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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月13日(火)〜1月16日(金)
今週は、「富士山イン東京」。 冬空にくっきりそびえ立つ、美しき霊峰・富士。
東京から見える、あるいはかつて見えていた「富士山」にまつわるあれこれを集めてお送りします。

1月12日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

1月13日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「富士の見える富士見坂」です。
すっきり晴れた日が続いた今年のお正月。 見事な富士山の眺めを楽しまれた方も、多いことでしょう。 標高3776メートル、日本一の山・富士山。 太田道灌の、 「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」 …という、有名な歌にもあるように、 かつての江戸・東京は、この富士山に抱かれた町でした。 都内各地に「富士見」「富士見台」「富士見が丘」…といった 地名があることからもおわかりでしょう。富士山は、江戸っ子たちの自慢の景色だったのです。 しかし、高度成長期を経て、大気汚染が進んだこと。 また、街中のあちこちに背の高いビルディングが 立て込んできたことなどから、 いつしか、東京二十三区の中で富士山を見るのは、 カンタンなことではなくなってしまいました。 ましてや「富士見」と名づけられた場所の多くは、 もともと眺めのよい土地だけに、 次々に高層マンションなどが建築されてしまいます。 地名の通りに、富士山の眺めを楽しむことは、 ほとんどの場合、難しくなってきているのです。
そんな中、残された、数少ない「富士山の見える富士見」が、 荒川区日暮里の「富士見坂」です。 このあたり、江戸の中でも眺めのよいことで知られた一帯で、 太田道灌が見張り台を設けていたことでも知られています。 山手線の内側、日暮里駅と西日暮里駅のちょうど真ん中辺から、 谷中方面に下りていくのが、この「富士見坂」。 今から十年前の平成十一年(1999年)までは、 左右の稜線が美しく見えていました。 その後、マンションが立て込んできたために、 現在では左側が途中でさえぎられてしまいます。 それでも、冬場の美しい富士山の景色は、 多くの人々を捕らえて放しません。
中でも、この場所が、賑わいを見せるのは、 毎年一月と十一月に「ダイヤモンド富士」が見られるとき。 これは、富士山頂に夕陽が沈む景色のことです。 今月、二十八日から三十一日にかけて、天気さえよければ、 この神秘的な眺めを楽しむことができるはずです。 もっとも、当日は、たくさんの人たちがこの狭い場所に押しかけますから、なかなか、じっくり観察する…というわけにも、いかないようですが…。

1月14日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「江戸っ子の好きな富士山」です。
縁起のいい初夢といえば「一富士 二鷹 三ナスビ」。 なぜこの三つが縁起がよいのか、 これについては様々な説がございますが、 一説によれば、どれも徳川家康が好んだものだったとか。 鷹、ナスビはともかくも、富士山に関しましては、 確かに縁起がいいモノのように思えます。 十八世紀から十九世紀にかけての江戸時代には、 「富士講」というものが流行いたしました。
これは、富士山そのものを神様として崇めるもので、 あまりの流行ぶりに、幕府が何度も禁令を出したほど。 その教えは、富士山に登ることで、 健康や幸せを得ることができるというものです。 登山というレジャーを行うことで、ご利益がある。 これは、人気が出るのもわかりますよね。 本来は、実際に富士登山を行うことが必要とされましたが、 そうは申しましても、富士山に行くのは一大事業。 そこで、近所に富士山の溶岩を使った、 ミニチュアの富士山をこしらえて、現地に行けない人は、 とりあえずそこに登ればご利益があるとされました。 これが、各地の神社などに残されている「富士塚」です。
江戸っ子はとにかく富士山が大好きでした。 たくさんの浮世絵のテーマにも、富士山が選ばれています。 中でも定番のアングルの一つが、日本橋、 駿河町から見た富士山の眺め。 道の両側に越後屋呉服店、現在の三越の立派な店が立ち並び、 そのまっすぐ奥に江戸城、さらにその奥にデーンと富士山が控えている。日本橋界隈の町並みは、どこからも富士山が見えるように計算されて作られていましたが、中でも富士山の真正面にあることから、このあたりは「駿河町」と名づけられました。現在の場所でいえば、左側に三越本店、右側に三井タワーというロケーション。「呉服屋の切通しから富士が見え」こんな古い川柳も残されているほどです。

1月15日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「富士山と葛飾北斎」です。
きのうも、富士山は、浮世絵にしばしば描かれた…という お話をいたしましたが、 富士山を描いた浮世絵アーティストで、 広重と一、二を争う人気者…といえば、 やはり「葛飾北斎」ではないでしょうか。宝暦十年(1760年)、江戸・本所に生まれた北斎は、とにかく絵を描くのが、好きで好きでたまらなかった。八十九歳という、当時としてはたいそう長生きした、世界でもっとも有名な日本人画家の生涯については、いずれまた改めてお話したいと思います。
さて、北斎の代表作が「富嶽三十六景」。 これは、様々なアングルから富士山を描いた連作モノで、 いわゆる「赤富士」を描いた「凱風快晴」や、 大きな桶を作っている職人さんの向こう側に富士山が見える 「尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」など、 数多くの名作が含まれ、輸出されたヨーロッパでも 大変な反響を巻き起こした連作です。
1831年頃から出版が始まったこのシリーズ。中でも人気が高いのが、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」。大きくうねる波に翻弄される舟、その向こう側に富士山を描いた一枚です。ゴッホを始めとした印象派の画家たちに、北斎の作品が大きな影響を与えた…というのは有名ですが、実は美術だけでなく、音楽の世界にも、浮世絵は大きなインスピレーションをもたらしていました。
ドビュッシーの交響詩「海」。 ドビュッシーがこれを作曲したのは1903年ごろですが、 彼は、仕事場の壁に、北斎の「神奈川沖浪裏」を飾り、 それを見ながら曲のヒントを得た…と言われています。そして、絵の一部を、出版された楽譜の表紙に使いました。

1月16日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「太宰治と林芙美子、それぞれの富士山」です。
富士山を描いた、もっとも有名な文学作品といえば、 以前もこの番組でご紹介した事のある、 太宰治の「富嶽百景」でしょう。 「富士には月見草がよく似合う」この文章がおなじみですね。 これは、富士山に近い河口湖、御坂峠の描写。 今週のテーマは「富士山イン東京」ですから、 その頃、彼が暮らしていた東京、荻窪から見えていた 富士山の描写をご紹介しましょう。
「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である」「三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。 一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左の方(ほう)にちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆(しつく)し、『おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや』など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない」
さて、太宰治にさかのぼること、およそ十年。 フタムラ・テイイチの「アラビアの唄」が 流行っていた昭和三年、森光子さんの舞台でおなじみ、 林芙美子「放浪記」の雑誌連載が始まりました。 女一人、東京でたくましく生き抜いていく芙美子は、 富士山をどんな風に見ていたのか。 最後に、彼女の、きっぱりとした決意表明をお聞きください。 「十一月某日 /富士を見た/富士山を見た/赤い雪でも降らねば/富士をいゝ山だと賞めるに当らない。あんな山なんかに負けてなるものか汽車の窓から何度も思った徊想/尖った山の心は私の破れた生活を脅かし/私の瞳を寒々と見降ろす。 富士山よ!/お前に頭をさげない女がこゝに一人立っているお前を嘲笑している女がここにいる 富士山よ/富士よ!/颯々(さっさつ)としたお前の火のような情熱が/ビュンビュン唸って/ゴウジョウな此の女の首を叩き返えすまで私はユカイに口笛を吹いて待っていよう」

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