の代わりにしたという。なかなか人間らしい、イージーな習慣が元になっています。
この行事が、後に、女の子の健やかな成長を祈る、「ひな祭り」へと変わっていったのです。現在のような、お雛様の段飾りが始まったのは、江戸時代。二百五十年以上続いた、この平和な時期、江戸の人々は、日々の暮らしを楽しむ余裕を持てるようになりました。そこで、端午の節句や七夕、両国の川開きなど、現在まで続く数々の年中行事が生まれていったのです。「ひな祭り」も、その一つでした。女の子が生まれると、初節句に、嫁の里、あるいは親戚などが、雛人形をプレゼントする習慣が、このころ、生まれてきたのです。
人形を贈るためには、どこかで調達しなければなりません。そこで、江戸や京、大阪の町では、2月ともなりますと、初節句を迎える女の子にプレゼントするための、雛人形を売る「市」が立つようになります。現在、人形の街といえば、東京・浅草橋、
あるいはさいたま市の岩槻を思い浮かべますが、 江戸時代は何と言っても日本橋・十軒店。 現在の地名でいえば日本橋室町、
この十軒店の栄枯盛衰については、また、 明日、ご紹介いたしましょう。
2月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「人形の街 十軒店」です。
江戸時代に広まった、女の子の初節句に、 雛人形をプレゼントする慣わし。 18世紀に入ると、武家のみならず、
町人たちの間にもこの習慣は広まって、2月になると、 江戸市内のあちこちに雛人形を売る市… 「雛市」が立つようになりました。
中でも、もっとも栄えたのが、日本橋 十軒店の雛市。ここに市が立つのは、年に三回。雛祭りの前のほか、五月五日・端午の節句の前には、武者人形などが売られる市が立ちました。そしてもう一回は、年の暮れ、このときは、羽子板や手まりなどを主に商ったんだそうです。市の立つ時期になると、広〜い道路の真ん中に、二列に渡って、仮設の店が出来ます。浅草・浅草寺の仲見世、あれを想像していただくと、わかりやすいかもしれません。当時は年がら年中、歩行者天国ですから、こういうことも簡単にできたんですね。
「絵本江戸風俗往来」という本には、この十軒店の賑わいが、次のように描写されています。「…雛は毎年二月二十五日に始め、三月二日に終わる。この市場の混雑、昼夜おびただしく、
したがってケンカも起こり、懐中物を狙う盗っ人も多い。 さて、商人は人形の値段にとんでもない掛値を吹き出すこと実に巧みだが、客も承知の上だ。双方の駆け引きは当所の名物というべし。程よく折り合い、金子を渡さんとして懐中を探ると、巾着はいつの間にか盗まれていたりする。また、ようやく手に入れた人形が、ケンカに巻き込まれて傷つけられたりもする。田舎客の目の回る混雑である」明治に入ってからも、この十軒店の賑わいは続きました。
しかし、明治の終わりから大正時代ともなると、 節句前の凄まじい混雑ぶりは見られなくなっていきました。 これは、雛人形が百貨店で売られる季節商品の一つとなったから。
大手の百貨店では、毎年新作を発表し、話題を集めます。 雛人形は、路上の臨時マーケットで、駆け引きをしながら
手に入れるものではなくなっていったんですね。
2月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「江戸の雛風俗」です。
女性の皆さんが、かわいらしいお雛様を愛でるのは、 昔も今も同じことですが、 現在のような、雛祭りの形が出来上がってきたのは、
江戸時代以降です。 幕末に書かれた「守貞漫稿」という 本には、このような部分があります。現代語に訳すと、
「雛祭りの盛んなのは、市中の婦女のうち多くが、 大名に奉公した経験があるからで、 とかく大名のマネをしたがる。
とりわけ、女性に関係のある儀式は盛大にやりたがる」 徳川家、また諸大名の雛飾りは、 質素なものが多かったようですが、町人の場合は、やたら派手になる傾向が強かった。ゼイタクを戒めようとする幕府は、何度もお触れを出して、「豪華な雛飾りはまかりならん!」と、禁止しましたが、「きれいなお雛様を飾りたい」という、女性の願望を押さえつけることは不可能だったようです。
こうしたお触れのうち、もっとも有名なのは、老中・松平定信による「寛政の改革」のときのもの。このとき、雛人形の大きさが「八寸」…といいますから、およそ、24センチ以下と定められた。これ以上大きな人形は没収され、またお店は営業停止処分を受けることになりました。ところが、このお触れが、かえって、人形師たちの技量を高め、素晴らしい人形が作られる原動力になったのですから、皮肉なモノ。この時代、小さいけれど贅を尽くした、究極の雛人形が生み出されていったのです。八丁堀…といえば思い出すのが、必殺シリーズ、
藤田まことさんの当たり役、中村主水。 ドラマの中で、中村主水は「同心」という役職でしたが、 上役に当たる「与力」の家に生まれた原胤昭が、
江戸末期の八丁堀近辺の雛祭について書き残しています。
このあたりで嫁入りがあると、それから初めての桃の節句に、 たいそうな行列を組んで里から人形を運んだのだそうで、
「里方の紋、あるいは唐草模様を染め出した油単… (汚れを防ぐための、布製の覆いです)をかけた荷物が、 三つ、五つ、あるいは七つ、それに屏風。
若党が監督役となって、出入りの職人衆の親方たちが、 いずれも革羽織などを着て付き従う」 木やりなんか歌いながら、ゆったりと運んだんでしょうねえ。
ちなみにこれを飾る、飾り段の高さは実に九尺、 2・7メートルもあったんだそうです。
2月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「明治の雛風俗」です。
三月三日、「上巳(‘じょうし)の節句」は、 いわゆる「五節句」の一つ。ほかの四つはと申しますと、 一月七日の「人の日」と書いて「人日(じんじつ)」、
五月五日の「端午」、七月七日の「七夕(しちせき)」…これは七夕ですね、そして九月九日の「重陽(ちょうよう)」。この五つの日は、すべて江戸幕府の祝日であり、重要な行事が行われる日でした。もちろん民間でも、ひな祭りや端午の節句など、盛大なお祝いをしていたものです。ところが、明治新政府は、現在私たちが使っているカレンダーである「新暦」、いわゆる「太陽暦」を導入。と、同時に、それまで祝日であった、これら五つの節句を、廃止してしまったのです。
そして代わりに、神武天皇が即位した日とされる「紀元節」や、 明治天皇の誕生日である「天長節」などを祝日としましたが、
江戸改め東京の庶民たちは、今一つ、ノッてこなかった。 長い長い徳川幕府の支配のもと、生活にしみ込んだ年中行事のリズムは、
そう簡単に変えられるものではなかったんでしょう。 どんなに政府が無視しても、節句は節句。 中でも、女性たちの絶大なる支持のもと、
三月三日のひな祭りは、相変わらず東京市内の 一大イベントであり続けたのです。
明治時代のひな飾りがいかに豪華なものだったか。 神田駿河台、にあった、子爵・秋元興朝の屋敷。 こちらの七段飾りの飾りつけを、ご紹介しましょう。
一段目には、三対のお雛様が飾られます。 後ろには、もちろん、金屏風がデーンと控えます。 二の段。中央に官女と稚児、左右に護衛の武士、その他2体。
三の段。五人囃子が二組、左に桜、右に橘。 四の段。中央に護衛の武士、左にイザナギ・イザナミ、 大黒さまに恵比寿さま、弁天さま、右には高砂、鶴亀、そして扇子に犬張子。五の段にはズラリと調度類が並びます。棚が三つに挟み箱、長持、箪笥、硯、机、駕籠、牛車、碁盤に将棋盤にすごろくに化粧道具などなど、贅を尽くした精巧な細工物がこれでもかこれでもか、そして六の段、七の段には白酒や菱餅など供物の類。およそ考え付くモノをすべて並べ立てたという感じです。
2月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「ひな祭りのお楽しみ」です。
「旧暦」では、新月に当たる月初めと、満月の十五日の前後は、 「大潮」に当たります。 大潮、すなわち、潮の満ち引きの差がとても大きいこと。
潮干狩りにベストな時期であることは、 ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。 江戸の昔、大潮に近い三月三日は、ひな祭りであると共に、
「潮干狩りをする日」として知られていました。 冬が終わり、暖かくなり始めた江戸の海、 眺めもそれはよろしかったことでしょう。
品川沖、佃沖、深川・州崎といった 潮干狩りスポットは、大賑わい。 女性たちは、わざわざ潮干狩りのために袖を短くした、
「潮干小袖」という着物まで誂えて海へと向かったんだそうですから、気合、入ってますよね。
もともと、三月三日は、水辺に出て、厄払いの禊をする日。 そんな慣わしが、江戸時代になって「潮干狩り」へと、
転じていったのかもしれません。 そして、ここで採ったハマグリが、 ひな祭りのお祝いの御膳、お吸い物の中身となったわけです。ひな祭りの飲み物といえば、「白酒」。もち米を蒸したものを大きな桶にいれ、そこにみりんを混ぜた後、挽き臼ですり潰したものです。もっとも有名なのが、神田鎌倉河岸の豊島屋の白酒。ひな祭りが近づくと、それはそれは大変な混雑だったそうで、「絵本江戸風俗往来」によれば、「白酒の売り出しは店前の人、山をなし、我れ先にと争い求む。
店では、入場制限を行って、入る客と出る客を数える。 中には余りの人出に卒倒する客もあり、 店ではあらかじめ医者や気付け薬を用意しているほど。
空になった樽をお堀端へ並べると、店の前から神田御門まで、 まるで樽で堤が出来ているかのような眺め」。お店の前には、人止めのための柵までできていたそうです。実は、この豊島屋さん、現在もちゃんと営業しておりまして、この時期になると白酒も販売していらっしゃいます。
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