番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月22日(月)〜12月26日(金)
今週は、「クリスマス・ストーリーズ」。
幕末から戦前にかけての、江戸・東京で起きたクリスマスをめぐる話題を集めてお送りします。

12月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
 初日のきょうは、「クリスマスツリー事始」です。
1853年(嘉永六年)。江戸幕府は、二百年以上に渡る鎖国をやめ、欧米諸国に門戸を開くことになりました。アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなど、世界各国の使節が江戸を目指して海を渡ってまいります。すると、欧米の様々な生活習慣も、日本にどーっ…と流れ込んでくることになるわけです。代表的なものの一つが、「クリスマス」でしょう。万延元年(1860年)の十二月。プロイセン、現在のドイツに当たる国の公使、オイレンブルク伯爵は、とても気さくな、
もてなし好きな方でした。当時の江戸は、外国人と見るや刀を抜いて襲いかかってくる、物騒な浪人がウヨウヨしていました。そんな殺伐とした雰囲気の中、せめてクリスマスだけでも明るく祝おう…と、各国の外交官仲間を集めて、パーティーを開くことに決めたのです。
と、なると、必要なのが、クリスマスツリー。現在の我々であれば、「クリスマスツリー」といわれれば、その姿、かたちを簡単にイメージすることができますが、当時の日本人にとっては、もう、訳が分かりません。伯爵の命を受けた「クリスマス担当委員」たちは、身振り、手振りで一生懸命説明しますが、どうにもうまく伝わらない。出入りの日本人が持ってくるのは、小さな木ばかりです。「これは自分たちで探しに行かなければどうしようもない…」委員は自ら馬にまたがり、江戸中の植木屋を探し回って、ようやく樅の木に似た、立派な針葉樹を見つけてきました。そして建物の中からすべての障子を取っ払い、大量の樹木や花で壁という壁を覆って部屋をデコレーション。天井には竹を差し渡してちょうちんを吊り下げ、見事なパーティ会場をこしらえたのです。
プロイセンの外交団が残した記録の一節をご紹介しましょう。「準備そのものが、まるで祝典だった。 五人の水兵が、そのために働いた。はじめは不器用だったが、 だんだんと情熱を込め、早朝から夜遅くまで何日も費やした。 準備は当日になって、やっと完成した。 すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、 オレンジや梨がたくさんそれにぶら下がっていた。華やかな紙の装飾もあった。また精巧な砂糖菓子やロウソクも木に付けられるだけ、付いていた。これが江戸における最初のドイツ風クリスマスだった。再び行われることがまずないような、明るく輝かしいものだった」招待された外交官たちは、異国でのクリスマスに大喜びし、つかの間の安らぎを得ました。しかし、それから僅か半月後。このパーティに招かれた一人、アメリカの外交官、ヘンリー・ヒュースケンは、攘夷を叫ぶ浪人に襲われ、命を落としてしまいます。

12月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

12月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「サンタクロース第一号」です。
クリスマスイブでございます。 今夜、よい子の皆さんのもとには、サンタクロースがきっと素敵なプレゼントを持ってきてくれることでしょう。さて、サンタクロースが初めて日本に出現したのは…と、申しますと、これは明治七年(1874年)のこと。ところは、築地の外国人居留地にあった「東京第一長老教会」です。この年、日本人の信者…まあ、早い話が、新し物好きな、江戸っ子の皆さんなわけですが、この人たちがクリスマスパーティを行うことになった。用意されたクリスマスツリーは、見事な「ヒノキ」。高さ三間といいますから、およそ5m40センチ!飾りつけは、金銀を含む色とりどりの折り紙、網のように切った紙、短冊や色紙、さらに金色の糸で花かんざしを吊り下げた。まあ、七夕の笹と大差ないわけでございます。会場の中は、大量に用意されたヒノキの葉っぱと、みかんでキレイにデコレーションが施されており、また中央にはみかんで作った大きな十字架が飾られました。
大きさは縦横2間、3m60センチ…これ、そうとう沢山のみかんを使ったんじゃないでしょうか。ところが、会場を下見に来たスコットランド人のお医者様が、「みかんで十字架など、ふざけすぎじゃ!」と激怒、即刻取り外すよう命じたため、みかんは下におろされ、教会の外に捨てられました。すると近所の子供たちが「みかん撒きだ!」と、大喜びで駆け寄ってきた…と伝えられております。さて、場内には、サンタの登場を盛り上げるため、近所の劇場、新富座から借りてきた、本式の「落とし幕」が用意されました。いったい、どんな趣向なんだろうねえ…と面白がって、役者の皆さんも見物に訪れたそうです。
チョーン! という拍子木に合わせて幕が落ちると、 登場したサンタクロースは、なんと麻の裃に黒紋付の小袖、
腰には大小…と申しますから、これはお殿様の姿。 頭には黒ビロウドで縁取った、緋鹿の子の大黒頭巾。 あの、大黒様の被ってるような頭巾の赤いやつに、 黒い縁取りがついている、とお考えください。 この催し物を企画したのは、もと八丁堀の与力で、後に、 日本を代表する社会奉仕活動家となる原 胤昭(はら・たねあき)。 原は後年、 「神武このかた、誰も彼も未だかつて見たことのない壮観、拍手喝采、鳴り止まなかった」と回想しています。 どんなパーティだったのか、見てみたかったですね!

12月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「イルミネーションが始まった!」です。
最初は手探りで始まった東京のクリスマス。 しかし、そこはお祭り好きの江戸っ子でございます。明治も半ばを過ぎて参りますと、年中行事として次第に定着して参ります。 さて、クリスマスのいちばん似合う街…といえば、 やはり「銀座」ということになるのではないでしょうか。 銀座で、クリスマスのイルミネーションが始まったのは、 明治三十七年(1904年)のこと。 この年、おなじみの食料品店、明治屋が、 日露戦争、最大の激戦地である二百三高地での勝利と、店舗の増築を祝って、ツリーを美しく飾りつけ。東京中の話題となりました。 これは、創業者の磯野計(いその・はかる)さんが、 留学先のロンドンで見た、クリスマス・デコレーションを、 自分の店でも再現しようと計画したものです。「明治屋のクリスマス」は、すぐ東京名物となりました。
次の年の新聞記事をご紹介しましょう。「降誕祭も近づき、新年も目の前となりたれば、 京橋区銀座二丁目明治屋にては、この十五日以来、 クリスマス飾りをなじ、店の内外には無数の花電灯。 ツリーには美麗珍奇な品々を添えて装飾の趣向を凝らし、売品にはクリスマス用、年末年始用の贈答品、食料品などを陳列。二、三十銭にても目新しき品を得られるよう、諸事、廉価と手軽を旨とする」明治屋に行けば、いい品物が安く手に入る上、趣向を凝らしたクリスマスツリー見物もできる…というので、東京中から人が押し寄せ、大変な騒ぎになったようです。当時の明治屋は、今で言う六本木ヒルズか東京ミッドタウンか、といった人気スポットだったんですね。で、一箇所が成功を収めれば、われもわれも…と、やり方を真似するお店が続出するのは、世の習い。銀座の名だたるお店がこぞってクリスマス飾りを始めた。もう明治の末から大正、そして昭和初期にかけて、このあたりの年末の賑わいといえば、凄まじいものだったようでございます。
続けて、大正十四年(1925年)の新聞記事をご紹介します。「暮れ近き街々に、クリスマスの装いが出来始めた。雪降り積む家の煙突から、オモチャの溢れ出す三越の飾り。鳥居に蝶や花が咲き乱れた亀屋の装い。そのほか伊東屋、明治屋など大きい店々の飾りも、すべて美しく出来上がるであろう。気の早い東京人の常、十二月一日となったばかりで、もう目抜きの街々には歳末気分がみなぎり出した。銀座松屋ではホールの中央に高さ三十尺のXマスツリーを設け、数百の五色の電球で華やかに飾り、遥か高いステンドグラスから数十条の装飾紐が垂れ下がってあの大ホールを貫き、壮美華麗を極めた東洋一の大デコレーションが燦然と輝いている。周囲にはサンタークロースを始めハウスストッキング、その他色々のプレゼントを美しく陳列して、坊ちゃん嬢ちゃんの気をひいている」

12月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「文学の中のクリスマス」です。
年中行事としてのクリスマスが、日本に定着したのは、 明治の末ごろのこと。実は「クリスマス」は、初めて俳句の季語に取り入れられた、カタカナの言葉でもあります。明治二十九年(1896年)に詠まれた正岡子規の句をご紹介しましょう。 「八人の 子供むつまし クリスマス」 さて、続いては、およそ三十年後の、芥川龍之介の短編、 大正十三年(1924年)の作品、「少年」の一節です。「昨年のクリスマスの午後、堀川保吉は須田町の角から新橋行の乗合自働車に乗った。彼の席だけはあったものの、自働車の中は相変わらず身動きさえ出来ぬ満員である。」 主人公の隣には、メガネをかけた、大柄なフランス人の 宣教師が座っていました。
宣教師は、途中で乗ってきた 少女に席を替わってやり、会話を始めます。「きょうは何日だか御存知ですか?」「十二月二十五日でしょう。」「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」「ええ、それは知っているわ。」「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」「きょうはあたしのお誕生日。」「きょうはあなたのお誕生日!」 宣教師は突然笑い出した。「お嬢さん。あなたは好い日にお生まれなさいましたね。きょうはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするお誕生日です。あなたは今に…あなたの大人になった時にはですね、あなたはきっと……」 宣教師は言葉につかえたまま、自働車の中を見廻した。同時に保吉と眼を合わせた。保吉はその幸福に満ちた鼠色の眼の中にあらゆるクリスマスの美しさを感じた」
では最後に、科学者であり、エッセイストとしても有名だった、寺田寅彦の文章をご紹介しましょう。昭和八年(1933年)2月に書かれたエッセイ、「銀座アルプス」の一節。「世にも美しいながめは雪の降る宵の銀座の灯の町である。あらゆる種類の電気照明は積雪飛雪の街頭にその最大能率を発揮する。ネオンサインの最も美しく見えるのもまた雪の夜である。雪の夜の銀座はいつもの人間臭いほこりっぽい現実性を失って、なんとなくおとぎ話を思わせるような幻想的な雰囲気に包まれる。町の雑音までが常とは全くちがった音色を帯びて来る。ショウウィンドウの中の品々が信じ難いような色彩に輝いて見えるのである。そういうときに、清らかに明るい喫茶店にはいって、暖かいストーブのそばのマーブルのテーブルを前に腰かけてすする熱いコーヒーは、そういう夢幻的の空想を発酵させるに適したものである。中学校で教わったナショナルリーダーの「マッチ売りの娘」の幻覚のように、大きなクリスマストリーが神秘的に光り輝く霧の中に高く浮かみ上がる」


PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター