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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月10日(月)〜11月14日(金)
今週は、「千代田区永田町1の7の1」。
国会議事堂にまつわる様々なエピソードをご紹介して参ります。

11月10日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「国会議事堂ができるまで」です。
千代田区永田町1の7の1、国会議事堂。 皇居内濠にほど近く、デーン! とそびえ立つこの巨大な建物こそ、我が日本国の中枢でございます。辺りを見下ろすような、あの威圧感は、いかにも、昔の建物…と思わされますが、さて皆様、国会議事堂は、いつ頃建設されたものか、ご存知でしょうか? 実はこれ、見かけの割りに新しい建物でございまして、 竣工したのは昭和十一年(1936年)十一月七日のこと。 ですから、今日で建ってから七十二年と三日。 古くから東京にお住まいの方の中には、 議事堂が建つ前の姿や、建設中の姿を、 ご記憶の方も、たくさんいらっしゃることでしょう。
もっとも、国会議事堂を作ろう、という動きは、 明治十四年(1881年)に国会の開設が決まってから、ずっと続いてはおりました。 何と言っても、国の重要なことをすべて決める施設です。 こしらえるからには、欧米列強の議事堂にも負けないような、立派な建物に仕上げたい。 …という、気持ちはあるものの、先立つものが足りないし、 時間も限られております。 とりあえず「仮」の建物を作ってしまおうと、 千代田区霞ヶ関、現在の経済産業省のある場所に、 「帝国議会議事堂」が建設されました。 竣工は明治二十三年(1890年)十一月二十四日、 第一回帝国議会が、召集される前日のことだったんですね。 仮とはいうものの、プレハブではございません。 洋風木造2階建て、建築費二十三万 三千八百六十八円 七十九銭 五厘それなりに、かなり立派な建物でございました。
ところが!この初代「仮議事堂」、竣工からわずか二ヶ月で、火事のため、あっけなく焼失。もちろん、国会議事堂がなくては、国の重要なことが、タテマエ上、何一つ決められないことになります。とりあえず、衆議院は虎ノ門の工科大学に疎開。そして、貴族院の仮住まいは、あの「鹿鳴館」と決まりました。仮の議事堂は、すぐ同じ場所に再建されることになり、九ヶ月の突貫工事で、初代とよく似た建物が建てられました。で、しばらくは、この「仮議事堂」で国会が続けられることになりましたが、この二代目の建物も、大正十四年(1925年)に、焼失。で、またまた、突貫工事で三代目が建てられまして、こちらが、十一年後に現在の議事堂が完成するまで、使われることになったのです。

11月11日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「明治の国会風俗」。
現在の国会の前身である「帝国議会」は、 明治二十三年(1890年)に初めて召集されました。 開会に間に合わせるため、木造の仮・国会議事堂を建設。 昭和十一年(1936年)に現在の議事堂ができるまで、 およそ半世紀に渡り、仮設の議事堂で審議が続けられました。 さて、明治時代の国会は、どんな雰囲気だったでしょう? 議員は羽織袴、あるいはフロックコート、モーニングコートの 着用を義務付けられ、外套や傘、杖を持つことは禁止。 また他人の演説・朗読の妨害禁止も禁止されていましたが、 これは現在の国会同様、あまり守られていなかったようです。
当時の議会は、貴族院と衆議院の二つに分かれていました。 貴族院は、文字通り、貴族や華族など、 当時の身分制度での特権階級がメンバー。 一方の衆議院議員は、選挙によって選ばれますが、 選挙権をもっていたのは、二十五歳以上の男性で、 高額納税者に限られていました。 第一回帝国議会の模様を記録した『国会傍聴 議場の奇談』という本がありますので、ちょっとご紹介いたしましょう。 植木枝盛(うえきえもり)さん。 自由民権運動家として知られ、第一回衆議院選挙に高知県から出馬、見事に当選いたしました。この植木さんに関する描写。少々、わかりやすく手直ししてお話しいたします。「…怒り上戸の随一は、植木枝盛氏なり。氏は一言一語すべて怒調を帯び、何かに附けて直(すぐ)に腹を立て、憤然として怒鳴り、激然として拳を打振り、以て他を脅し去らんとする。のべつにやらかしては、怒りの効能、おいおい薄くも為(な)らずや」 どんな演説だったのか、ちょっと聞いてみたかったですね。
同じ本から、議会を見物にやってきた人のエピソード。 どうやら、国会をお寺かと間違ってるらしい二人組です。 「議事堂前にやってきた、六十四五歳のオヤジと、 五十歳ぐらいの婆(ばば)。 あたりをうろうろ見回しながら、 『これが国会様の本堂で、三百議員というは五百羅漢の親類だ。 まず貴族院へ参詣したいものだが、『院』といっても、 お寺の様ではなく、毛のある人ばかりなのは不思議ではないか。 しかし国会様のご利益で、税が軽くなるというから、 お賽銭をあげよう』と、通用門に腰をかけ、 銭を紙にひねって投げようとする。守衛これを制し『国会は神仏(かみほとけ)はないぞ』と叱りつけると、『神仏でなければ切支丹と見える』と、バカなことを言って立ち返った。どうやら越後から来た二人連れらしい」今からおよそ百二十年ほど前のお話でございます。

11月12日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「国会議事堂 遂に完成」。
国会議事堂は、明治からずっと仮設のままで、 なかなか本建築に着工することができませんでした。 何度も「そろそろ作ろうぜ」という話は出るものの、 日清戦争や日露戦争、また大正時代の護憲運動など、 様々な大事件のせいで、そのたびに先送りとなりました。 ようやく、現在の永田町一丁目に建設が決まり、 工事が始まったのが、大正九年(1920年)のこと。 ところが、建築中の大正十四年に、 仮設の国会議事堂が火事で焼け落ちてしまいます。で、突貫工事で、もう一度仮設の議事堂を作ることになり、 どんどん新議事堂の建設は遅れていきました。国会議事堂が作られた当時は、 もちろん現在のような大規模な建設機械などありません。すべて熟練工による手作業。 凄まじい重労働だったことはご想像いただけるでしょう。
議事堂の中央にそびえる塔の高さ、65・45m。 これは当時、「三越本店の塔」を抜いて、日本一の高さを誇る建物でした。 ちなみに、現在、日本一高い横浜の超高層ビル、 ランドマーク・タワーの高さは295・8m。 国会議事堂のおよそ4・5倍の高さがありますが、 工事にかかった年月は、わずか三年四ヶ月。 国会議事堂の、五分の一の時間で完成しております。 さて、見事な石造りの建物であります国会議事堂。日本全国から「うちの石を使ってください!」と、凄まじい売り込み合戦が展開され、中には、かなりナマグサイ話もあったようです。使われた石の量、全部で2万8千406トン。体積にして、およそ13万立方メートル。
当時、永田町のあちこちに、巨大な石の山が築かれ、 それは凄まじい眺めだったと伝えられています。 もし、この石を、タテ一列に積み上げたとすると、 その高さは実に富士山の三十倍に及ぶと申しますから、 国会議事堂がいかに大変な建物かが、わかります。幾多の難関を乗り越えて、ようやく国会議事堂が完成したのが、 この「東京ラプソディ」がヒットした昭和十一年(1936年)。 この年は2・26事件が起き、日独防共協定が結ばれるなど、 世の中が、だんだんブッソウになっていった時代。 民衆を押さえつけるかのような、巨大な議事堂を、 不気味な権力の象徴と、とらえる声も多かったようですが、 そうした人たちは、容赦なく弾圧されていきました。

11月13日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「国会議事堂の石と絨緞」。
国会議事堂は、「石の博物館」ともいわれています。 日本全国から集められた、第一級の見事な石が、 惜しみなく使われているからです。 これは、欧米列強に、日本の実力を示すため、 すべての材料を国産で調達しようという
方針のもとに作られたから。後に、補修工事の際、国産材料が使われず、イタリア産の輸入石材がはめ込まれた部分もありますので、国会議事堂の国産製品使用方針は、少しずつ、緩んできているようです。とはいうものの、高度成長期以降、国産石材の割合は、1%にも満たないと言われる中、国会議事堂は99%以上が国産の石で作られている。議事堂が「石の博物館」と呼ばれるゆえんでございます。
中でも、見ごたえがあるのが、中央玄関から中央広間、そして中央階段などの大理石。当時、既に大理石は輸入が当たり前でしたが、日本を代表する国会議事堂なんだから、なんとか国産の材料を調達しろ! ということで、日本全国津々浦々、議事堂に使う大理石を探して大変な「石探し」が行われました。その結果、発見された美しく貴重な石の数々が、このあたりのモザイク装飾などに用いられております。およそ15センチ角の大理石、百六十万個あまりを使って描かれた、床の模様はタメイキが出るほど美しい。七十年後に見る現在の我々がタメイキが出るほどですから、この細工を施した石工の皆さんは実に大変でした。
議事堂の内部は、ヒジョーに検査がやかましく、ほんの少しでも隙間が見えると、たとえ組み上げるのに一週間かかっていようと、「やり直し」を命じられました。過酷な重労働で、粉塵を吸い込んで肺を傷つけられ、三十代、四十代で命を落とす方も少なくなかったそうです。さて、国会のもう一つの名物といえば、赤じゅうたん。 幅1・8mのこのじゅうたん、さて、国会議事堂には、 どれくらいの長さが敷かれているとお思いでしょうか? はい、総延長、実に4・6キロに及ぶんだそうです。 素材は最高級のウールで、見学者の通る廊下など、 痛みの激しい部分は、2年に一回ほど、張り替えます。 なぜ赤いのか? これは帝国議会時代に、宮中で使われていた じゅうたんを持ち込んだという説が、有力なんだそうです。

11月14日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「国会議事堂最後の日」。
昭和三十五年(1960年)、 六月十五日。国会議事堂、南通用門付近で悲劇が起きました。 日米安保条約に反対する学生たちのデモ隊が、警官隊と衝突。 混乱の中、暴行を受けた東大生、樺美智子さんが、命を落としたのです。国会に突入しようとした学生たちは、あのいかめしい、石造りの建物を、どんなに恨めしく思ったことでしょう。どんなに人々が声を上げても届かない権力の象徴、それが国会議事堂だったのです。ところが! この国会突入事件に先立つこと六年前、既にこの国会議事堂の建物を壊した、凄いヤツがいました。
昭和二十九年(1954年)十一月三日に公開された、 東宝映画「ゴジラ」。 映画の中で、東京湾から上陸したゴジラは、 列車を襲い、電線をなぎ倒し、いったん海へ帰ります。 国は、この間に、海岸に高圧電流の網を張って、 再上陸した場合は感電死させようと計画します。 着物姿で、大八車を押しながら非難する人たち。 昭和二十九年というのは、こういう時代だったんですね。 しかし、芝浦あたりから再上陸を果たしたゴジラは、 そんな電流の攻撃などものともせず、東京の中心へ。 民家をなぎ倒し、口から放つ炎で焼き払いながら、 新橋から銀座へと向かいます。 この時点で、浜松町から品川あたりはすべて火の海。 文化放送は移転前だったので、助かりました。 銀座通りの商店街を踏みつけ、松坂屋を燃やし、 服部時計店の時計台をバラバラと打ち壊し、 有楽町の駅を足蹴にし、日劇を一撃のもとに打ち砕く。 そして日比谷、桜田門から国会議事堂へ。 軽く蹴飛ばしただけで、技術の粋を凝らした名建築を、 一瞬のうちに廃墟にしてしまったのです。 このあとゴジラは、上野・浅草を破壊して、 再び東京湾へ戻っていった…という名場面。
実はこのゴジラのルートは、東京大空襲のときの、 アメリカの爆撃ルートをなぞったものでした。 空襲からわずか九年後、まだまだリアルな記憶が残る中、 よくこの映画をこしらえたものだ、と思います。 東京タワーはまだ建設前だったので、 東京で一番目立つ建物といえば、国会議事堂だったんですね。 現在では古色蒼然とした印象がありますが、 映画の製作当時は、まだ、築十八年の比較的新しい物件。 さぞ、壊し甲斐があったことでしょう。 当時は疑獄事件などで政治への不信感が高まっており、 この議事堂破壊シーンでは、観客が立ち上がって拍手を送った、 …と、語り伝えられております。

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