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8月4日(月)〜8月8日(金)
今週は、「昭和二十年 八月の日記」。
長く、過酷な戦争の日々が、終わりを告げた昭和二十年八月。当時の人々は、何を考え、どんな暮らしをしていたのか?六十三年目の終戦の日を前に、昭和二十年八月に書かれた、さまざまな人々の日記をご紹介してまいります。
8月4日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は小説家 海野十三(うんの・じゅうざ)です。
「敵空襲部隊は、本土にあともう百五十キロというところで、急に陣形を変えた。モロレフ司令官は、光線電話をもって、第一編隊長ワルトキンに、いそいで命令した。「ワルトキンよ。貴隊は犬吠崎(いぬぼうさき)附近から陸上を東京に向かい、工業地帯たる向島区、城東区、本所区、深川区を空襲せよ。これがため一キログラムの焼夷弾約四十トンを撒布(さっぷ)すべし!」「承知! 我等が司令! 直ちに行動を始めん」焼夷弾を積んだこの第一編隊は、本隊から離れると、犬吠崎をめがけて驀進(ばくしん)していった。」
日本SFの父といわれる作家、海野十三。いまご紹介したのは、彼が昭和十一年「少年倶楽部」に発表した、その名も「空襲警報」という作品の一節です。まるで、九年後の東京大空襲を予知していたかのような文章。早稲田大学理工学部を卒業、逓信省…のちの郵政省、現在の総務省、電気試験所の研究員となり、無線の研究に従事。その傍らで、旺盛な執筆活動を行い、「地球盗難」「浮かぶ飛行島」など少年向けのSF作品を発表しています。そして、昭和十九年十二月。実際に東京が空襲を受け始めると、後の参考のため、「空襲日記」をつけるようになります。これが「海野十三敗戦日記」として、現在、公になっているものです。そのころ、世田谷区若林に住んでいた海野は、まだ空襲がそれほど大規模でなかった十九年十二月、敵機…敵の飛行機が撃ち落されるのを自宅の庭から見て、「墜ちかかる敵機の翼に冬日哉」と、のどかな俳句を詠んでいますが、さすがに敗戦が近づくと、その日記は悲壮な色を帯びていきます。
海野は、敗戦が現実のものとなった場合、一家心中を決意していたのです。「八月十二日 女房にその話をすこしばかりする。「いやあねえ」とくりかえしていたが、「敵兵が上陸するのなら、死んだ方がましだ」と決意を示した。それならばそれもよし。ただ子供はどうか?子供も、昨日のわが家の集会を聞いたと見え、ある程度の事情を感づいているらしい。「残っているものを食べて死ぬんだ」といったり「敵兵を一人やっつけてから死にたい」という晴彦。青酸加里の話まで子供がいう。私はすこし気持ちが軽くなったり、胸がまた急にいたみ出したりである」「八月十五日 本日正午、いっさい決まる。ただ無念。今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合わすいとまもなし。よって、明日は最後の団欒してから、夜に入りて死のうと思いたり。くたくたになりて眠る。」結局、海野一家は、毒薬が入手できなかったことや、心境の変化もあって、心中を思いとどまります。十三自身は、精神的ショックも大きかったようで、結核にかかり、四年後、五十一歳で世を去っています。
8月5日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は徳川夢声の日記をご紹介します。
オールド・ファンの皆さんは懐かしくお聞きでしょう。これが、徳川夢声の肉声です。明治二十七年(1894年)生まれの夢声は、府立一中を卒業後、旧姓一高の入試に失敗。落語家に弟子入りしたものの、両親に反対され、活動写真の弁士となって、人気者となります。映画がトーキーとなり、弁士の仕事がなくなると、漫談や演劇などへ、活躍の場を広げていきました。昭和十四年からラジオで始めた、吉川英治作「宮本武蔵」の朗読も有名です。また、ユーモア小説やエッセイの名手としても知られ、直木賞の候補にもなったことがあるという、多才な方でした。夢声は、杉並区、荻窪駅北口の近くに長く暮らしており、やはり近所に住んでいた、井伏鱒二の作品、「荻窪風土記」にも登場し、目の前の銭湯から聞こえてくる女湯の話し声がウルサイと、防音装置を取り付けた…。そんな、爆笑モノのエピソードが紹介されています。
徳川夢声は、戦争中、詳細な日記を記していて、後に「夢声戦争日記」として刊行。当時の世相や芸能に関する、貴重な資料として、知られています。「八月十四日 夜九時、明日正午重大発表がある旨放送された。「二十三時、警報発令。私たちは灯を消した。私は暗闇で煙草など吸い、なおも情報を聞いていた。『本日来襲ノ敵目的ハ明ラカナラザルモ、断ジテ恐ルル要ナシ』(妙な言葉だ)『本日ノ敵機ノ来襲ハ長時間ニ渡ルベキヲモッテ長時間ノ態勢ニ遺憾ナキヲ要セラレタシ』この放送は翌日の三時まで続いた。放送員は最後にしみじみとした調子で、…さて皆さん、長い間大変ご苦労様でありました。と、付け加えた。私もしみじみとした気持でスイッチを切った。
「八月十五日 コーン……正午である。『起立ッ!』号令が放送されたので、私たちはその場で、畳の上に直立不動となる。続いて君が代の奏楽が流れ出す。この国歌、曲が作られてこの方、こんな悲しいときに奏されたことはあるまい」「玉音が聞こえ始めた。何と言う清らかな御声であるか。有難さが毛筋の果てまで染みとおる。」「足元の畳に、大きな音を立てて、私の涙が落ちていった。私などある意味において、最も不逞なる臣民の一人である。その私にして、かくの如し。全日本の各家庭、各学校、各会社、各工場、各官庁、各兵営、等しく静まり返って、これを拝したことであろう。かくの如き君主が、かくの如き国民がまたと世界にあろうか、と私は思った。このよき国は永遠に滅びない!直感的に、私はそう感じた。」
8月6日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は内田百閧フ日記をご紹介します。
明治二十二年生まれの内田百閧ヘ、当時、五十五歳。麹町、五番町に家を構えておりましたが、昭和二十年、五月二十五日の空襲で焼け出されます。そこで仕方なく、隣にあった松木男爵の家の、爺やさんが暮らしていたという、三畳一間の狭い小屋で奥様と二人、暮らし始めました。ところが、その松木男爵の世話をしている、Kさんという未亡人が、内田家とソリが合わないんですね。東京中が焼き尽くされ、食べ物もろくに手に入らない時代。人の心がサツバツとしてくるのも、仕方のない面はあったでしょうが、それにしてもこのKさん、「内田さんが缶詰を盗んだんですよ…」と、男爵に根拠のない告げ口をするなど、百閧ノとっては、大変、困った人物だったようです。
七月四日の日記。盗難の疑惑をかけられ、奥様が憤慨しているのに対して、「そんな馬鹿な話に乗って腹を立てたりしてはいけないから、相手にするなと戒めておいたが、本当にそう言ったとすれば、Kの未亡人、顔がしゃくれそこねて伸びているから『しゃもじ』と称しているのだが、しゃもじの空想力、甚だ狭きを恨むのであって、缶詰でなく何かほかのモノを見つくろえばいいのにと思う。缶詰はこの小屋に落ち着いた当初、こちらから四つか五つ、進呈した品である」日記では、この後、「しゃもじ」としか書かれなくなってしまった未亡人。それでも、焼け出された内田家にとっては、この「しゃもじ」のところから漏れ聞こえてくるラジオが、貴重な情報源だったのです。「八月十三日。母屋のラジオが今日は聞かれないので、甚だ気を遣い、気づかれがした。しゃもじの方のラジオは鳴っているのだが、よく聞こえない。もっと聞こえるようにしてくれと頼むと、調子が悪いのだとのことにて、結局聞かれなくしてしまった。バロンの親戚の書生としゃもじと仲悪く、そのためのしゃもじの意地悪と覚えたり。困るのはこちらであって、やきもきすれども、如何ともするあたわず」そんな犬猿の仲のしゃもじさんですが、それでも、天皇陛下の重大放送があるということになれば、やはり、態度が変わってくるようです。
「八月十五日。昨夜より今日正午重大放送ありとの予告あり。今朝の放送は天皇陛下が詔書を放送せられると予告した。まことに破天荒のことなり。昼前、しゃもじ小屋に来たりて、ラジオを聴きに来るよう案内してくれた。正午少し前上着を羽織り、家内と初めて母屋の二階に上がりてラジオの前に座る。天皇陛下の御声は録音であったが、戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず。どういう涙かと言うことを、自分で考えることが出来ない。」
8月7日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、鎌倉に住んだ文学者、高見順の日記をご紹介します。
かつて源頼朝が幕府を開いた、鎌倉。この趣のある街には、戦前から数多くの文化人たちが暮らし、彼らは「鎌倉文士」と、一まとめにして呼ばれていました。大正の末、里見ク(とん)と久米正雄が移り住んだのを手始めに、永井龍男、大佛次郎、川端康成、横山隆一、小林秀雄といった人々がこの街に集い、後に「鎌倉ペンクラブ」という親睦団体も生まれました。昭和二十年。作家たちの仕事の場も極端に少なくなり、印税収入も心細くなってきました。そこで、久米正雄と川端康成の二人がアイディアを出します。「みんなで、貸本屋をやろうじゃないか」当時、新刊書などはなかなか手に入らず、人々は活字に飢えていました。幸い、作家たちの手元には膨大な本のコレクションがあります。これを持ち寄って、お金を取って貸し出せば、けっこうな収入になるのではないか、と考えたのです。
お店は、鎌倉・八幡通りの、古いおもちゃ屋さんの場所を借り、昭和二十年の五月一日に開店。後のノーベル賞作家、川端康成も、毎日店番に立っていました。狙いは大当たりして、戦後には出版も手がけるようになります。そんな鎌倉文庫の中心メンバーの一人が、高見順。あのタレント、高見恭子さんのお父様ですね。高見順の「敗戦日記」から。「八月十四日。庭に出来たトマトを自分で台所で輪切りにして馬鈴薯に添えた。熱い馬鈴薯の皮をむいて塩をつけて食う。『アメリカ軍が入ってきたら……西洋人と言うのはジャガイモが好きだから、もうこうして食えなくなるんじゃないか』米の代用の馬鈴薯だが、その馬鈴薯を取り上げられたら、何をいったい食うことになるのだろう」「銀座から駅へ向かう途中、高島君の友人らしいのが『十一時発表だ』と言った。四国共同宣言の承諾の発表!戦争終結の発表!『ふーん』皆、ふーんというだけであった。溜息をつくだけであった。戦争が終わったら、万歳!万歳!と言って、銀座通りを駆け回りたい、そう言った人があったものだが。
私もまた銀座へ出て、知らない人でもなんでも手を握り合い、抱き合いたい。そう言ったものだが。銀座は真っ暗だった。廃墟だった」「八月十五日。警報。情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下おん自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。『ここで天皇陛下が、朕と共に死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持ちだった。「十二時、時報。君が代奏楽。詔書のご朗読。やはり戦争終結であった。君が代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。…ついに負けたのだ、戦いに敗れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。目に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉が仕切りと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
8月8日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、劇作家・菊田一夫の日記をご紹介します。
森光子さん主演「放浪記」の作者として知られる、劇作家・菊田一夫。明治四十三年(1908年)の生まれですから、ことし生誕百年を迎えました。大阪や神戸で働きながら夜学に通い、十七歳で上京。サトウハチローの弟子となり、浅草で数々の軽演劇を書いて注目されるようになり、エノケンやロッパのための脚本を書いてヒットを飛ばします。戦争が激しくなってくると、「お国のために、みんなでがんばろう!」と観客を煽る、いわゆる「戦意高揚劇」を量産しました。ところが、日本の敗戦が近づいてくると、戦争に協力し続けてきた彼は身の危険を感じるようになります。
「八月十四日 午後三時、情報局S氏のもとへゆく。『終戦が決定しました。帝都には戒厳令が敷かれるでしょう。それ以前に、あなたは東京から外に出たほうがいいな。どの範囲までが戦犯に指定されるかわからないが、あなたは、いずれにしても家族の傍にいきたいでしょう。七時を過ぎると、東京を出られなくなりますからね』岩手県水沢駅までの二等乗車券と急行券が手渡された。」菊田は、いったん下宿先の家に戻った後、上野駅に向かい、七時までに東京を離れるべく、宇都宮行きに乗り込み、そして午後十時、宇都宮から青森行き急行に乗り換えます。「列車着く。そのとたん、空襲警報発令。人々は探照灯の光の下、陰惨な薄闇の中で、我勝ちに乗車しようとしてひしめく。二等車のみならずどの窓も満員。ただ一箇所、ゆとりありげな窓があったので、その窓にリュックサックを投げ入れ、窓枠に手をかけ、這い上がろうとすると『馬鹿、貴様らの乗る所ではない』と、リュックサックは私の顔にぶつかって投げ戻されてきた。放り出したのは、一人の陸軍将校と二人の兵。三人でその一区画をのうのうと占領しているのであった」立錐の余地もない客車に何とか滑り込んだ菊田。身動きも十分に出来ないまま、夜汽車は北へと走ります。
「八月十五日正午 まだ何の音沙汰もなし。列車は走り続ける。水沢に着いたのは午後二時であった。まだ終戦を知らぬためか依然として、皆々血走った目。老婆に押しのけられ仰向けに転ぶ。妻に頼まれ、防空壕にしまいこんで無事だった、シンガーミシンの頭がリュックサックに入っているので、重くて起き上がれない。駅前に出ると、例の陸軍将校と二人の兵が放心した顔で突っ立っている。道が判らなくてゆきくれた顔だ。その顔に汗は流れっぱなし、彼らの立っている駅の外壁に『本日正午終戦の御詔勅放送がありました』とだけ書いて貼ってある。発表は今日の正午だったのか。」戦犯となることを恐れて水沢へ逃げた菊田一夫。しかし、戦後間もなく、占領軍に求められ、戦災孤児を描いた放送劇「鐘の鳴る丘」で、大ヒットを飛ばします。大衆を動かす力を持った劇作家の力量は、日本を統治するアメリカにとっても、得がたい才能だったのです。
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