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5月26日(月)〜5月30日(金)
今週は、「横須賀ストーリー」。
日本の近代化と共に歩んで来た軍港の町をご紹介する五日間です。
5月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「猿島の由来」をご紹介します。
横須賀の沖合いに浮かぶ小さな無人島、猿島。東京湾ではただ一つの、自然にできた島です。夏は海水浴やバーベキューで賑わうこの島、明治時代の要塞が残されていて、アドベンチャー気分が味わえることでも有名ですが、遥かな昔には、豊かな島、と書いて「豊島」と呼ばれていたそうです。ところが、建長五年(1253年)…。日蓮上人が、房総半島から三浦半島へ向け、東京湾を横切ろうとしたところ、突然、大嵐に遭遇。
小さな船はまるで木の葉のように波にもてあそばれ、船底には穴が開き、ドドド…と勢いよく海水が流れ込んで来る。もはや万事休すか、と思われた時。日蓮上人は、ひたすら「南無妙法蓮華経、ゝゝ…」とお題目を唱え続けます。すると…驚いたことに、いつの間にか水は引き、船は沈没を免れました。そんなバカな、…と見てみると、そこには大きなアワビが貼り付いて、穴を塞いでいます。これぞ仏の加護、ありがたや…と、命拾いをした日蓮上人。ようやく辿り着いたのが、この横須賀沖の小島だったのです。それにしても、船の穴を塞いでしまうほどの大アワビ!もちろん、日蓮上人は、お礼を言って海に返したでしょうが、私だったら…どうしたかな? 食べちゃったかな?
島に上陸した日蓮上人は、再びお題目を唱え続けました。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、ゝゝ」
すると、続いて目の前に現れたのは、一匹の大きな真っ白い猿でした。ウキ、ウキ、ウキキ…と袖を引いては、対岸に見える横須賀の陸地を指さします。さてこそ、あれに見えるが我が行くべき土地かと悟った上人、再び船に乗り、無事に三浦半島に上陸、以来、この島は「猿島」と呼ばれるようになったのです。
ディズニー映画「三匹の子豚」から、「狼なんかこわくない」。結局、恐ろしい狼を食い止めることができたのは、丈夫な煉瓦作りの家だったという有名なお話です。さて、皆様、煉瓦の積み方にもいくつかの種類があるのを、ご存じでしょうか?現在は、一列ごとに長い面と短い面を積み重ねていく、「イギリス積み」が主流ですが、明治の初期、日本で行われていたのは「フランス積み」。これは、一列の中に、煉瓦の長い面と短い面を交互に積んでいくもので、見た目がとても美しい。しかし、積み方が複雑で、技術が必要とされるため、次第に姿を消していきました。明治維新後、軍が猿島を要塞に作り替えた時、トンネルに用いられたのが、この「フランス積み」。猿島要塞は、現存する数少ないフランス積みの施設で、明治時代の見事な職人技を、目の当たりにすることができます。
5月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「黒船が来た!」をご紹介します。
聞こえているのは、日本のロック黎明期の名盤、加藤和彦さん率いるサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」から、「黒船(嘉永六年六月三日)」です。サブタイトルになっている「嘉永六年六月三日」、太陽暦に直すと1853年七月八日になりますが、これは、正に、アメリカ海軍のペリー提督率いる四隻の黒船が、浦賀に姿を表した日付。この日から、十五年後の明治維新へと、歴史は大きく動き始めました。
浦賀は、横須賀市の中心部から東へおよそ10キロ。享保五年(1720年)、江戸湾に入る船を検査するため、ここに奉行所が設けられています。十九世紀になると、このあたりにしばしば外国船が出没し始めました。これは鎖国政策をとっていた江戸幕府にとっては迷惑な話。浦賀奉行所には、これら外国船を見張り、近づいて来た場合は追い払うという任務が加わりました。ところがペリーは、偵察だけで帰ったそれまでの船と違い、大砲をボンボンぶっ放し、力づくで居座ろうとします。さらに江戸湾奥深くまで入り込み、勝手に測量など始める始末。これは相手をしなければ仕方がない、と奉行所から与力、中島三郎助が船を訪れますが、「そんな低い身分の奴には会えない。最高責任者に大統領の親書を直接渡す」と剣もホロロ。身分の高い役人がやって来なければ、このまま江戸湾を北上して上陸し、直接将軍に親書をお渡しするぞ、と脅してきました。そこで六月九日、浦賀奉行の戸田伊豆守と、井戸石見守の二人が、浦賀の西、久里浜に設けた臨時の応接所で、ペリーから大統領親書を受け取ることになったのです。親書の内容は、日米の友好と通商を要求するものでしたが、時の将軍、十二代家慶公が重い病に伏していることから、幕府は一年の猶予を要求します。ペリーは提案を受け入れ、一旦日本を離れますが、翌年三月、再び来航し、日米和親条約を締結。幕府は長い鎖国を放棄し、日本の新しい時代、そして現在まで百五十年以上に及ぶアメリカとの付き合いが始まったのです。
ペリーが最初に浦賀にやってきた時、実質的な交渉役は、先ほど名前の出た与力、中島三郎助だったそうです。臆することなくアメリカ側と堂々と交渉し、船内の構造や蒸気機関、大砲の仕組みなどをつぶさに観察。船内で、お酒と間違えてオリーブ油を一気飲みしたものの、慌てず騒がず悠然としていたというエピソードも残っています。お腹痛くならなかったんでしょうか…。後に経験を生かして日本初の軍艦建造に関わり、さらに、勝海舟らと長崎伝習所で学んだ後、明治二年、旧幕府軍に加わり、息子二人と共に函館で壮絶な戦死。敵にも味方にも惜しまれる人物でした。辞世の句。
「敦公我も血を吐く思ひかな」
5月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「フランソワ・ヴェルニーの物語」をご紹介します。
アメリカからペリー率いる黒船がやってきて開国、次々に外国から船がやってくるようになると、江戸湾の入り口にあたる横須賀は、海上防衛の拠点として、クローズアップされることになりました。ペリーの艦隊は、江戸湾の奥深くまで勝手に入り込み、測量を行うなど、百万都市・江戸の防衛を脅かしました。こちらが相手にする気がなくとも、向こうがちょっかいを出してくるなら、備えをしなければなりません。大砲がいる、軍艦がいる、となると、必要なのは…「鉄」。それも、日本古来のささやかなやり方ではなく、西洋式の大規模な製鉄所が必要になって参ります。幕府は、当時、コンサルタント的役割を果たしていた、フランス公使、レオン・ロッシュに相談を持ちかけ、当時の勘定奉行、小栗上野介らと共に、江戸湾周辺で、製鉄所に適した土地を捜し求めました。その結果、浮かび上がったのが「横須賀」だったのです。選ばれた理由は、湾の形が入り組んでいて、天然の要塞になっていること。風や波が穏やかで、湾の内部も広くて深いこと。また、フランスを代表する軍港、ツーロンに、地形や眺めが似ていたことも大きなポイントとなりました。ロッシュは、当時上海で軍艦を建造していたフランス人、フランソワ・ヴェルニーを招き、製鉄所の建設にあたらせます。建設の途中で大政奉還が行われ、時代は江戸から明治へと移っていきましたが、国防の大切さは変わりません。ヴェルニーの仕事は、粛々と続けられていきました。製鉄所に続いて、港や造船所、そして灯台を整備。さらに工場の稼働率が高くなってくると水も必要になり、上水道の工事までをも手がけています。
日本で仕事をするにあたって、ヴェルニーは、ただ製鉄所や港、軍艦を作るだけではダメだ、やがてはこの仕事を、日本人が自分の手でできるようにならなければ、と、考えていました。そこで彼は、技術教育学校を設立し、人材の育成を図ります。この学校からは近代日本を担った人々を輩出し、後には東京帝国大学工学部に引き継がれることになります。また経営的な面でも、工場の就業規則を明文化し、作業時間や休日、給料などをガラス張りにしたこと。また、近代的な簿記を導入したことなど、大きな足跡を残しているんですね。
オーティス・レディングの名曲「ドック・オブ・ザ・ベイ」。ドック…というのは、船を作ったり、修理する設備で、ゲートを閉じて水を抜き、乾いた状態で作業ができる場所。ヴェルニーは、石造りのドックを3箇所作りました。着工は江戸時代の慶応3年(1867年)、そして完成したのは明治4年(1871年)。完成してから既に百四十年近くが経過している設備ですが、現在もなお、アメリカ海軍横須賀基地の中で使用されています。
5月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ドブ板通りの戦後」をご紹介します。
明治、大正、そして昭和二十年までのおよそ八十年間、横須賀といえば「海軍の町」として、誰もが知る存在でした。状況がガラリと変わったのは、昭和二十年(1945年)。第二次世界大戦の敗戦により、軍は解体されてしまいます。日本海軍の優秀な技術によって維持されてきた軍港の、いちばんオイシイところはアメリカが占領。いまなお、合衆国海軍第七艦隊の基地であり、在日アメリカ海軍の司令部が置かれていることは、皆様、ご存知の通りでございます。
海軍がやってくれば、水兵さん目当ての酒場、そして綺麗なお姉さんたちが集ってくるのが世の習い。とりわけ、戦争が始まると、悲しいことに、賑わいはいっそう、華やかなものになっていきます。横須賀の繁華街、といえば「ドブ板通り」。京浜急行汐入駅から米軍横須賀基地へ向かう道です。横須賀市本町という立派な名前がありますが、誰もこの名前では呼びません。「ドブ板」という名前の由来は、その昔の海軍時代、道の真ん中にドブ川が流れていて、往来に何かと邪魔だった。そこで、海軍から鉄板の提供を受け、川にフタをして通行しやすくしたところから、「ドブ板通り」と呼ばれるようになったんだそうです。50年代の朝鮮戦争、そして60年代のベトナム戦争。ドブ板通りは、栄えに栄えました。アメリカ兵たちは、セーラー服のまま、ここで酒を飲み、タトゥを入れ、そして一夜の恋を楽しんだものです。そんなドブ板通り、そして横須賀の、およそ半世紀前の姿を見ることができる映画が、今村昌平監督の「豚と軍艦」。昭和三十五年(1960年)の作品です。当時、豚肉の値段がとても高くなっていたんだそうで、ヤクザが米軍基地の残飯を安く払い下げてもらい、それで豚を飼うというエピソードが基になっています。映画のハイライトは、大量の豚たちが逃げ出して、ドブ板通りを縦横無尽に駆け回るシーン。今、その場面を見ておりますが…
豚は養豚業者から借り集められ、あまり走らせると痩せてしまうから…という業者の皆さんを必死に接待して、なんとか撮影に漕ぎ着けたんだそうです。ケガをして、使えなくなった豚さんたちは、買い取られ、哀れ、日活撮影所食堂のトンカツになってしまったとか。
映画「豚と軍艦」の主演は長門裕之さん。豚を飼うチンピラの役ですが、派手な刺繍のジャンパー、通称「スカジャン」が実によく似合っております。戦後、米兵たちが、鷲や虎、龍などエキゾチックな柄の刺繍をドブ板通りのテーラーに依頼したのが始まりです。
5月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「横須賀から来た少女」をご紹介します。
横須賀に縁のある有名人、といえば、真っ先に思い浮かぶのが、やはり「山口百恵」現在の「三浦百恵」さん。聞こえています名曲、「横須賀ストーリー」の迫力、三十年以上たった今、聞いても圧倒されてしまいます。この歌が生まれたのは、昭和五十一年(1976年)。前の年に一世を風靡した、ダウンタウン・ブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」に感動した百恵さんが、「一緒に仕事をしたい」と、阿木燿子・宇崎竜童コンビに、曲作りを依頼したことが、きっかけでした。それまでアイドルの曲を手がけたことがなかった阿木さんは、いったい何を書いていいのか、途方にくれました。自分と、百恵さんの共通点は何だろう?いろいろ話を聞くうちに、百恵さんの出身地が横須賀だと知る。偶然、阿木さんのご両親も横須賀在住だったそうで、「あ、共通点があった…」と、「横須賀ストーリー」のタイトルが生まれ、そこからは一気呵成に書き上げました。この曲はチャート1位、66万枚を売り上げ、彼女にとって最大のヒット曲となったのです。
「ごぜんさま」でもおなじみ、残間里江子さんプロデュースの百恵さんの自叙伝「蒼い時」。そのオープニングの部分で、彼女が少女時代の六年間を過ごした、大好きな横須賀の思い出が綴られています。理科の時間に分けてもらったカイコのために、桑の葉を摘みに行ったこと。夏の日の市営プールの歓声が耳に残っていること。工事中の市営グランド、鉄条網に友達が脚をひっかけ、慌てて先生を呼びに行ったこと。日曜日ごとに、市営図書館に通っていたこと。学校の前のパン屋の「揚げソーセージ」が好きだったこと。百恵さんは私より二歳、年下ですが、こうした思い出の数々、同世代として、うなずけるものがございます。とりわけ面白いのが、中学一年の夏休みに、新聞配達をしたエピソードです。配達が遅いと文句を言われたり、日曜日は五種類もの新聞があって重くて大変だったり、犬が怖くて、新聞受けを目がけて投げ込もうとしたら、水溜りにポチャリと落っこちてしまったり…。この四十日間でさんざん叱られたという百恵さんです。それにしても、当時、新聞配達の少女を怒鳴っていた人たちは、そのコが七年後に紅白歌合戦のトリを取るまでになるとは、夢にも思わなかったでしょうね!
百恵さんの横須賀時代をたどるとしたら、ぜひ訪れたいのが「さいか屋百貨店」。昭和四十八年(1973年)五月二十日、デビューを翌日に控えた彼女が、家族や同級生を目の前に、屋上でこのデビュー曲「としごろ」を歌いました。歌い終わった後、友達から花束を贈られ、思わず目に涙を浮かべていたそうです。
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