11月24日(月)〜11月28日(金)
今週は、「太田道灌一代記」。 徳川家康に先立つこと、およそ百五十年。
江戸城を作り、町に賑わいをもたらした室町時代の武将、江戸の父と呼ばれる太田道灌をご紹介して参ります。
11月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
11月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「天才少年 鶴千代」。
それまでは、寂しい入り江の町に過ぎなかった江戸を、 賑やかな都市へと作り変えた武将、太田道灌。 道灌は、天才的な戦略家で、合戦にあっては連戦連勝。
のみならず、歌の道にも優れていた、 文武両道の人物でございます。 かつて、有楽町に都庁があった時代は、
そのシンボルとして、庁舎のまん前に銅像が立っておりました。 現在、この銅像は、跡地に建てられた国際フォーラムの中に
移されておりますが、ほかにも、日暮里駅前や新宿中央公園、 川越、岩槻、越生など各地に銅像が立てられています。
関東のあちこちで、広く尊敬を集めてきたこの太田道灌公、 実際には、どんな人だったのでしょうか?栴檀は双葉より芳し、と申しますが、
世に「天才少年」というものは、たまさか出現するもの。 たとえば、スティーヴィ・ワンダーなど、 十一歳でレコード会社と契約、そして十三歳のとき、
いま聞こえております「フィンガーティップス」で、 初の全米ナンバーワン・ヒットを記録しています。 ひるがえって我が国を見てみますと、
今週の主人公である太田道灌、幼名・鶴千代君も、 似たり寄ったりのジーニアス、天才少年だったようですね。
永享四年(1432年)と申しますから、 今から五百七十六年前、鎌倉に生まれています。 小さいときから賢さは群を抜いていたようで、
9歳のときに家を出て、勉学に励みます。 そのころ、建長寺、円覚寺を始めとする「鎌倉五山」で、 鶴千代に並び立つ者はいなかった、といわれる程の秀才。
触れただけで切れてしまいそうな、 抜き身の刀のような鋭さを危うく思ったのが、 父親でございます、太田道真(どうしん)公。
「鶴千代や。あまり知恵がありすぎても道を誤ることになる。 また、足りなくても、災いが降りかかることになる。
言葉を慎めよ。部屋の隅に立てかけてある障子を見てご覧。 真っ直ぐだから立っていられるが、曲がってしまっては、
倒れてしまって、物の役に立たないではないか」 すると鶴千代、すかさず部屋の隅の屏風を指差し 「お言葉ですが、父上。
あの屏風は曲がっているから立っておりますが、 真っ直ぐでは倒れてしまうではありませんか」と、一言。 父、道真は何も言えず、顔を真っ赤にして
その場を立ち去った…と申します。 おそらく、これは後の世の脚色ではございましょうが、 それだけ幼い頃からキレ者だったという太田道灌。
長じて後、どんな活躍を見せてくれるのか、 続きは、また、明日。
11月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「七重八重 花は咲けども」。
大田道灌、といえば、落語「道灌」を、 思い出される方もいらっしゃることでしょう。 以前にも、この番組でご紹介いたしましたが、
ある日、道灌が鷹狩りに出かけたところ、雨に降られた。 蓑を貸してもらおうと近所の農家に行くと、 うら若き娘が出てきて、山吹の枝を差し出すだけで、
肝心の「蓑」は手に入れられなかった。 はて、妙なこともあるものだ…と城に帰って話をすると、 「殿、それは、
『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という古い歌がございます。 「蓑」がないことを、「実」のならない山吹にかけて、
それほど貧しい暮らしをしております、お恥ずかしい… ということでございましょう」 これを聞いた道灌、ハタと膝を打って、
「ああ、余は歌道に暗い」。 これ以降、一念発起して歌の勉強に明け暮れ、 後に室町時代を代表する歌人の一人となった…というお話。
このエピソードは、後世の創作の可能性が高いようですが、 大田道灌は歌の道でも名高いのは本当のことでございます。大田道灌が、京の都に上り、後花園上皇に拝謁したときのこと。
上皇が、「武蔵野の景色は、どのようなものか」と、 尋ねたところ、道灌、歌を持って答えました。 「露おかぬ かたもありけり 夕立の
空より広き 武蔵野の原」 武蔵野の原っぱはとても広い。空よりも広いので、 夕立が降ってきても濡れない場所がありますよ、
…といった意味になるでしょうか。 これに感心した上皇も、道灌に返します。 「武蔵野は かるかやのみと 思いしに
かかることばの 花やさくらん」 武蔵野は、カルカヤ、ススキですね。
一面にこれが生えているだけの、荒涼とした草原かと思ったら、 そんなステキな「ことばの花」が咲いているとは。
道灌も、このお歌に、感激ひとしおだったとか。 大田道灌が生きたのは、戦乱の世でありましたが、 その落ち着かない時代にあっても、江戸城内で、
たびたび和歌の会を催しています。 一流の歌人、文化人との交流も深く、 江戸城は当時の文化サロン的な場所でもあったようです。
そんな歌人たちを集めた「武州江戸歌合せ」という、 参加者たちが投票して優劣を競う歌の会で、 道灌が詠んだ歌を、最後にもう一つ、ご紹介しましょう。「海原や 水巻く龍の 雲の浪 早くも返す 夕立の雨」
11月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「関東平野 縦横無尽」。
文武両道に秀でた武将、太田道灌。 きのうは、道灌がいかに優れた歌人だったかをお話しましたが、 きょうは「文武」の「武」のほうのお話。
道灌が活躍した十五世紀半ば、今から五百五十年ほど前の 関東平野は、戦乱の時代を迎えていました。 京都には、室町幕府がありましたが、力は弱まっており、
関東では様々な勢力が入り乱れ、
合戦が繰り返されていたのです。道灌が生まれた太田家は、後にあの上杉謙信を生む、上杉家の家来として、関西から関東に移ってきました。で、このご主人様にあたる上杉家を助けて、縦横無尽の大活躍をするわけです。道灌は「足軽戦法の生みの親」と言われています。
それまで、合戦は、武将同士の一対一の決闘が中心でした。「やあやあ、遠からん者は音に聞け、 近くば寄って目にも見よ、
我こそは野村の朝臣邦丸なるぞ!」と名乗りを挙げると、相手からも、お、強そうなヤツが出てきたな、と、こちらも名乗りを上げて戦いが始まる。ところが、道灌はこれを一変させ、「足軽」と呼ばれる、たくさんの歩兵を鍛え上げた。で、そのへんで敵の武将が名乗りを上げると、ワーッ! と、足軽が寄ってたかって襲い掛かり、いっぺんにやっつけちゃったんですね。当時の常識からすれば卑怯者かも知れませんが、「勝てば官軍」の言葉もございます。
道灌の戦場は関東平野一帯に広がっています。たとえば、文明九年(1477年)を例にとってみますと、この年、四月に現在の東京都北区 上中里のあたり、翌日は中野区、沼袋・江古田付近で戦闘。二週間後には、練馬区・石神井付近で激戦を繰り広げます。で、半年後の十月になると、群馬の前橋付近で戦い、翌年の一月二十五日から翌日にかけ再び上中里で戦い、翌日は川崎の丸子、さらに翌日は横浜の小机…と、神奈川、東京、千葉、埼玉、群馬、栃木、山梨を股にかけ、
向かうところ敵なしだったのでございます。 小机といえば、現在の第三京浜、港北インターの近くですが、 ここを攻めたときの面白いエピソード。
この小机の城は守りが堅く、また敵の兵力も数多く、 道灌の軍勢は尻込みする者が多かったんだそうです。 そこで、道灌は部下を元気付けようと、得意の歌を詠みました。
「小机は まず手習いの始めにて いろはにほへと ちりぢりになる」 シャレのきいた歌でございますが、これに力づけられた軍勢は、一気に敵を攻め落とし、大勝利を収めたとか。
11月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「城下町 江戸の始まり」。
人口およそ一千三百万、世界に冠たる大都市・東京。 そもそもの繁栄の始まりを辿って参りますと、 やはり、康正(こうしょう)二年(1456年)に
工事が始まった、太田道灌による江戸城の建設に 行き着くのではないでしょうか。 これについても伝説がいくつかございまして、
ある日道灌が、江戸湾を船で進んでいたところ、 魚の「コノシロ」が甲板に飛び込んできた。 おお、これは「コノシロ」…「この城」が手に入る吉兆と、
築城を決めた。 で、江戸城を作る地面に線引きをして、 あたりにいた農民に、このあたりは何と言う場所か…
と尋ねると、「千代田、宝田、祝田でございます」。 「千代」に「宝」に「祝」、めでたい文字ばかり、 この場所は栄えるぞ…と言ったとか。
いずれも、後に作られたお話の可能性が強いようですが、 家康に先立つことおよそ百五十年、江戸に目をつけた
先見性は、さすが太田道灌、と言えるのではないでしょうか。 道灌の江戸城は、現在の皇居東御苑、本丸台地のあたりに
建てられていました。 城内でも目を引いたのが、「静かに勝つ」と書いて、 「静勝軒」という三階建ての建物。
後に、家康が江戸城を改築するにあたり、大老・土井利勝が 譲り受け、自らの領地、千葉・佐倉へと移しました。
実はこの建物、明治維新の頃まで残っていたそうで、 写真も残されています。 見かけは、京都の金閣寺に似ており、趣がありますね。
戦乱の世であったとはいうものの、 その中でも抜きん出た存在であった太田道灌。 道灌様のお膝元なら安心だ…ということで、
たくさんの人々が集まってきて、城下町も栄えました。 これ、現在の東京駅から大手町、竹橋から 一ツ橋あたりまでに当たるんだそうですが、当時、
米やお茶、魚といった食料品はもちろん、 食器類や薬、弓矢などの軍用品に至るまで、 ありとあらゆる物が取引される、
巨大な市場が連日開かれていたんだそうです。 しかし、いいことばかりは続きません。 道灌のあまりの活躍ぶりに恐れを抱いた、
主君である扇谷定正(おうぎがやつ・さだまさ)が、 現在の神奈川県、伊勢原市にあった 自らの館に道灌を呼びつけ、殺害してしまったのです。
時に、文明十八年(1486年)のこと。 道灌を失った江戸は、瞬く間に荒れ果ててしまい 、徳川家康が訪れるまで、
冬の時代を迎えることになりました。
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