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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月1日(木)〜1月9日(金)
あけましておめでとうございます。 本年も、どうぞこの番組をよろしくお願いいたします。
さて、きょう元日と、来週一杯お送りいたしますのは、 「東京1909」。
お正月企画といたしまして、今から百年前の東京では どんなことが起きていたのか、ご紹介して参ります。

1月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「1909年のお正月」です。
1909年と申しますと、明治四十二年。 日清、日露、二つの戦争を終え、 第一次世界大戦までには、まだ少し余裕のある頃。 日本も、世界も、なんとなく落ち着いていた時代、と。 いうことができるのではないでしょうか。この年に生まれた方には、どんな方がいらっしゃるでしょう。皆様、ご存命であれば、今年百歳だったはずの皆さんです。プロ野球選手、巨人軍監督も務めた水原茂さん。映画評論家、淀川長治さん、そして小森和子さん。漫画家、横山隆一さん。 作家、太宰治さん、そして松本清張さん。 この二人、同い年だったんですね! 俳優で、加山雄三さんのお父上、上原謙さん…。 こうした方々が、明治四十二年生まれの同級生で いらっしゃいます。
さて、今から百年前のお正月はどんな様子だったか。 元日の模様を報じた、一月二日の、 東京朝日新聞の記事からご紹介して参りましょう。 まずは、「初日の出」。 記者は、ここ文化放送からもほど近い、 愛宕山からの初日の出の模様を、詳細にリポートしています。「愛宕山へ上ったのが六時十分頃、日の出前、三、四十分。 品川の海が眼下に白々と見えてきた。 カモメかと思ったは、帆を張った船で、 それが真(しん)に四海波静かな新年の海上を走っている。 五分、十分。初ガラスが勇ましく森を飛び出す。 各所の煙突から煙が昇る。 活動の気が満ちてくるうちに、雲はようやく溶け始めて、 金光一閃雲間を射る。 ここに明治四十二年の円満な初曙光を輝かし来たのである」 愛宕山から品川の海。こんな景色が見えたんですね。
続きまして、「元旦の市中」。 「天候は、朝のほど、少しく曇り。 九時という頃、宇都宮界隈大風雪の報を聞くと等しく、 市中には初アラレはらはらと降りきたりぬ。 これも、しばしにてやめば、やがて千里同じ風と 吹きしきる強風の勢いに雲はいずれにか姿を納めて、 日本晴れの好天気。 朝日の光に金糸燦爛(さんらん)たる大礼服(たいれいふく)の軍人・官人、りりしく宮城に登るあれば、可憐なる童男・童女…要するに子供たちですね、君が代を歌うべく学校指して急ぐあり」 「総じて市中は一体に平穏。見渡す限り静かなる元日。 寒い元日とて、飲み仲間は一室に温まる」 寒かったけれど、天気もよく、まずまずのお正月、 といったところでしょうか。

1月5日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「元日あれこれ」です。
今から百年前のお正月の様子。 明治四十二年(1909年)1月2日付、 東京朝日新聞の記事からご紹介してまいりましょう。 まずは、「元旦の二重橋」。 新年のご挨拶のため、宮城、現在の皇居に、 政府要人が次々と到着する様子のリポートです。 「午前八時五十分ごろより、参内者の車馬、 相次ぎて桜田門を入る。 各皇族大臣、大将らの威儀を正して二重橋上を過ぐる光景は 絵の如く麗しく、絵よりもおごそかである。 特に衆人の目を引いたのは、毎年必ず白馬にまたがり、 粛々とした痩躯白髯(そうくはくぜん)の乃木大将であった」 さて、打って変わって庶民はどんな様子だったか。 「長屋の元旦」をのぞいてみることにいたしましょう。 「本所区の郷横川町」と申しますから、 現在の本所吾妻橋、押上駅の南側あたりになりますでしょうか。
「五十八番地の共同長屋は、本所深川を通じての大長屋で、 住居は百三十余戸。 朝夕の賑わいは、魚河岸の賑わいも彷彿たり。 この長屋で大晦日の夜遅くまで稼ぎ、夜明け頃戻り、 女房に財布を投げ出し、元旦の餅を買わせた者が若干ある。 入り口の家をのぞくと、一枚の布団に親子三人が 潜り込んで寝ていたが、女房は若水を汲みに出た。 次の家は独り者で、棚に一銭の供え餅と若松と松飾が並べられ、 大将、まだ熟睡中である。 一軒の破れ障子から焼餅の香りがプンとするので覗き込むと、 三十四、五の女房が 『この餅は、昨日頂戴して参りましたので、 子供が早く起きて食べております』という。
その子供は五歳の女と三歳の男の子。 たちまち五つ六つ平らげて表へ遊びに出かけたが、 寒気に震え上がってすぐに逃げ帰った」 百年前は、こんな落語のような光景が、 まだ東京の中で当たり前に見られたんですね。 落語のような、といえば、「吉原」。 明治四十二年、1909年、酉年、 吉原のお正月は、どんな具合だったでしょう? 「数年来、引き続いての不景気をトリ戻さんと、 吉原は酉年を当てこみて奮発。 大門(おおもん)へは、十六、七年ぶりの本飾りをなし、 茶屋、貸し座敷、ともに手ぐすね引いて待ち構えおれり。 されども、茶屋受けの客は年毎に減り、 九十六、七軒ありし引手茶屋は酒屋、汁粉屋、天麩羅屋等に 変じて、今は七十三軒。 貸し座敷ならではの春の趣向も、さらに振るわず。 面白き春とも思われぬように見受けられる」 引き手茶屋は、お客様にお姉さんを紹介するところで、 貸し座敷は、実際にお客様とお姉さんが遊ぶ場所ですが、 この頃、不景気が長いこと続いておりまして、 バアーッと遊ぶお客様も少なかったようでございます。

1月6日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
  今日のお話は、「明治四十二年の石川啄木」です。
明治四十二年、1909年。 この年、詩人、近藤朔風(さくふう)が、 楽譜集「女声唱歌」を出版。 それまで、海外の曲を日本に紹介するときは、 原語とはまったく関係ない、日本独自の歌詞をつけることが 多かったそうです。 ところが、近藤は、原曲の歌詞に忠実な「訳詩」を提案。 もともとのニュアンスを生かしつつ、 美しい日本語の響きを歌に乗せて、女学生たちに愛されました。 さて、本日の主人公は、石川啄木。 この方もまた、美しい日本語を駆使して活躍した詩人です。 啄木は、明治四十二年(1909年)1月1日に出た、 文芸雑誌「スバル」創刊号の発行人となっておりました。
この雑誌には、森鴎外や与謝野鉄幹、晶子らが参加。 高村光太郎、北原白秋らの活躍の場となりました。 石川啄木は、当時、二十三歳。 文学で身を立てようとしておりましたが、生活は苦しく、 この年、必死に就職活動を行い、朝日新聞の校正係となります。 月給は、二十五円。北海道で別れて暮らしている、 妻子を呼び寄せて暮らすには十分な額でした。 しかし、次々に作品を発表するものの評価されず、 悶々とした日々を送っていたこともあり、 彼は東京での自暴自棄な独身生活を続けていたのです。この年、啄木が書いていたのが、有名な「ローマ字日記」。 浅草で連日、遊んだときの模様が詳細に記されており、 妻に読まれないよう、ローマ字で書いたものです。 放送できないような内容もたくさん含まれておりまして、 興味のある方は、原文に当たっていただきたいと思いますが、 ほんの少し、ご紹介いたしましょう。
「そんなら何故この日記をローマ字で書くことにしたか? 何故だ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ、 「狭い、汚いうちだ。よくも見えなかったが、壁は黒く、畳はくされて、屋根裏が見えた。「二畳ばかりの狭い部屋に入ると、床が、敷いてあった。「余は目も細くなるほど、うっとりとした心地になってしまった。 「嫌よ、そんなに私の顔ばかり見ちゃ」と女が言った。 「若い女の肌は、とろけるばかり暖かい。 隣室の時計は、カタカタと鳴っている。 「ただうっとりとして、女の肌の暖かさに自分の身体まであったまってくるように覚えた。 「1時間がたった。夢の1時間がたった。 余も、女も、起きてタバコを吸った。」 このとき、啄木の体は、もう結核に蝕まれていました。 しばしば喀血しながらも、遊びは止まらず、 新聞社にも行ったり、行かなかったりという日々。 残された寿命は、あと三年ほどしかありませんでした。

1月7日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「愚連隊と仕立屋銀次」です。
今から百年前、明治四十二年(1909年)。 この当時、世間を騒がせていた存在に「愚連隊」があります。 ぐれる、即ち、わき道にそれる…という意味から、 「ぐれる隊」が「ぐれん隊」となり、 後に「愚か」が「連なる」という字を当てるようになりました。百年前、明治四十二年頃になると、取締りも激しくなってきたようです。
この年の九月、新聞「万朝報(よろずちょうほう)」には、横浜方面での愚連隊の消息が出ております。「横浜における不良少年、堕落学生、不生産的人物の詰め合わせる団体組織の愚連隊は、根拠地を戸部、本牧、中村町方面に置き、婦女子をいじめ、喧嘩を吹きかけ、刃物を持って威嚇し、尻をまくってユスリをなすなど、あらゆる暴悪をあえてし、世人を苦しめおりしが、各署が厳重に警戒をなし、新刑法実施と共に容赦なく拘引検束し、懲戒を加えたるため、昨今はきわめて平穏、やや安堵の色見えたる折柄、今度は女愚連隊が戸部町に現れ、盛んに姿勢を張らんとする悪兆あり。その筋にて目下厳戒中!」とあります。さて、この年、愚連隊と共に、世間を騒がしたのが、列車や電車の中で荒稼ぎをしていたという、スリの大親分、仕立屋銀次。本名、冨田銀蔵。もともとは腕のいい、カタギの仕立屋だったそうですが、内縁の妻が、スリの親分の娘だったため、その跡目を継ぐことになった。もともと仕立屋で手先も器用でしたから、めきめき頭角を現し、裏社会ではその名を知らぬもののない大親分に出世。全盛期には60軒もの家を建て、250人に及ぶ子分を抱えて住まわせていたそうです。
警察ともべったり癒着して、わが世の春を謳歌しておりましたが、この年、子分の一人が、新潟県知事の金時計をすり取った。実は、この時計が、伊藤博文公から贈られたものだったため、騒ぎが大きくなり、親分である銀次も、とうとう6月23日に逮捕されてしまったのです。印半纏姿に変装した赤坂署の警官、およそ百人余りが上野の西郷さんの前に集結。日暮里の大邸宅を包囲して、署長自らが手錠をかけました。警察が押収した盗品は一万八千点に上り、掏摸の被害者達からの感謝状は百通を超えたと言われています。

1月8日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「山手線と味の素」です。
山手線の始まりは、東北線と東海道線を連絡させるため、 赤羽から池袋、新宿を経て品川までを結んだ鉄道、品川線。 この路線が開通したのは、明治十八年、1885年のことでした。 後に、鉄道が国有化され、今から百年前、
明治四十二年、1909年10月に、品川と赤羽の間、 そして途中の池袋から分かれて田端までの間をまとめて、 「山手線(やまのてせん)」と呼ぶことになりました。 そして二ヵ月後の十二月、品川から烏森、 現在の新橋までの間が開業し、同時に電車が走り始めます。 山手線のルートでいえば、新橋から上野までが開通したのが、 ちょうど百年前という訳で、まだ東京駅は影も形もありません。 現在のような環状運転が始まるのは、ずっと後、 大正十四年(1925年)のことになります。さて、当時の流行語が「ハイカラ」。 洋行帰りの人々が、揃って襟=カラーの高いシャツ、 「ハイカラー」のシャツを身に着けていたことから、 その気取った様子をからかうために用いられたのが最初。後に、流行を追ったり、目新しいものを好んだりする人を、 「ハイカラさん」と呼ぶようになったのです。
さて、当時の食生活に目を転じてみると、 この年、発売され、そのハイカラさで注目されたのが、 「味の素」です。 もとは、東京帝国大学の池田菊苗博士が、コンブのうまみの正体を探ろうとして発見した物質、「グルタミン酸」。妻の手料理の湯豆腐を食べたとき「なぜ、こんなにうまいのか」と考えたのが、研究の出発点でした。それまで確認されていた四つの味覚、あまい、にがい、しょっぱい、すっぱい…このほかに、 「うまい」という第五の味覚が発見されたのです。
博士は明治四十一年、製造法の特許を取得し、 味の素の創業者、鈴木三郎助に商品化を依頼。そして今から百年前、明治四十二年 1909年の 5月20日に、一般発売がスタートしました。 新聞広告はもちろん、折込チラシや宣伝楽隊などを使った、 積極的なプロモーションが功を奏して、 この新しい調味料は広く親しまれるようになり、 現在では世界90カ国以上で便利に使われています。 明治四十二年は、世界の食生活にとって、 エポックメーキングな年でもあったのです。

1月9日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「ロシアパンがやってきた!」です。
今から百年前、明治四十二年(1909年)、 この年の大ヒット商品が「ロシアパン」。 日露戦争が終わってまだ四年しか経っていない時代ですから、 「ロシア」という名前に親しみもあったのでしょう。 このロシアパン、ふんわり甘い菓子パンで、 蜜や砂糖をつけなくてもおいしく食べられることで 人気を集めたんだそうです。 火付け役は、牛込の大隈福三郎さんという方で、 北海道から本物のロシア人を連れてきて、レシピを教わった。 首から駅弁販売員のようなボックスを提げさせて、 中にパンを入れ、自分たちで売りに歩かせたんですね。 「パン〜 パン〜」と売り声を上げながら、 外国人が行商にやってくれば、いったい何事か…と、 人々は寄り集まって参ります。 パンの値段は、1個5銭。 うち、ロシア人の歩合は16%の8厘でしたが、 一日に6円から8円も、儲かっていたそうですから、 毎日千個近くのパンが売れていた勘定になります。
さて、パンといえば、この明治四十二年、 忘れてはならないのが「新宿中村屋」です。明治三十四年(1901年)、本郷の東大正門前で、 パン屋さんとして創業したのが、その始まり。 明治三十七年には、シュークリームからヒントを得て クリームパンを考案し、大ヒットさせています。 明治四十年には、新宿追分に支店を出し、 さらにその二年後、今から百年前の明治四十二年、 新宿東口の現在地に引っ越して参りました。 二百六十坪の土地に四軒の家が建っていて、 価格は三千八百円。 当時の金にしても、そうとう高価でしたが、事業拡大のため、 思い切って買い取ることに決め、店と工場を作りました。 で、この中村屋でも、ロシアパンを売り出し、 これまたヒット商品となったそうです。 新宿中村屋には、多くの文化人が集うようになり、 いつしか「中村屋サロン」と呼ばれるようになりますが、 その中の代表的な一人が彫刻家の荻原碌山。 彼の残した彫刻家を集めた、信州・安曇野の碌山美術館は、 観光名所となっていますから、ご存知の方も多いでしょう。
碌山は現在の新宿西口ロータリーのあたりにアトリエを建て、 明治四十一年からおよそ二年の間、「文覚」「女」などの 傑作を次々に制作しながら、毎日、中村屋に通いました。 そして明治四十三年四月、中村屋で大量の血を吐き、 そのまま、帰らぬ人となったのです。 三十歳五ヶ月の、短い生涯でした。

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