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7月14日(月)〜7月18日(金)
今週は、「夏休みタイムスリップ」。
明治時代の青少年は、どんな夏休みを過ごしていたのか。当時を記録した文章から、その様子を探ってまいります。
7月14日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は「半七捕物帖」で知られる作家、岡本綺堂の、少年時代の思い出をご紹介します。
岡本綺堂の本名は、「敬う」に、漢数字の「二」で、敬二。明治五年、東京・高輪に生まれています。父親は、元・徳川幕府の御家人。幕府軍に参加して宇都宮、白河で新政府軍と戦い、負傷して江戸に戻ってきました。明治維新後は、イギリス公使館の書記官の仕事を得て、高輪泉岳寺の近くに住まいを定めます。明治六年、綺堂が一歳のとき、公使館の移転に伴い、麹町区に引越し。現在の地下鉄・半蔵門駅のすぐ近くで、少年時代を過ごします。東京府尋常中学、現在の日比谷高校を卒業後、東京日日新聞社に入社。新聞記者として忙しい毎日を送る傍ら、「修善寺物語」「番町皿屋敷」などの戯曲を書き上げます。四十歳を過ぎてからは記者を辞め、作家活動に専念。「半七捕物帖」など数多くの作品を残しました。成長した綺堂が、後に子供時代のことを思い出しながら綴った文章の中に、夏休み…当時は「暑中休暇」と呼んでいた、その休みの間の生活が描かれています。ほんの少しですが、朗読してみましょう。
「私の子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒きもひと通り済んで、町の灯がまばらに燦(きら)めいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇(うちわ)の音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。」「白地の浴衣を着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。」
「花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人を嚇(おど)してよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。」「学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、
避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そうして、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯っ子として育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれを悔もうとは思わない。」
7月15日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は今日は明治を代表する俳人、正岡子規の夏休みをご紹介します。
いま、聞こえたのは「ホトトギス」の鳴き声です。正岡子規の「子規」とは、実は、この「ホトトギス」のこと。結核にかかり、喀血した自分を、「血を吐くまで鳴き続ける」といわれるホトトギスになぞらえ、この号を用いるようになりました。慶応三年(1867年)、四国・松山に生まれた子規は、地元の松山中学を卒業後、明治十六年、十六歳の年、受験のため上京します。子規が目指したのは、東京大学に入学するための、予備教育機関である「大学予備門」でした。「大学予備門」…奇妙な名前ですよね。明治の始め頃、東京大学は、欧米から数多くの教師を招き、講義はすべて英語、テキストもすべて原書を用いて、徹底的なエリート教育を行っていました。そのため、ここで学ぼうとする学生たちは、かなりハイレベルな英語力を身につける必要があったんです。
そこで、大学での本格的な授業についていけるよう、徹底的に英語を叩き込むための学校が、「大学予備門」。場所は、東京大学と同じ敷地内の、神田錦町。現在、学士会館のある付近にありました。そして、この「予備門」に入るための予備校もいくつかあり、上京した子規が学んだのも、そうした予備校の一つでした。そして、一年後の夏休みのこと。「十七年の夏休みの間は本郷町の進文学舎とかいふ処へ英語を習ひに往つた。本はユニオン読本(とくほん)の第四で先生は坪内(雄蔵(ゆうぞう))先生であつた。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ。」…と、後に子規は回顧しています。名前の出た「坪内雄蔵」とは、すなわち逍遥。シェイクスピア全集の翻訳で有名なあの坪内逍遥ですから、確かに講義は面白かったのでしょう。英語修業もなかなか進まない、と嘆いた子規ですが、この年の九月、予備校仲間と試しに受験したところ、これが合格してしまったんですね!その時の模様が面白いので、また、朗読してみましょう。
「活版摺の問題が配られたので恐る恐るそれを取つて一見すると五問ほどある英文の中で自分に読めるのは殆どない。第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうもない。この時余の同級生は皆片隅の机に並んで坐つて居たが(これは始より互に気脈を通ずる約束があつたためだ)余の隣の方から問題中の難しい字の訳を伝へて来てくれるので、
それで少しは目鼻が明いたやうな心持がして善い加減に答へて置いた。」いってみれば、予備校仲間で、集団カンニングしたわけです。で、まさか、受かってる訳はないと思いながらも、一応見に行こうと誘われ、合格発表に出かけてみると、なんと合格していたというわけです。子規の感想。「この時は試験は屁の如しだと思ふた。」
7月16日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は物理学者にしてエッセイスト、寺田寅彦の夏休みをご紹介します。
夏目漱石の名作「吾輩は猫である」の登場人物、物理学者・水島寒月のモデルとしても知られる寺田寅彦。「猫」の中の寒月と同じく、ホンモノの寺田寅彦も、ヴァイオリンの演奏が大好きだったそうです。今からご紹介しますのは、大学一年から二年へ上がるときの夏休み、といいますから、明治三十三年、ちょうど1900年の夏の出来事。ここに登場する「ケーベルさん」というのは、東京大学で哲学を教える傍ら、東京音楽学校でピアノも教えていたという才人、ラファエル・フォン・ケーベルという方です。なんといっても、モスクワ音楽院で、チャイコフスキーからピアノを教わったそうですから、これはスゴイですよね。当時、既に家庭を持っていた寺田寅彦は、この年の夏帰省せず、ヴァイオリンの一人稽古をして時間を潰していました。ある演奏会でケーベル先生のピアノを聞き、その人柄に魅せられた寅彦は、手紙を書いて面会を求めます。
「夏休みにヴァイオリンをもてあそんでいるうちにも、私の頭の中のどこかにケーベルさんの顔が浮かんでいたものと見える。どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。」寅彦は、返事を期待していたわけではありませんが、思いがけず「訪ねてくるように」との手紙が届きます。中に出てくる「植物園」とは、東大の小石川植物園です。「それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。約束の日に白山御殿町(まち)のケーベルさんの家を捜して植物園の裏手をうろついて歩いた。かなり暑い日で近辺の森からは蝉の声が降るように聞こえていたと思う。」
「ドイツ語は少しも話せず、英語もきわめてまずかった私がどんな話をしたかほとんど全く覚えていない。ただ私がヴァイオリンを独習している事を話した時に、ケーベルさんは私のもっている楽器の値段を聞いた。それが九円のヴァイオリンである事を話したら、ケーベルさんは突然吹き出して大きな声で、さもおもしろそうに笑った。」「私がケーベルさんを尋ねた第一の動機は、今になってみると、ヴァイオリンの問題よりはやはりむしろケーベルさんに会う事であったらしく思われる。考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。」この文章は、「二十四年前」という題がつけられていて、大正十二年にケーベルの訃報に接した寅彦が書いたもの。ケーベルは、大正三年、ロシアに帰国する予定でしたが、第一次大戦勃発のため出発を見合わせることになり、結局機会を失って、日本でその生涯を全うしました。
7月17日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は皆様おなじみの文豪、芥川龍之介の夏休みです。
芥川龍之介ほどの文豪ともなりますと、発表された作品だけでなく、手紙や日記などの文章も、そのほとんどが公になっています。で、これからご紹介いたしますのは、芥川龍之介少年が十二歳のときの、夏休みの日記。七月二十一日から八月三十一日までという、まさしく、正しい「夏休みの日記」でございます。栴檀は双葉よりかんばし、申しますが、この龍之介少年の文章からも、後の文豪の片鱗が伺えます。「七月二十一日 曇り のち晴れ下女に揺り起こされて せっかく楽しく遊んでいた夢の国を離れたのは ちょうど五時三十分でした。いやなセピア色をした雲が二つ三つ五葉の松のかげから静かに吹き送る朝風にあほられて、面白いよーに流れていくのを眺めながら朝飯をしたためました」夏、といえば、付き物なのが、夕立。龍之介少年は、どうやら、雷が苦手だったようです。
「七月二十三日 半ば、晴れ、半ば曇り、のち 雷雨夕方、霹靂空をつんざき、雷光 目に焼き金を挿すが如しの恐ろしい光景が演ぜられて、自分は蚊帳の中にうづくまり、『くわばらくわばら』を続けました。この日の雷は、おおよそ二十三箇所ばかりも落ちたと言う事です。落雷した所の、裂けた竹の屑や、杉の皮などを貰いに来る者がたくさなるとは、迷信者の多い世の中哉(かな)。ただ、それが雷よけになるというので」以前、この番組でもご紹介したことがありますが、大川…隅田川近くに住んでいた龍之介少年は、この川で水泳を習い、大いに楽しんでいたようで、日記にも、しばしば水泳に関する記述が登場いたします。「八月十二日 晴れ今日、水練場に行ってみると、昨日まで僕と同じ五級でいた人が四級になっているので、その訳を聞いてみると、昨日自分が帰った後で試験があったとの事。自分、少なからず、否、非常に怒り、かつ、非常に悔しがりました」
「八月十三日 晴れ水練のことで持ちきりですが、今日自分と吉田君とは四級の試験を受けて、まずまず及第しました。うれしまぎれに、すぐ吉田君と協会を飛び出して、柳橋へ級章を買いに行きました」楽しい夏休みも、九月の訪れと共に終わってしまいます。「八月三十一日 少し寒いかしれないが行ってみよー…と水練場へ行くと、今日は休業と大きく書いてありました。夕方、登校準備をしました。暑中休暇の日記は以上で終ります。私はこの暑中休暇に於て、地図や図画や作文にこれ迄の休暇に受けない苦しみをしましたが、種々雑多の事柄を覚えました。これも休暇の賜物と言わなければなりますまい。休暇 その文字だけでも平日の労を癒すのに違いないですがその中にあって遊びつつ、目に触れ耳に聞く事物について観察したならば、いと趣味ある事でありましょう」
7月18日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は天才少女とうたわれた作家、宮本百合子の夏休みです。
作家、宮本百合子は、明治三十二年(1899年)、東京・小石川区 原町、現在の文京区・白山に生まれました。当時の名前は、中條(ちゅうじょう)ユリ。父は、建築家の中條精一郎。何不自由なく育った百合子は、日本女子大予科に入学、ほどなく十七歳で処女作「貧しき人々の群れ」を中央公論に発表し、「天才少女」と注目を集めます。留学先のアメリカで知り合った日本人研究者と、二十歳で結婚しますが、四年後に離婚。その後、三年近くに渡り、誕生したばかりのソヴィエトに渡り、見聞を深めます。帰国後はプロレタリア文学者となり、後に共産党委員長となる九歳年下の宮本顕治と再婚しますが、弾圧が厳しくなり、顕治は逮捕され終戦まで十二年入獄…と、まさにジェットコースターのような運命の中を生き抜いた女流文学者でした。
世に知られた処女作は、先ほどの「貧しき人々の群れ」ですが、実はそれ以前に「幻の処女作」があったという話を、 ご本人が書き残していらっしゃいます。時に、明治四十四年(1911年)、百合子、十二歳の夏休み。「小学校六年の夏休みのことであった。私が毛筆で書き出したのは、一篇の長篇小説であった。題はついていたのか、いなかったのか、白い妙にツルツルした西洋紙を厚く桃色リボンで綴じ、表紙の木炭紙にはケシの花か何かを自分で描いた。或る午後、私が蝉の声をききながら、その小説を書いているところへ、何かの都合で母が来た。そして、書いているものを見つけ、「それ、百合ちゃん、お前が書いたの?」というからそうだと答えたら、母は、「まあ、何だろ!」と、一種の表情で云い、その場でとりあげたのであったかどうか、ともかくそれっきり、その桃色リボンで綴じた小説は私の前から消えてしまった。
夏の海辺の夜の中を若い男と女とが散歩をしている。女は白い浴衣で団扇をもち、漁火が遠く彼方にチラチラ燦いているという極めて風情のあるところで、肝心の帳面ぐるみ、小学生作家の空想は母によって中断されてしまったのである」…いかにも、早熟な女子小学生の夏休みという感じがいたします。小学生時代の百合子は、毎年、福島に住むおばあさんの家に出かけて、一月ほど暮らすのが恒例になっていました。「東北に向って行く汽車は、その時分黒くて小さかった。私は袴をはいて窓際に腰かける。汽車は一つ一つの駅にガッタンととまり、三分、又五分と停車しながら次第に東京を離れて東北の山野の中へ入って行く」この、幼い頃の東北での見聞が、後に処女作、「貧しき人々の群れ」へとつながっていったのだそうで、まったく、優秀な人というのは、やることが違いますね。
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