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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月1日(月)〜12月5日(金)
今週は、「川口歴史探訪」。荒川を挟んだ東京のすぐ北側、 文化放送の送信所もございます、
埼玉県・川口市の 歴史にまつわるエピソードをご紹介します。

12月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

初日のきょうは、「関東郡代・赤山陣屋」です。
京浜東北線に乗って、赤羽を過ぎ、 鉄橋を渡って荒川を越えると、そこは川口。 一大消費地である江戸、後の東京にごく近いということで、 ここ川口は、古くから様々な産業が発展してきました。 川口、その昔の地名は上に「小さい」という字がついて、 「小川口(こかわぐち)」というものだったんです。 地名の由来は、この番組でも何度もご紹介していますが、 ほんの六千年ほど前まで、東京湾はこのあたりまで来ており、 その頃、旧・入間川、現在の荒川の河口が このあたりにあったことによる、といわれております。 それが、「小さい」が取れて、ただの「川口」になったのは、 徳川二代将軍・秀忠によるものと言われているんですね。 元和(げんな)二年、1616年に徳川家康が亡くなり、 翌年、日光の東照宮に葬られることになります。 すると、川口は、歴代の徳川将軍が、日光に参詣する際の、 休憩所として使われることになったんですね。 で、元和八年(1622年)に秀忠公が、 「将軍が休憩する場所に『小』という字はいかがなものか。
以後、この土地は、『小』を取って、 『川口』と呼ぶようにいたすがよい」と、鶴の一声。 以後ここは、ただの川口になった、と、伝えられております。 さて、その秀忠将軍の次、三代・家光公の時代でございます、 当時、このあたりは大名の領地ではなく「天領」でした。 つまり、徳川幕府の直轄地だったわけなんですが、その行政官である「関東郡代」…郡は行政地域、「なになに郡」の郡、代は「お代官様」の代と書きますが、その「関東郡代」の役所、「赤山陣屋」が、川口に設けられます。役所とは申しましても、敷地、実に二万四千坪、敷地の外側には堀が巡らされ、内側には土塁が築かれて、まあ、ちょっとした城のような存在だったようです。代々、この「関東郡代」のお役目を仰せ付かっていたのが、「伊奈氏」。初代、伊奈忠次(ただつぐ)は、三河以来の家康の古い家来で、家康が江戸に入ると同時に、関八州・幕府直轄地の代官、即ち「関東郡代」に。この地域をおよそ二百年に渡って治めることになりました。
歴代の関東郡代、伊奈家の方々は、農民や町人のことを思い、 たとえば豊作のときも余計に年貢を取るようなことをせず、 また新田開発も積極的に行いました。 農民たちには大変、感謝されていたんですね。 明和元年(1764年)に大規模な百姓一揆が起きますと、 軍勢は次々に幕府の軍勢を蹴散らして大変なことになった。 これは大変だ、伊奈、何とかしろ…と関東郡代伊奈家に 事態の収拾を命じる。で、伊奈家が乗り出すと、一揆の皆様も 「郡代様がそうおっしゃるのなら」と、引き下がったという、 本当に農民たちから慕われていた役職だったんですね。

12月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「キューポラのある街」です。
埼玉県、川口市の名前を、一躍・全国区にしたのが、 昭和三十七年(1962年)に公開された、 吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」。 貧しい家庭環境にもめげず、明るく正しく生きていく、 可憐な少女の姿を描いた、日本映画史に残る名作です。「キューポラ」と申しますのは、川口の地場産業である、 「鋳物」の工場の特徴的な風景。 もともと、鋳物の原料である鉄を溶かす炉のことを 「キューポラ」と呼ぶわけなんですが、この炉に付き物なのが、 屋根から突き出して真ん中が膨れ、先端がまたすぼまっている、 特徴的な形の煙突なんですね。(描写あって…) で、この煙突のことも「キューポラ」と呼ぶ。 鋳物工場の街・川口には、この煙突が林立していたので、 「キューポラのある街」と呼ばれるようになった…と、 まあ、そういうわけなんでございます。
吉永小百合さん演じる主人公、ジュンは、中学三年生。 父親は腕のいい鋳物職人なんですが、 演じているのがテレビの初代・水戸黄門、東野英治郎さん。 で、母親役が杉山とく子さん。 いずれも、大変、個性的な役者さんでいらっしゃって、 この二人から吉永小百合さんが生まれる、というのが、 かなり無理があるような気もいたしますが、そこは、映画。 父の働く小さな鋳物工場が大手に買収されることになり、 ベテラン職人である父がクビになってしまいます。 高校進学を夢見ていたジュンは、気が気ではありません。 再就職の話がなんとかまとまり、父親は働き始めますが、 新しい工場はオートメーション化が進んでいて、 「こんな所じゃ働けない」とグレ、ますます酒びたりになる…。ジュンは自暴自棄になり、楽しみにしていた修学旅行にも 出かける気が起きず、街をさまよい始めます。
…お話をご存じない方のために、これ以上は ご紹介しないでおきますが、本当に素晴らしい映画です。 チャンスがあれば、DVDでもぜひご覧になってください。 さて、この映画の中で印象的なのが、 ジュンの親友である少女が、在日朝鮮人の父親に連れられ、 北朝鮮に渡ることになり、川口駅から旅立っていく場面。 当時、新しい国を作るため…と、希望に燃えて、 たくさんの在日朝鮮人の皆さんが、海を渡っていきました。 この映画が作られてから、四十五年の日々が流れた今、 当時、中学三年生だった少女は還暦を迎えているはずです。 その後、北朝鮮に関する、様々なニュースが報じられ、 拉致問題も解決の糸口が見えていません。 海の向こうで、彼女たちはどんな生活を送ったのか。 そんなことを考えると、何とも切ない気分になります。

12月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「鋳物の街・川口」です。
きのう、吉永小百合さん主演の映画、川口を舞台にした 「キューポラのある街」をご紹介いたしました。 キューポラ、すなわち、川口の地場産業であります、 鋳物工場で使われる、鉄を溶かす「炉」のこと。 で、ここで溶かした鉄を、鋳型に流し込んで製品にする。 鍋や釜、鉄瓶などの生活用品、あるいは第二次大戦後は、 さまざまな機械類を製造することで、 川口の町は発展を続けてきました。 もともとこのあたりの鋳物の歴史は大変古く、 平安時代にまでさかのぼると言われています。 荒川や芝川から、鋳型を作るために必要な質のよい砂粘土が取れたこと、また、江戸時代になると、大消費地である江戸を控えて、鍋・釜などの日用品の需要が伸びたこと…などから、川口の鋳物産業は栄えてきました。
そうした地盤がもともとあったところに加えて、明治時代になると、西洋式の工場や生産方法が導入され、さらに発展していくことになったわけです。で、ここが日本のものづくりの特徴なんですが、小さな工場が山のようにあって、それぞれ得意分野が違う。たとえば、鍋なら任せてくれ…というところもあれば、ストーブならウチが絶対だ…という工場もある。それぞれの工場に、誇り高い職人さんがいらっしゃって、技術を競い合うようにして高めてきた、このあたり日本の「ものづくり」の伝統ですよね。鋳物のことなら、川口へ行けば何とかなる。また、鋳物づくりには欠かせない型、「木型」を作る工場や、あるいは鋳物を原料にして組み立てる機械の工場、さらに職人さんたちを支える飲食店や銭湯なども集まって、鋳物産業を支えるシステムが出来上がっていた。川口という地域全体で、大きな信用を作り上げてきたわけです。
高度成長を経て、昔ながらのキューポラの風景は減り、その多くはマンションへと形を変えてしまいました。
それでも、川口の鋳物産業は今でも元気一杯。最先端技術を導入して、私たちの暮らしを支えてくれています。さて、そんな川口の鋳物製品の中で、私たち、昭和に育った子どもたちにとって忘れられないものが一つあります。それは…「ベーゴマ」。浅い円錐形…菓子パンの「甘食」をうんと小さくしたような形で、ヒモを巻いて勢いよく回し、ぶつけて遊びます。 タルやバケツなどの上にシートを貼って作った台の上で、ベーゴマが火花を散らす風景、懐かしいですよね。ベーゴマの街、川口では、今も生産が続けられておりますし、また、定期的に「ベーゴマ道場」も開催されています。
お近くの方、お子さんを連れて、出かけられてみてはいかがでしょうか?

12月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「大正の夢」です。
日清、日露の二つの戦争を経て、日本が欧米列強と ひけをとらない実力を身に着けつつあったこの時代、 市民生活もある程度豊かになってきて、 さまざまな文化の花が開き始めます。 建築の分野も例外ではありません。 各地に、古くからの日本の職人技を生かしつつ、 西洋文明の技術を取り入れた「洋館」が建築されました。 川口市の、旧田中家住宅もその一つです。 煉瓦造り3階建て。イギリスのチューダー・ゴシック様式にならった、塔のような形をした窓や、窓枠の飾りなどが特徴的です。で、外から見れば立派な洋館なのですが、内側には帳場や座敷、さらには蔵などが作られていて、見事な和洋折衷の建物に仕上がっているんですね。大広間が三階に設けられていて、近くを流れる芝川や、富士山の眺めが見事だった、と伝えられています。建てたのは田中徳兵衛さんという、地元の名士。代々続くお味噌屋さんで、現在も川口市内で営業を続けていらっしゃいます。
この家を建てたのは、四代目の徳兵衛さん。明治八年(1875年)に生まれた方で、明治二十八年に家督を相続。その後、材木業に手を広げますと、これが当たったようで、川口市内におよそ百万平方メートルに及ぶ地所を持ち、後に村会議員から県会議員、昭和に入ると高額納税者として貴族院議員にまで上り詰めました。そんな四代目 徳兵衛がその生涯の絶頂期に、贅を尽くして建てたのが、この建物なんですね。
平成十三年(2001年)の調査によって、この建物の棟札、いわば建築記録のようなものが発見され、設計監督の技師や現場監督、職人さんたちの名前を確認することが出来ました。いずれも田中家に出入りの腕利きの皆さんたちで、こうしたデータで建物の素性がわかったことが決め手となり、おととしの三月には、国の有形文化財に登録されています。

12月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「送信所に遺跡発見!」です。
私ども、文化放送の人間にとって、 「川口」は大変なじみ深い場所。 川口市赤井、見沼代用水に近い場所に建てられた送信所から、 いまお聞きいただいている放送の電波も、 発信されているわけでございます。 いわば、ここ川口は、文化放送の第二の地元。 ご近所の皆様方には、桜の季節、花見の名所としても 親しんでいただいております。 さて、この川口送信所ですが、もともと文化放送が 建設したものではありません。
実はこの場所、もとはNHKの送信所に使われていて、 後に文化放送が開局に際し、買い取った場所なんです。 建設されたのは、昭和三年(1928年)のこと。 それまでは、芝、愛宕山の放送局から、出力1キロワットで、 細々と放送を行っていたのですが、 この新しい送信所、当時の名前で「新郷(しんごう)」放送所が オープン、出力も10キロワットと強力になったおかげで、 千葉、茨城、栃木、群馬、神奈川と関東一円、さらには遠く静岡、山梨までも電波が飛ぶようになりました。NHKの送信所は、昭和十二年に同じ川口市内に移転し、百五十キロワットの凄まじい出力で放送を始めたので、新郷放送所は、「工作所」と名前を改めまして、全国の放送局で使われる機器類をこしらえたり、修理したりする場所となったのです。
戦争も終わりに近づいた昭和十九年。 万一、地上の放送局が爆撃などで被害を受けても、 放送を続けられるように…と、この新郷の地下に、 ヒミツの「隠蔽放送所」が建設されることになったのです。 平成十三年(2001年)の夏、文化放送の送信所内で、 およそ六十年近くの時を経て発掘調査が行われました。 草で覆われている地面を掘り返してみると 出てきたのは、およそ百七十平米の広い空間です。 高さは4メートルにも及び、 天井のコンクリートの厚さは二十八センチ、梁の太さは七十六センチ×六十センチと、極めて頑丈。物資もほとんどない時代に、これだけ力を入れた建物をこしらえたということで、当時、このヒミツ放送局が、いかに重要なものと考えられていたかがわかります。きょうは、文化放送のもっている、意外な文化遺産をご紹介いたしました。

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