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8月25日(月)〜8月29日(金)
今週は、「後楽園球場 五番勝負」。
かつて、東京を代表する野球場だった、今はなき後楽園球場。この広いグラウンドを舞台に繰り広げられた、歴史に残る熱戦の数々をご紹介してまいります。
8月25日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「後楽園球場 事始め」です。
東京都文京区、水道橋駅の目の前にあった後楽園球場。昭和六十二年(1987年)の秋、その役割を終えました。オープンしたのは、昭和十二年(1937年)ですから、ちょうど半世紀の歴史だったことになりますね。外野、そして内野にも芝生が生えた美しい野球場で、ジャンボスタンドからの眺めは格別でした。昭和九年(1934年)、大リーグ選抜が来日。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグの二人を始めとした、オールスター・チームでした。この頃、日本でもプロ野球、…当時でいうところの「職業野球」チーム結成の機運が高まってまいります。そうなると、必要なのが「野球場」。できるだけ、都心の近くに、プロ野球専用の野球場も必要だ。
そこで注目されたのが、水道橋の広大な国有地。昭和十年までここにあった、陸軍の兵器工場の跡地です。野球場関係者が、おそるおそる払い下げてもらえないか…と持ち掛けたところ、国は大喜び。工場を小倉に移転するのに、思ったよりも費用がかかり、跡地を売却して、赤字を補填したかったのです。払い下げが決まって、工事に取り掛かり、完成したのは先ほども申し上げた昭和十二年の九月でした。野球場の名前は、隣にある徳川光圀が名づけ親である庭園「小石川後楽園」にちなんでいます。後楽園球場、正式名称「後楽園スタヂアム」では、当初から、専属のプロ野球団を持つことを考えていました。
そこで結成された球団が「イーグルス」というチーム。後楽園といえば「ジャイアンツ」と思いがちですが、最初は、まったく違う球団のフランチャイズになる予定だったんですね。しかし、後発チームだったため強化もままならず、また、すぐ戦争が激しくなって、野球どころではない雰囲気が強くなってきたので、結局、昭和十八年に解散に追い込まれます。後楽園球場はまた、大規模なコンサート会場としてもおなじみ。数々の伝説的なコンサートが行われていますが、代表的なものを一つ、挙げるとすれば、今聞こえています、キャンディーズの解散公演「ファイナルカーニバル」ではないでしょうか。昭和五十三年(1978年)4月4日開催。今年、三十周年を記念するイベントが行われたのも、記憶に新しいところです。
8月26日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「後楽園 特設シャンツェ」です。
後楽園球場がオープンしたのは、昭和十二年の九月。春から秋にかけては、プロ野球の熱戦が行われますが、シーズンオフの使い方は、頭を痛めるところです。野球場側は、オープン当初から知名度を高めようと、「日華事変 戦勝祝賀音楽と花火大会」「日独伊防共協定成立奉祝国民大会」「南京陥落祝勝の夕(ゆうべ)」といった催し物を盛んに行います。いかにも時代が感じられる物ばかりですが…。そんなところへ舞い込んだのが、こんな話。
「ここでスキーのジャンプ大会をやってみないか」というびっくり仰天のプランが持ち込まれたのです。球場では、話題づくりにはもってこい、と、この話にノリます。開業から間もない、昭和十三年(1938年)の二月。グラウンド全面に、高さ38メートル、助走路34メートル、着陸斜面48メートルという、とてつもないスケールのジャンプ台が作られました。今、ここにそのシャンツェの写真がありますが…建設にあたった技師、島崎さんのコメントがありますので、ご紹介しましょう。
「帝都の真ん中にシャンツェ建設などという壮大なプランを持ち込まれたときは、私も面食らいました。丸太と鉄線で38メートルの大やぐらを組み立てたが、カラっ風吹きまくる2月の中旬、百尺の高さの上で、職人たちは寒風に吹きまくられながら仕事を続けていました。風がなくても、常に揺れている上空の足場の上で、長さ27メートル、重さおよそ40キログラムの丸太を片手に下げ、片足は足場に乗せ、互いに渡し渡され、前後左右に扱う様は、さすがに熟練の巧み。職人たちの意気に感謝したものです」ジャンプ台は完成しても、問題なのは「雪」。これは、新潟、石打駅から、ホームに積もっていた雪を、そのまま貨車に載せて直送しました。13トン積みの貨車、延べ71両といいますから、およそ100トン余りの雪を新潟から運んできた。幸い、後楽園のすぐ近くに大規模な貨物駅、「飯田町」の駅がありますから、運ぶのは比較的楽なんです。問題になったのは、運送料。もちろん「雪」を運ぶ料金など決められていませんから、最初、鉄道省では「氷」の運賃を適用しようとしました。しかし、これでは高すぎて採算に合わないと、交渉したところ、先方でも値引きに応じてくれたんだそうです。オリンピック選手ら46名が出場したこの大会、話題性は十分でしたが、何せこれだけの高いやぐら、近所までくれば誰でも簡単に見物できますから、木戸銭を払って入場する客は少なく、結局は大赤字に終わりました。
8月27日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「双葉山 最後の敗戦」です。
昭和十二年、華々しくオープンした後楽園球場。しかし、時代は戦争の真っ最中。次第に戦争が激しくなってくると、世間の雰囲気も野球どころではなくなってしまいます。「そんな不要不急な運動に使う場所はもったいない。ここは軍が使わせてもらう!」と、昭和十九年には、陸軍に接収されてしまったのです。ところが、この年十一月、この後楽園球場で、大相撲の本場所が開催されています。両国の国技館も風船爆弾の工場用に接収されたので、その代わりに後楽園で興行を行うことになったものです。しかし、後楽園側では、「同じスポーツなのに、こちらはグラウンドを持っていかれ、あちらには優先的に使わせる」と、軍の差別的な態度に憤慨したようです。
さて、いろいろ批判もあったこの大相撲後楽園場所ですが、とにもかくにも昭和十九年十一月に開催されました。当時の本場所は十日間。初日は五日の予定でしたが、既に空襲が始まっていたこともあり、結局十日にスタート。そして場所中もしばしば警報が発令されるなど、千秋楽も、予定より一週間遅れたそうです。当時の新聞のコピーがここにありますが、紙面のほとんどは、敵艦に体当たりした特攻隊の方々の写真。その隅に、小さく、相撲の結果が出ています。そして、この場所では、一つの大きな出来事がありました。不世出の大横綱、双葉山が引退を決意したのです。六日目、東富士との一戦。新聞記事を朗読してみましょう。「後半戦に入り、好取組続出、決戦土俵も白熱化。この日、結びの一番に満場を沸き立たせて東富士。正面土俵に双葉を上手投げできれいにほふり、横綱三役陣を通じ、土付かずはただ一人」東富士は鋭く立って右差し、双葉山に落ち着く余裕を与えず一気に出て、最後は左からの上手投げで勝負を決めました。
実はこの東富士、若い頃から双葉山が目をかけて、「キン坊」と呼んでかわいがっていた若手の有望株。この場所で初めて関脇に上がり、本場所で双葉山と対戦、初顔合わせで見事に恩返しをしたというわけです。キン坊にやられちゃ、俺もおしまいか…と思ったのでしょう、翌日から休場してしまいました。双葉山は、翌年の本場所で一度だけ土俵に上がり、一番勝って、そのまま休場、そして引退しています。
8月28日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「チャンピオン 白井義男」です。
後楽園といえば、野球場と並んで有名なのが、ボクシング、プロレスの聖地といわれる「後楽園ホール」。戦後、数々の名勝負が繰り広げられてきましたが、その先駆けとなったのが、後楽園球場の特設リンクで戦われた、ボクシングの名勝負でした。まず、昭和二十一年七月六日には、戦前からの人気ナンバーワン・ボクサー、ピストン堀口と、ライバル、笹崎タケシの対決が行われました。これは、昭和十六年に両国国技館で行われた、「世紀の一戦」の再現をうたったもので、実に二万五千人のファンがつめかけ、頑丈な鉄の扉が2枚も破れてしまったと伝えられています。5年前は、ピストンが笹崎にTKO勝ちしましたが、この試合は、結局、ドローに終わっています。そして、昭和二十六年五月二十五日には、歴史上初めて世界チャンピオンが来日しています。
アメリカのダド・マリノが、日本のホープ、白井義男と、特設リングでノンタイトル戦を戦ったのです。当時、マリノは34歳、白井は27歳。この試合にも、二万五千のファンが駆けつけました。結果は、2対1、僅差の判定で、マリノの勝ち。しかし、この試合で、白井は世界挑戦の足がかりをつかみます。さらに同じ年の十一月には、ヘビー級の名チャンピオン、ジョー・ルイスが来日、既に引退していましたが、エキシビジョン・マッチを戦い、ファンをしびれさせました。そして、翌年、昭和二十七年(1952年)五月十九日。同じく後楽園球場の特設リンクで、ダド・マリノ対白井義男のタイトルマッチが開催されました。試合開始は、夜8時でしたが、お昼頃から続々とファンが詰め掛けて参ります。
夕方6時、前座の試合が始まると、もう押すな押すなの大混雑。グラウンドに作られた特設の座席ばかりでなく、内野、外野のスタンドも、超満員。ボクシングの試合で外野席を開放したのは、このときが初めてで、観客は四万人を超えました。リングサイド3600円から外野200円までのチケットは、かなりのプレミアムがついて取引されたそうです。ゴングと共に、白井は軽快なフットワークで前に出て、鋭いジャブと強烈なストレートを相手に浴びせていきます。相手が攻め込んできても、巧みなディフェンスでかわし、美しいボクシングで観客を魅了していきました。最大のピンチは7R。ストレートをまともにくらい、脳震盪に。なんとかゴングに救われコーナーに戻ってきましたが、白井は意識モウロウ状態。そこでトレーナーのカーン博士が、「ウエイク・アップ、ヨシオ!」と一喝。この一言で白井は目を覚まし、華麗なフットワークが復活。そして試合終了のゴング、白井は大差でマリノを下し、ここに日本人初の世界チャンピオンが誕生したのです。
8月29日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「たった一度の天覧試合」です。
後楽園球場 五番勝負と言いながら、昨日まで四日間、コンサート、スキー、大相撲、ボクシング…と、他のジャンルばかり取り上げて参りましたので、最終日は、満を持して「野球」の話題をお送りします。後楽園球場の名勝負。数限りなくあるとはいうものの、今日はやはり、昭和三十四年(1959年)にたった一度行われた、昭和天皇、香淳皇后ご夫妻をお迎えしての、「天覧試合」にスポットを当ててみたいと思います。「あの灯りは何か?」皇居からほど近い、後楽園球場のナイターの灯りを見て、その明るさ、賑やかさに興味を持った昭和天皇が、侍従にご質問なさっていた。
これが、「天覧試合」実現のきっかけだったようです。この昭和三十四年は、4月に皇太子ご成婚があり、5月には5年後の東京オリンピックの開催が決定。また7月には、児島明子がミス・ユニヴァースに選ばれるなど、高度成長を目前に控えて、なんとなく日本中が、ウキウキしていた年でした。野球界もまた、しかり。前の年、巨人に鳴り物入りで入団していた長嶋茂雄は、首位打者のタイトルを獲得し、押しも押されもしない中心選手へと成長しています。そして、この年、ルーキーとして巨人に入ってきたのが、世界の王貞治、阪神に入団したのが、ザトペック投法・村山実。60年代のプロ野球を担う、新しい力が、この年、続々とデビューを飾っていたのです。「天覧試合」の開催は、6月25日。巨人 対 阪神の十一回戦と決まりました。陛下が、興味津々だったという、ナイターです。先発投手は、巨人・藤田、阪神・小山の両エース。3回表、小山が自らのタイムリーで阪神、先取点。5回、巨人が長嶋、坂崎の連続ホームランで逆転すると、阪神は6回表に藤田を打ち込み、4対2と再び逆転。そして7回裏、疲れの見えた小山から、王が同点に追いつく2ラン・ホームランを放ちます。奇しくも、これが「ONアベックホーマー」の最初の試合となりました。
4対4で迎えた9回裏。両陛下がお帰りになる時間は、午後9時15分と決まっていましたが、試合はこう着状態。しかし、時間切れを目前に控えた9時12分、最初のバッター長嶋が、カウント2―2からの5球目を強振!「インハイの球。見逃せばボールです。だけど、好きな高めですからね。迷わず振りぬいたらボールは夜空をレフトスタンドへ一直線。二塁。三塁。ホームへと回りながら背中がぞくっとしましたね」とは、長嶋の談話。打たれた村山は、生涯「あれはファウルだ」と言い続けていたそうですが、伝説のサヨナラホームラン、あまりにも、見事すぎる幕切れでした。
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