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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
6月23日(月)〜6月27日(金)
今週は、「モダン東京の面影 同潤会アパートメント」。
大正から昭和九年にかけて合計十六箇所が建てられ、大変な人気を博した同潤会アパート。今はもう、僅か二ヶ所を残してすべて解体されてしまった、その面影を偲びつつ、住宅史における役割などを探ってまいります。


6月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は「代官山アパート」のご紹介です。
大正十二年(1923年)9月1日、午前十一時五十八分に起きた関東大震災。ちょうどお昼時だったこともあり、多くの火事が発生して、十万人以上の人々が亡くなりました。焼け野原となった東京で、住宅を供給することを目的に設立されたのが、財団法人「同潤会」です。住宅公団、あるいは住宅供給公社のご先祖様のような存在、…と申し上げれば、わかりやすいかもしれません。で、この「同潤会」が、火事に強い住宅を作ろうと建てた鉄筋コンクリート造りのアパートが、いわゆる「同潤会アパート」と呼ばれるものです。大正十五年に竣工した、墨田区押上の「中之郷(なかのごう)アパート」を皮切りに、昭和九年の新宿区新小川町(まち)「江戸川アパート」まで、全部で十六ヶ所が建設されました。
現在では、その多くが建て替え、再開発のため取り壊され、残っているのは僅か二ヶ所に過ぎません。よく知られた存在としては、現在、表参道ヒルズになっている「青山アパート」や、代官山アドレスになった「代官山アパート」が双璧でしょう。代官山アパートが出来上がったのは、「ちゃっきり節」が流行した、昭和二年(1927年)です。平成八年(1996年)に解体されるまで、七十年に渡り、代官山のランドマークとして親しまれました。ご記憶の方も、たくさんいらっしゃることでしょう。台地の端の斜面、およそ六千坪の敷地に、二階建て二十三棟、三階建て十三棟、三百三十七戸の瀟洒なアパートメントが建てられました。当時の世界的な建築の潮流を意識したモダンなデザインもさることながら、独身者向けと家族向け、両方の部屋が用意されているのが同潤会アパートの特徴。
同じ敷地の中に、違う立場の人が一緒に住むことで、さまざまな交流が生まれることを意図しているのです。また。一緒に暮らす人々が良好な関係を持てるように、集会室や娯楽室、屋上のもの干し場といった施設が設けられていました。大正から昭和初期の建物ですから内風呂もなく、共同浴場や、代官山では地域の人々も利用できる銭湯が設けられました。また、独身者向けの食堂もあって、こうした施設は、平成八年に取り壊されるまで、現役で活躍していました。

6月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「青山アパート」そして「平沼町アパート」をご紹介します。
懐かしい水谷豊さんの歌声が聞こえてまいりましたが、この表参道の坂道に沿って建っていたのが、同潤会の「青山アパート」。平成十五年(2003年)に惜しまれつつも解体され、現在は「表参道ヒルズ」に姿を変えています。浅野長勲(あさの・ながこと)侯爵から譲り受けた、およそ千八百坪の三角形の土地に、家族向けの十棟、百三十八戸の住宅が建てられていました。後には建物全体にツタがからまって、なんともいえない雰囲気を醸し出し、数多くのブティックなども入居していたのは、記憶に新しいところです。関東大震災のあと、火事に強い住宅として建てられた同潤会アパートは、東京が度重なる空襲を受けても、一棟残らず焼け落ちることはありませんでした。
そのため、戦後も、多くの人々が争って入居を求め、たとえば、ここ青山アパートには、三百勝投手として有名な、ヴィクトル・スタルヒンが住んでいたことがあります。また「感動した!」「自民党をぶっ壊す!」でおなじみの、小泉純一郎・元首相のご両親も青山アパートの住人でした。元首相は、表参道ヒルズの設計者、安藤忠雄さんの展覧会を訪れ、新しい建物の模型を見せられたとき、取り壊される青山アパートについて、「お袋がね、駆け落ちして私の父親と住んだアパートなんだよ」と、感慨深く語っていたそうです。表参道ヒルズの、表参道交差点寄りの一角は、「同潤館」と名づけられ、古の青山アパートの外観を再現。手すりなどの一部に、かつてのパーツが再利用されています。青山アパート、全十棟がすべて出来上がったのが、昭和二年(1927年)の4月のことでした。
それから十ヵ月後の十二月に完成したのが、横浜駅にほど近い「平沼町(ひらぬまちょう)」アパート。三階建て二棟、全部で百十八戸という、こぢんまりとしたアパートメントハウスでした。いま流れているのは、昭和二十八年(1953年)の名作、小津安二郎監督「東京物語」のサウンドトラックですが、実は、この「東京物語」に、このアパートが登場しています。広島・尾道から上京した、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が、戦死した次男の嫁・原節子の部屋を訪れる場面。平沼町アパートの外観が写って、それからカメラは部屋の中へと移動していきます。部屋の内部は、おそらくセットで再現されたものでしょうが、当時のアパートで人々がどんな風に暮らしていたかがわかる、とても興味深いシーンに仕上がっています。平沼町アパートは、同潤会アパートとしては最も早く、昭和五十七年(1982年)頃に解体されました。

6月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「上野下アパート」のご紹介です。
現在残っている同潤会アパートは、僅かに2ヶ所。さらに現在も人が暮らし、現役の建物として活躍しているのは、地下鉄銀座線・稲荷町駅すぐそばの、「上野下アパート」ただ1ヶ所だけになりました。この「上野下アパート」が建てられたのは、いまお聞きいただいている佐藤千夜子「東京行進曲」が爆発的なヒットを記録した、昭和四年(1929年)4月。来年で、竣工から満八十年を迎えることになります。当時の建築技術の粋を集めて、また最新のデザイン・センスを取り入れられて作られた、同潤会のアパートメント・ハウス群。これだけの文化的、歴史的価値のある建物が、なぜどんどん取り壊され、姿を消していくのか?実は、関係者の皆様方も、なんとか保存できないかと、あちこちで奔走されたのですが、うまくいきませんでした。
同潤会アパートは、最初は賃貸専用でしたが、戦後、居住者に払い下げられました。つまり、一戸、一戸、持ち主が違うのです。文化財としての値打ちのある建物とはいえ、指定を受けるためには、所有者の合意が必要。そして、何百人という所有者全員が一致して合意することは、まず、不可能。なんとか一部だけでも保存できないかと考えても、こうした近代建築に対する行政の意識は低く、維持管理の費用は、住民の負担になってしまいます。いかに文化的歴史的価値の高い建物とはいえ、背に腹は変えられません。こうして、ほとんどのアパートが涙を呑んで解体、建て替え…という道をたどって来たのです。
林家喜久扇師匠のモノマネでもおなじみ、先代の林家正蔵、彦六師匠の懐かしい高座の模様です。稲荷町の師匠として親しまれた先代正蔵師匠は、長屋住まいで知られていましたが、この彦六師匠が暮らしていらっしゃった、通称「落語長屋」。実は、「上野下アパート」の道を一本隔てた向かいにありました。彦六師匠のお住まいは、既に取り壊されましたが、師匠も通っていらしたという、上野下アパート一階の理髪店は、現在も営業を続けています。同潤会は、アパートを地域に溶け込ませることを目的に、その一部をもともと店舗用に設計してあることが多いのですが、ここ上野下アパートもその一つ。理髪店で髪を切った後、すぐ裏の銭湯で汗を流し、それから上野か、あるいは浅草へのんびり歩いて夕涼み…こんな休日の午後の過ごし方も、楽しそうですね。

6月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は「清砂通(きよすなどおり)アパート」をご紹介します。
地下鉄半蔵門線、大江戸線の清澄白河駅から、清洲橋通りを東へ歩いていくと、地上三十二階建ての巨大なマンションが見えてきます。ここが、かつての同潤会「清砂通アパート」のあと。三越か、清砂通アパートか…と当時うたわれたという、ゴージャスな1号館の外観が再現されています。およそ四千六百坪の敷地に十六棟が立ち並び、全部で六百六十三戸を数えたという、同潤会でも最大規模を誇ったこのアパートは、昭和四年(1929年)5月に完成。当時は隅田川までさえぎるものが何もなく、川開きともなると、皆が屋上に上って花火を眺めました。当時の写真が、今ここにありますが…
さて、この「清砂通アパート」には、一人の名物男が住んでいました。戦後の政治史では、必ず名前の出てくる、この人です。昭和三十五年(1960年)十月十二日、日比谷公会堂での演説中に襲われ、惜しくも世を去った当時の社会党委員長、浅沼稲次郎(あさぬま・いねじろう)。豪放磊落な人柄で知られ、「人間機関車」といわれた浅沼は、この清砂通アパートの住人だったのです。完成するとすぐ入居し、最初は十二号館の独身者用の部屋、そして結婚してから十号館に移り住みました。昭和二十年、三月十日の東京大空襲の時も部屋にいて、布団を濡らして窓にあて、九死に一生を得ました。アパートでは亡くなった人も多かったのですが、浅沼は生き延びた人たちのため奔走し、食料を調達。「清砂通アパートの恩人」として、住人たちに慕われました。
浅沼委員長と奥様、お嬢様の一家三人が暮らしていたのは四畳半と六畳、それに台所だけの狭い部屋でした。新聞記者も押し寄せてくるし、選挙区からも離れているし、引越しを勧められることも多かったのですが、「俺はここで死ぬと決めている」と、一切耳を貸さなかったそうです。浅沼家の部屋は、奥様が亡くなられた後も、アパートの取り壊しまで、大切に保存されていました。ここに、浅沼委員長が、窓から乗り出して子供たちを見ている写真がありますが…「清砂通アパート」は、解体前の平成8年(1996年)に映画、「スワロウテイル」に登場しています。中庭の風景が上海の路地に見立てられたんだとか。興味のある方、ぜひご覧になってみてください。

6月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は「江戸川アパート」をご紹介します。
モダンな外観や住み心地のよさから、戦前、東京に住む中産階級の人々の間で、圧倒的な人気を誇った同潤会のアパートメント・ハウス。その集大成として16ヶ所の最後に建てられたのが、現在の新宿区新小川町(しんおがわまち)、飯田橋駅にほど近い大曲に建てられた「江戸川アパート」でした。戸数は全部で二百六十、竣工は昭和九年(1934年)。当時、大陸での戦争が次第に激しくなりつつあり、建築資材の確保も難しくなって、最新技術を駆使した鉄筋コンクリートのアパートなど、作りたくても作れない時代になっていたのです。そんな時代にあって、電話は交換台式で交換手が常駐。また水洗トイレにダストシュートがついて、さらにエレベーターまでが設置されたこの江戸川アパート。もうこれほどの物件は、なかなか出ない…と思ったのか、入居の競争倍率は実に13倍もありました。
文学者や音楽家、医者、政治家などが数多く住んでいたこのアパートは、文学作品にも描かれています。たとえば竣工から二年後、昭和十一年から翌年にかけ書かれた獅子文六の「悦ちゃん」には、売れっ子の作曲家が住む「大曲の近所の横を入った大アパート」として登場。その部屋は「一号館の三階」にあって、「独身のくせに、贅沢にも、副室のついた広い部屋を占領している。作曲家に必要なピアノがおいてあるせいもあるが、モダン好みの豪華なセットが、アパートというよりも、応接間の印象を与える」と、描写されています。今で言うなら「東京ミッドタウン」のような、人気スポットだった、ということなのでしょう。どちらかといえば、ある程度のお金持ち向きとはいえ、江戸川アパートにも、住民のコミュニティを支援するような、さまざまな仕掛けが施されておりました。
屋上の洗濯室と物干し場を始めとして、集会室、食堂、理髪店、さらにはバーや共同浴場。戦後、いま聞こえている「君の名は」がヒットしたころは、ご他聞に漏れず、夕方の放送時間になると共同浴場の女湯はからっぽになったんだそうです。生活に余裕のある人々の住まいですから、戦後になると、毎日、そこかしこから、ピアノや声楽などを練習する音が聞こえてきたという江戸川アパート。集会室ではバレエ教室が開かれたり、中庭でシェイクスピアの野外劇が演じられたり。まるで御伽噺のような暮らしがそこにはありました。建て替えのため解体されたのは、平成十五年(2003年)のことでした。

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