番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
6月16日(月)〜6月20日(金)
今週は、「ニッポン見聞録」。
幕末から戦前までの、外国人による日本旅行記の中から、江戸、東京にまつわる興味深いエピソードをご紹介してまいります。


6月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは、幕末のプラント・ハンター、イギリスからやってきたロバート・フォーチュンです。
江戸時代のほとんどを通じて、日本が「鎖国」…つまり、外国との行き来を原則的に禁じていたことは、皆様もよくご存知の通りです。そこへやってきたのが、黒船に乗ったペリー。嘉永六年(1853年)、半ば脅しをかけるような形で我が日本の土を踏みますと、翌年、再び来航。このとき「日米和親条約」が結ばれまして、長い長い鎖国は終わりを告げました。本日の主人公、ロバート・フォーチュンが来日したのは、七年後、万延元年(1860年)のこと。
フォーチュンは、この時48歳。子供のころから植物や園芸が大好きで、ロンドン園芸協会の付属庭園で働いていました。まさに大英帝国の絶頂期とあって、世界各地の植民地から、ロンドンに珍しい植物がどんどん送られてきます。こんな珍しい植物が生えている国を、じかにこの目で見てみたい…という願いがかなって、フォーチュンは東アジアへプラント・ハンティング、植物採集のために派遣されることになりました。彼の名前を知られるようになったのは、中国にしかなかった「お茶」の木を、植民地・インドに移植させた出来事。これにより、イギリスの「茶」の輸入量が爆発的に増え、現在の「紅茶文化」の基礎が生み出されることになります。
安政六年(1859年)、中国に滞在していたフォーチュンは、日本が開国したことを聞き、渡航を決意。翌年、無事に来日を果たします。江戸にやってきたフォーチュンは、菊人形で有名な団子坂や、王子周辺を回って、ヨーロッパにない植物を買い集めますが、中でも驚いたのが、「ソメイヨシノ」で有名な染井村、現在の巣鴨・駒込界隈の眺めでした。2キロあまりに渡って、道の両側に、園芸農家が広がり、村全体で商品としての鉢植えや露地植えの苗木を栽培している。間違いなく、世界一大きな園芸の町だ…と驚くフォーチュン。宝の山の様な植物に囲まれ、さぞや幸福だったことでしょう。
フォーチュンがもう一つびっくりしたのは、そこら中に「酔っ払い」が溢れていること。新宿の十二社…現在の新宿中央公園近くは、清らかな水が沸き、滝の多い風光明媚な土地。昼間から茶店でガブ飲みをする酒好きも沢山いたんだそうです。で、酔っ払いの皆さん、前後不覚になると、目覚ましのため、ゴウゴウと水が落ちてくる滝つぼに頭を突っ込みます。すると、いくらか目が覚めるので、そこからまた飲み始め、酔うとまた滝つぼに頭を突っ込む、この繰り返しでエンエンと飲み続ける…と紹介していますが、果たしてホントにそんな習慣があったのか、どうか?

6月17日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは、かの有名な、ハインリッヒ・シュリーマンです。
ハインリッヒ・シュリーマン。子供のころからエーゲ海の古代都市・トロイアに憧れ、後にホンモノのトロイアの発掘に成功した男として有名です。商才に恵まれていたシュリーマンは、若くして巨万の富を築いた後、三十台半ばでビジネスから引退。念願の発掘に乗り出すことになりますが、本格的な調査にかかる前、気分転換のためでもありましょうか、彼は世界一周の旅を経験しています。サッカーの中田ヒデ選手のようなものですね。で、その途中で、開国間もない日本にも立ち寄って、興味深い記録を残している、というわけです。
シュリーマンが横浜に上陸したのは、明治維新を目前に控えた慶応元年(1865年)の初夏。外国人と見れば襲い掛かられる、「攘夷」が盛んな物騒な時期でしたから、江戸に滞在している欧米人は、ごく僅か。それでも好奇心の塊であるシュリーマンは、つてを頼って、アメリカのポートマン代理公使から招待状を受け取り、意気揚々と江戸の街へと乗り込んだのです。江戸への道中、そして市内を観光するときも、常に5人もの役人に前後を警備されるという物騒さ。もし万一、外国人に何かあれば、幕府としても、損害賠償など大変な騒ぎになってしまいますから、慎重の上にも慎重を期していたようです。
シュリーマンが日本に滞在したのは、ほんの一ヶ月ほどですが、この間、横浜や江戸周辺を精力的に見て回り、詳細な旅行記を残しています。外国人が市内を歩くのは、まだまだ珍しかった時期ですから、どこでも人々が山ほど近づいてきて、「トウジン! トウジン!」と叫ばれるのには少々、閉口したようですが、それでもシュリーマンは、当時の日本人たちに暖かいまなざしを注いでいます。いわく、「世界で一番清潔な国民である」。どんなに貧しい人でも、毎日最低一度は銭湯に通っている。こんなにオシャレな人ぞろいの国は見たことがなかった訳です。もちろん、当時は男女混浴でございますが、これについても「なんと清らかで素朴だろう!」と、肯定的にとらえていらっしゃいます。もっとも、その割に、皮膚病の疥癬を患う人がヒジョーに多いのは気になったようです。疥癬はダニが寄生することで起きますが、これほど清潔好きなのに、どうして?…と散々頭を悩ませた挙句、自信たっぷりに、「唯一の原因は、日本人が米同様に主食にしている刺身にあると断言できる」とおっしゃっております。

6月18日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは、「イザベラ・バード」です。
大英帝国が生んだ、名高い女性旅行家 イザベラ・バード。彼女が日本にやってきたのは明治十一年(1878年)、四十七歳のときでした。まだまだ江戸時代の面影が強く残るこの時代、彼女はたった一人で、日本人のガイドだけを連れて、欧米人が脚を踏み入れたことのなかった東北、北海道の奥地を旅行し、詳細な記録を残しています。さすがは、冒険好きなイギリス人!とはいうものの、やはり女性一人で、未開の奥地を旅するのは無謀だからやめたほうがいい、という意見もあったようです。彼女自身も、多少の不安はなくもなかったようですが、旅行を終えた後、「まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はない」と感想を述べています。
「ごぜんさま〜」でも、しばしばお世話になっております、鬼怒川「あさや」ホテルでは、当時、バードが宿泊したのはおそらくウチではないか、ということで、3階のラウンジを「イザベラ・バード・ラウンジ」と名づけ、その功績を称えています。イザベラ・バードは、当時の外国人が皆そうであったように、横浜から日本に上陸し、鉄道で東京に移動。東北や北海道の情報を集めると共に、旅行に必要な装備を整えるため、しばらく滞在しています。そして、彼女はそこで歴史的な事件に立ち会ったのです。それは、日本で初めての近代的な劇場として知られている、新富町「新富座」の新装オープン。もともとは十二世 守田勘弥が明治八年に建てた劇場でしたが、火事のため焼け落ちてしまったのを、ガス灯の照明など最新の設備を備えて建て直したものです。明治十一年 六月、上流階級の紳士淑女たち、さらに東京在住の外交官などを招いて、華々しく?落としが行われ、バードも、イギリスのハリー・パークス公使に招かれ、この模様を目撃しています。
仰々しい音楽と共に幕が開くと、舞台の上には、燕尾服に身を固めた役者たちが続々と入ってきましたが、当時の日本人は現在と比べ、ずっと小柄でしたから、とにかく洋服が似合わない。この様子を見た、パークス公使の六歳の子供が、「パパ、あの醜い人たち、なんてヘンなの!」と、思わず大声を挙げましたが、バードも同感だったようで、「こんなことはこれが最初で最後にしてもらいたいものです」「全員が痩せた腕を不ぞろいに両脇に垂らし、手をサイズの合わない白い手袋に押し込んで、一様に嘆かわしい姿勢で、これから懲罰を受ける悪人のように立っています」と、書き残しています。まあ、魔が差しちゃったんでしょうね。新富座はこの後、九代目市川団十郎などが活躍し、日本の演劇史に重要な一頁を残しますが、関東大震災で焼失。現在、その跡地は、京橋税務署となっています。

6月19日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは、日本に初めてやってきた、外国の王様です。
近代日本を初めて訪れた、外国の王様は、誰か?カンのいい方なら、もうお気づきでしょう。そう、当時、まだアメリカに併合される前の、ハワイの王様。ハワイ王国 七代目国王、カラカウア一世でした。明治十四年(1881年)、カラカウア王は、世界の王室を見学し友好を深め、また移民を募ることを目的に、世界一周の旅に出ます。この模様を、国務大臣で、随員として旅に同行した、ウィリアム・アームストロングという方が、詳しく書き残しており、現在は日本語で読むこともできます。一行が日本に到着したのは、3月4日のこと。一応、「おしのび」という形だったので、何の歓迎も期待していませんでした。
ところが!船が横浜の港に入ろうとすると、停泊していたロシア、イギリス、フランス、日本の船から次々に礼砲が鳴らされ、天皇陛下の勅使を始め、各国の提督・司令官が次々に挨拶に訪れたので、王様はすこぶる上機嫌。さらに、ボートから上陸すると同時に(先ほど聞こえていた)軍楽隊によるハワイ国歌「ハワイ・ポノイ」の演奏が始まり、一同は大感激、みな、涙を浮かべました。これほどの歓迎を受けるとは思わず、着いたらまずまともなホテルを探さなければ…と、考えていたそうですから、本当にうれしかったんでしょう。一行は、これから十九日間にわたって日本に滞在しています。連日連夜のおもてなし。中でも一同が気に入ったのは、文化放送のすぐ近く、芝公園にあった会員制の高級料亭、「紅葉館」での芸者による接待だったそうです。
この「紅葉館」は、当時オープンしたばかり。貴族や政治家、芸術家たちのサロンとして親しまれましたが、昭和二十年、東京大空襲で焼失。現在、跡地には、東京タワーが建てられています。さて、日本がカラカウア王を丁重にもてなしたのには、実は、深刻な理由がありました。治外法権などを認めてしまった不平等条約を、なんとか改正するため、援軍になってほしかったのです。一方、カラカウア王にも、一つの提案がありました。当時、ハワイでは既にアメリカの影響力が強く、独立を脅かされていました。そこで、こちらも日本に味方になってもらおうと、姪であり、王位継承者である、「カイウラニ王女」を、日本の皇族に嫁入りさせられないかと、自ら明治天皇に打診してきたのです。王のこの願いは、残念ながら実現しませんでした。しかし、もし実現していたら、日本とハワイ、そして、日本とアメリカの関係はどうなっていたのか?興味のつきないところではあります。

6月20日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは、「キャサリン・サンソム」です。 
昨日までは幕末、そして明治の外国人旅行記をご紹介いたしましたが、きょうはぐっと時代が下り、戦前。いま歌声が聞こえているエノケン、榎本健一さんが大変な人気者となった、昭和のはじめ頃に、東京に滞在した、イギリス人女性を取り上げます。彼女の名前は、キャサリン・サンソム。外交官である夫の、東京への赴任に伴い来日したのが、昭和三年(1928年)で、それから日英関係が悪化する昭和十四年まで、十一年の月日を東京で過ごしています。その間、昭和十一年に、日本での見聞を一冊の本に著し、現在「東京に暮らす」というタイトルで、岩波文庫に収められていますが、この本が実に面白い。昭和初期の、東京の暮らしがいきいきと描かれていて、思わず引き込まれてしまいます。
キャサリン・サンソムは、戦前の東京の風俗…デパートの大食堂の賑わいや、本屋さんの立ち読み風景、植木屋さんの名人芸などを、見事に書き残してくれています。中でも面白いのが、お蕎麦屋さんの出前持ちに関する記述です。キャサリン・サンソムは、彼らを、「車輪の上のあっぱれな芸人」と賞賛し、「出前のお昼をあちこちの客に配達する姿ほど、面白い光景はありません」とユーモラスに書いています。「上に向けた手のひらで、お重と丼をいくつも高く積み重ねたお盆を支え、もう片方の手で自転車を操りながら自動車の間を縫って走り、角を曲がるときには体を傾けてバランスを取り、とまる時には、まるで的に当たった矢のように、すとんと止まります」「運転手たちからはよく怒鳴られていますが、路上の英雄は自転車の漕ぎ手です。自動車が入れないところもスイスイと走りぬけ、陽気に口笛を吹いたり、歌を歌いながら走っていきます」
確かに私も、子供の頃、よく見かけたように思います。こんな名人芸も、もうすっかり廃れてしまったんでしょうねえ。外国人に向けた日本ガイドという側面もある、キャサリン・サンソムの著書「東京に暮らす」。この中で、彼女が、「田舎の小さな食堂で、簡単に食事を済ませたいとき、知っておくと便利なメニュー」として紹介しているのが、「親子丼」と「うな丼」。「ご飯の上に、鰻の蒲焼を載せたうな丼ほど、おいしいものはありません」と、おっしゃってます。同感です!今日のお昼は、うな丼かな。

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター