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6月9日(月)〜6月13日(金)
今週は、「フォークソングの東京」。
70年代前半に生まれた、東京を舞台にしたフォークの名曲と、その「時代」を懐かしんでお送りしてまいります。
6月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日、取り上げますのは、「猫」、「地下鉄にのって」です。
1972年(昭和四十七年)十二月二十一日発売。作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎、翌年の春にかけて、十一万枚余りを売り上げたヒット曲です。歌詞にも登場して参りますが、主人公が乗っているのは、東京で二番目に古い地下鉄である、丸の内線。文化放送・旧社屋に通うのにも、ずいぶんお世話になりました。池袋を始発駅に、後楽園、御茶ノ水を通って都心へ。東京、銀座、霞ヶ関、そして赤坂見附、四谷、新宿。ここから青梅街道の地下を通って、荻窪まで通じる路線。
路線図を見ると、あの山菜、「ぜんまい」の先端のように、奇妙なカーブを描いているのが特徴です。今週の土曜日、十四日には「副都心線」が開通して、さらに複雑怪奇さを増す東京の地下鉄路線図ですが、この歌がヒットした三十五年前は、比較的シンプルでした。発売日当日までに開業していたのは、東京メトロ、当時の営団地下鉄でいえば、戦前から開業していた銀座線を筆頭に、この丸の内線、日比谷線、東西線、千代田線。千代田線は、この年の十月に霞ヶ関〜代々木公園間が開通したばかりでした。代々木上原まで路線が延びて、小田急線と直通運転を開始するのは、さらに六年後、昭和五十三年のことです。
それから都営地下鉄では、浅草線、そして三田線も開通していましたが、こちらも部分開業。高島平から巣鴨までの路線だったのが、やはりこの年六月、日比谷まで延びてきたところだったのです。当時の丸ノ内線は、真っ赤なボディに白い帯が入り、その帯に波型の模様が描かれたタイプ、ああ、懐かしい…と思い出される方もいらっしゃるでしょう。歌詞にも「もっと大きな声で」と、話し声が聞き取れないシチュエーションが描かれていますが、冷房がないので夏は窓を開けて走ることも多く、現在の車両に比べれば、車内はかなり、賑やかでした。線路の関係で、一瞬車内の電気が消える場所があったのも、懐かしいですね。いま、あの車両の一部は、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの地下鉄で活躍しています。
6月10日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「かぐや姫」、「神田川」です。
何も言うことのない、大ヒット曲でございます。オイルショックの真っ只中の1973年(昭和四十八年)九月二十日発売、最高位1位、八十七万枚余りを売り上げました。ちなみに、この曲の前に1位になったのが、西城秀樹「ちぎれた愛」、次の1位がフィンガー5「個人授業」。時代を感じさせるラインアップでございます。作詞は喜多条忠(まこと)、作曲は南こうせつ。この後「赤ちょうちん」「妹」が立て続けにヒットしました。
神田川は、東京の西、井の頭公園を水源に、高井戸、永福町、方南町あたりを流れて北へと流れを変え、中野新橋、淀橋、小滝橋を通って、今度は東へ。高田馬場で山手線の内側へ入っていきます。聞こえてきたのは、都電の音です。山手線の内側に入った神田川は、明治通りを越えたところから、都電・荒川線と並行するように流れていきます。歌のモデルになったといわれている銭湯「安兵衛湯」があったのは、都電の面影橋停留所近く。作詞した喜多条忠さんが、青春時代のほろ苦い思い出を描いたというこの歌、歌詞が上がってきたのは締切ギリギリ。もちろんファクスもない時代ですから、電話口の向こうで喜多条さんが読み上げるのを、こうせつさんは一生懸命書き取っていったそうです。
「あなたは もう 忘れたかしら赤い手ぬぐいマフラーにして…」順を追ってメモしていくうちに、もうメロディーがスラスラと浮かんでいたといいますが、まあ、大ヒット曲などというものは、こんな具合に、スーッと、自然に生まれてくるケースが多いようですね。ヒットの翌年、昭和四十九年には、映画化もされています。主演は、関根恵子さん、そして草刈正雄さん。映画には、其の頃の懐かしい神田川の風景がたくさん残されています。DVDにもなっておりますので、興味のある方、ぜひご覧になってみてください。もちろん、ドキドキのベッドシーンもございます。
6月11日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「なぎらけんいち」、「葛飾にバッタを見た」です。
ごぜんさまファミリー、第2金曜日レギュラーのなぎら健壱巨匠、当時はひらがなで「けんいち」と書いていましたが、若き日の歌声です。(一言、感想などあれば…)「葛飾にバッタを見た」作詞作曲 なぎらけんいち。もともとは、1973年(昭和四十八年)、八月に発売された同名アルバムのタイトル・チューンでした。翌年、「悲惨な戦い」がヒットしたため、それに続くシングルとして、1974年(昭和四十九年)の八月にリリースされ、スマッシュ・ヒットを記録しています。青山に住む景気のいい昔の友人と、相変わらず葛飾暮らしの売れないフォーク・シンガー。でも青空が見え、バッタが飛び回る葛飾・柴又のほうが、よっぽどいい所だぞ、という、やせ我慢の歌。聞いているうちに、頬が緩んできますよね。
葛飾、柴又…といえば、フーテンの寅さん。シリーズがスタートしたのが1969年(昭和四十四年)。「葛飾にバッタを見た」がリリースされた73年は、それから5年目にあたり、「男はつらいよ」シリーズが、絶頂期を迎えていたころです。アルバム発売と同時期に公開されたのが、シリーズの中でも傑作の呼び声が高い「寅次郎忘れな草」。マドンナ役は、後に再登場することになる、浅丘ルリ子さん。寅さんと同様、旅暮らしの歌手「リリー」役を、とても楽しそうに演じていらっしゃいます。当時、「寅さん」の街として、徐々に知名度が上がってきてはいたものの、柴又は、まだまだ東京の辺境で、現在ほど、極端な観光地にはなっていませんでした。
なぎらけんいち青年は、この柴又にほど近い、葛飾区・金町界隈で育ち、高校時代、フォークソングと運命的な出会いを果たします。高校卒業後は、歌手としてあちこちのステージを踏む一方、昼間は柴又近くのペンキ屋さんで、働いていました。しかし、歌への思いは耐え難く、名著「日本フォーク私的大全」によれば、「プロの道を歩むことに気持ちを固め、夜逃げ同然に寮を逃げ出す」ことになったのです。そんな青春時代の状況が、かなりリアルに歌われているのが、この「葛飾にバッタを見た」。
6月12日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「友部正人」、「一本道」です。
1972年(昭和四十七年)4月発売のシングル、作詞作曲 友部正人「一本道」。翌年、発売されたアルバム「にんじん」にも、この曲は収録されています。若手のミュージシャンたちから圧倒的な尊敬を受け、詩人としても高い評価を受け、現在もコンスタントに作品を発表している友部正人さん。その代表作のひとつが、この「一本道」です。中央線沿線は、戦前から、文化の薫り高い町として、芸術家たちを引き付けていましたが、フォーク全盛の時代になると、次々にミュージシャンたちが移り住んでくるようになります。友部さんもまた、その一人でした。
ライブハウス「ロフト」の創始者、平野悠さんは、西荻窪に最初の「ロフト」をオープンした73年当時、友部正人は高田渡と並んで、数少ない動員力のあるスターだった…と回想しています。「阿佐ヶ谷の駅に立ち」という歌詞の一行からは、当時の中央線沿線が醸し出していた、甘酸っぱい青春の香りが立ち上ってくるように思えます。「一本道」が収録されているアルバム「にんじん」、ジャケット写真は、味のある顔をしたオジサンの写真。実はこの写真、浅賀や在住の友部さんが当時よく通っていた、駅に近い、屋台の飲み屋のおじさんです。いかにも、フォークソングのジャケットという感じが、出ています。阿佐ヶ谷駅前で、詩人・谷川俊太郎さんと待ち合わせ、ベンチでしばらく話し込んでから、この屋台に移り、酒を酌み交わした…なんてことも、あったそうです。
駅前の喧騒から一歩離れると、今でもどこかひなびた、武蔵野の雰囲気が漂ってくる阿佐ヶ谷。かつて北口の駅前には「ピノチオ」という中華料理店があり、戦前、井伏鱒二さんを中心とした、文士たちの溜り場となっていました。ここは、いま話題のプロレタリア文士・小林多喜二もしばしば訪れていたそうで、多喜二が拷問の末に殺された夜、井伏鱒二が立ち寄ったところ、刑事がいたので、早々に立ち返った…というエピソードもあります。それから四十年の時を経て、阿佐ヶ谷は漫画家やミュージシャンたちのたむろする街になっていました。その頃の様子がよくわかるのが、漫画家、永島慎二さんの作品。長年、阿佐ヶ谷に住み、この街を愛していた永島さんは、友部さんとも交流がありました。永島さんの代表作「黄色い涙」は、嵐主演で映画化されたので、ご覧になった方も多いことでしょう。そんな「黄色い涙」の風景とシンクロする名曲です。友部正人「一本道」
6月13日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「グレープ」、「無縁坂」です
このグレープ『無縁坂』は、1975年(昭和五十年)、十一月二十五日発売。日本テレビのドラマ、池内淳子さん主演『ひまわりの詩(うた)』の主題歌で、三十三万枚余りを売り上げる大ヒットとなりました。不忍池から東京大学方面へ向かっていく坂、「無縁坂」。以前もこの番組でご紹介したことのある、森鴎外『雁』の舞台としても有名です。さだまさしさんも、明治・大正の文化に憧れて鴎外の『雁』を読み、舞台はどんなところだろう…と、ここ無縁坂を訪れました。そして曲のインスピレーションを得たそうですから、鴎外が『雁』を書かなければ、さだまさしの『無縁坂』も生まれなかった、ということになりますね。
歌の舞台になっているのは、上野の無縁坂ですが、さださんが風景を見て思い出したのは、故郷、長崎の坂道。この無縁坂が、実家近くのなだらかな坂道の風景と、とても似ているんだそうで、そこから、母親と子供の関係を描く、切ない歌詞が生まれてきました。聞こえております井沢八郎さんの「ああ上野駅」、1964年(昭和三十九年)の大ヒットですが、同じく上野のご当地ソング、「無縁坂」は、それから十一年後、1975年の名曲。
この1975年は、実は、二十一年間続いた、「集団就職列車」が運行された最後の年に当たります。合計七十六本、四万六千八百人もの若者を、東北地方から東京へと運んできた列車、その終着駅が、上野でした。集団就職が終わりを告げると共に、フォークソングの時代もまた、終わろうとしていました。アマチュア出身の若者による、自作自演の音楽は、この頃から、「ニューミュージック」と呼ばれるようになっていったのです。
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