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5月12日(月)〜5月16日(金)
今週は、「大江戸剣豪列伝 幕末編」。
江戸を舞台にした剣豪たちの活躍を五日間に渡ってご紹介してまいります。
5月12日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「千葉周作」をご紹介します。
昭和三十二年(1957年)…といいますから、およそ半世紀前に放送され人気を博したラジオドラマ、「赤胴鈴之助」のテーマソングです。少年剣士、鈴之助の血湧き肉踊る活躍を描いたこの作品で、鈴之助のガールフレンド、さゆり役を演じていたのが、若き日の吉永小百合さんでございました。そして、そのさゆりの父であり、鈴之助の師匠に当たるのが、かの有名な剣豪・千葉周作でございます。時代劇ファンの皆様には、おなじみ天保水滸伝、「平手造酒」の師匠としても有名な存在でしょう。幕末期の江戸は、武士・町人を問わず、大変な剣術ブームに沸いていたそうでございますが、その筆頭ともいうべき存在が、この北辰一刀流・千葉周作。道場、玄武館があったのが「神田お玉が池」です。江戸時代の初め、大規模な土木工事の副産物としてできた、この「お玉が池」。秋葉原と神田の間の東側、地下鉄岩本町の駅周辺にあって、江戸の初期には桜の名所として賑わいましたが、幕末の頃には、ほぼ埋め立てられていたようです。それまで、日本橋にあった千葉道場が、ここ、お玉が池に移転してきたのは文政八年(1825年)。当時、門弟三千六百人といわれ、隆盛を極めていた千葉道場ですから、このあたり、さぞや賑やかだったことでしょう。
なぜ、千葉道場がこんなにも流行ったのか?それは、周作の指導法が、わかりやすく合理的だったから。たとえば、刀の持ち方については、「小指を少し締め、紅さし指(薬指)は軽く、中指はなお軽く、人差し指は添える程度」。また、稽古前の食事について、「息切れを防ぐため、なるべく少なくしておくこと。力士でも稽古前に多く食べることはない」…といった具合に、簡単で具体的な指示が出されます。それまでの剣術修業が、ともすると精神論に流れがちで、わかったような、わからないような指導が多かったのに比べ、千葉道場のメソッドは単純明快なものでした。また、それまでの道場では、神秘性を強調するあまり、昇級の仕組みが複雑で、時間もお金もたっぷりかかるのが当たり前でした。ところが、お玉が池では、免許皆伝までわずか3段階。さらに、打ち込みの稽古を重視して、納得いくまで練習ができるようにしたことも、血気盛んな若者たちにウケたようです。剣術の稽古が、楽しく、しかも経済的にできるとなれば、人気が集まるのも道理。千葉道場は、大衆化路線で成功したというわけです。
5月13日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「斎藤弥九郎」をご紹介します。
富山、氷見…日本海側きっての魚どころでございますが、本日の主人公である斎藤弥九郎は、ここ、氷見の出身。貧しい郷士の家に生まれ、少年時代は奉公に出ますが、青雲の志抑えがたく、十五歳のとき江戸に出る決心をします。路銀もほとんど持ち合わせていなかった弥九郎少年は、同じ方向に行く旅人がいると見るや、「荷物を持たせていただけませんか?」と声をかけ、小遣いを稼ぎながら、南へと向かいました。まあ、当時のヒッチハイカーのようなものですね。ようやく江戸にたどり着くと、細々としたつてを頼って、同じ富山の出身者に就職の斡旋を依頼。旗本・能瀬祐之丞の屋敷に住み込むことになりました。弥九郎少年は、ここで必死に働くのですが、どんなに疲れても、夜、布団で眠ることはなかった。机の前で本を読みながらうとうとする程度で、こぶしで額を支えていたあとが、朝、くっきりわかったそうで、それでも昼間の仕事は毎日きっちりとこなす。こんな様子を見ていたご主人の能瀬さんが、偉かった。三年ほどして、弥九郎の志が変わらないのを見てとると、「学問と剣術を習わせてやろう」と申し出たのです。心中の喜びは、どれほどのものだったでしょう。一瞬たりとも、ムダにすまい…と、勉学にも、剣術にも、必死に励んだ弥九郎少年は、めきめきと頭角を現します。中でも剣術の上達は目覚しいものがあり、二十歳のときには代稽古をするまでの腕前になっていました。また、学問では、伊豆の代官・江川太郎左衛門や、儒学者・藤田東湖、文人・渡辺崋山といった人々と交流を持ち、天下国家への深いまなざしを持つようになります。二十二歳のとき、剣術の師が死去。跡継ぎの二代目が、道場の経営に不熱心だったため、弥九郎は、江川太郎左衛門の推薦を受けて師範代となり、実質的な道場主として生活を立てるようになりました。そして七年後、独立。江川が資金をバックアップして、九段下、俎橋の近くに、道場「練兵館」をオープンいたします。江戸に出てから、十五年目のことでした。この練兵館は、西洋式の兵術トレーニングや、荒地の開墾作業などもカリキュラムに取り入れていました。単なる剣道場ではなく、総合的な教育機関としての機能を持ち合わせていたのです。
後に練兵館は、俎橋から現在の靖国神社境内へ移転します。ここへ道場破りに押しかけてきたのが、数十人の長州藩士たち。ところが、その腕自慢の猛者たちを、弥九郎の息子、歓之助が、造作もなくなぎ倒してしまいました。すると、さすがは、後に新政府の中核となる長州藩。それほど凄い道場なら、藩内の優秀な若者を送り込んで、鍛えてもらおう…と、桂小五郎、井上馨、伊藤博文といったそうそうたるメンバーが「練兵館」の門下生となったのです。もし、斎藤弥九郎という人がいなかったら、明治維新の形は、また違ったものになっていたかもしれません。
5月14日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「男谷精一郎」をご紹介します。
男谷精一郎は、あの勝海舟のイトコ。幕末の剣聖…剣の「聖」と呼ばれ、実力と品格を兼ね備えた名剣士です。とはいうものの、若い頃は、いろいろ無茶もしたようで、勝海舟の父親、小吉と連れ立っては、ケンカや道場破りに明け暮れる毎日を送っていました。勝海舟も、この男谷の屋敷で生まれています。ある日、小吉が、男谷の家の用人、源兵衛さんという人と話していると、「あなたはずいぶん暴れん坊だそうですが、ケンカをなさったことはありますか」と聞いてきた。すると小吉は、「大好きだ、小さいときからずいぶんやってきたが、面白いものだね」と答える。話の流れで、じゃあ皆でケンカに行くかということになり、小吉、源兵衛、そして精一郎とその弟の四人。お祭りに出かけてケンカを売り、五十人あまりと大乱闘、真剣を振り回して大勢にケガを負わせ、最後は吉原に逃げ込んだという、なかなか素晴らしいエピソードが残されています。男谷精一郎は、八歳のときから武芸を学び、十九歳で免許皆伝、麻布狸穴に道場を開いていますが、これはちょうどその頃の話ということになります。道場で剣術に磨きをかけ、弟子にも教え、その一方で町に繰り出しては、ケンカで実戦の勘を養っていたということでしょうか。当時、剣術の世界では、他流試合はご法度でしたが、精一郎は門弟に熱心に勧め、自らも求められれば進んで立ち会いました。「他流試合をすることで、ほかの流派の長所を知り、自分の流派の短所を知ることができる。そもそも剣術は『剣術』だけでよいのだ。流派に分かれて閉じこもる意味はない」道場には次から次に他流試合の志願者が訪れましたが、精一郎は、決して敗れることはありませんでした。それも決して相手を一方的に打ち据えるのではなく、必ず三本勝負のうち一本は勝ちを譲る。「勝負は竹刀を戦わせるだけで、限界を超えてはならない。あとに遺恨が残ってはいけない」「勝ちを誉れとし、負けを恥とする気風があるが、それは忠孝の精神を重んずる者の態度ではない」大胆かつ柔軟な態度を見せています。これだけの度量の大きさがあればこそ、後に「剣聖」と呼ばれるまでになったのでしょう。
男谷家、そして精一郎の道場はいずれも、現在、相撲の町として知られる両国界隈にありました。墨田区両国の両国公園は、その屋敷の跡地であり、中には「勝海舟生誕の地」の石碑も建てられています。
5月15日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「島田虎之助」をご紹介します。
本日の主人公、島田虎之助は、大分、中津の人。文化十一年(1814年)に生まれています。十歳のころから剣術の修業を始め、めきめきと頭角を現し、五年ほどすると、もう藩内に敵はいなかったと伝えられます。九州一円を武者修行して人格を磨いた後、十七歳のとき、江戸を目指して旅立ちます。ところが、江戸に着いたのは、なんと七年後のこと。この間、下関が気に入って一年ほど居つき、造り酒屋の娘と恋仲になって、娘をもうけた…という豪快なエピソードも残されています。幕末、風雲急を告げる時期とはいえ、まだまだ日本はいろんな意味でのんびりしていたんですね。
ようやく江戸にたどり着いた島田虎之助。道場破りに乗り込んだのが、きのうご紹介した、男谷精一郎の道場でございます。快く試合を承知した精一郎に向き合った虎之助。相手のただならぬ雰囲気に(できる…)と思いつつ、なかなか動いてこないのに少々苛立ちを覚え、(それなら、こちらから…)と動こうとした瞬間、精一郎は目にも留まらぬ速さで打ち込んできた。「勝負あり、一本!」審判を勤める、弟子の声が響きます。(なんだ、これは…)確かに篭手を取られてはいる。しかし、まるで打たれたような感じがしない。続く二本目は、精一郎の一瞬のスキをとらえて、虎之助が見事な胴を決めます。これで、一対一。そして三本目。まるで、一本目のリプレイのように、サラリと篭手を決めて、精一郎の勝ち。(江戸で一番といわれる男谷でも、こんなものか…)虎之助は、そんな感想を持ちました。まるで、負けた気がしなかったのです。もちろん、これは達人・男谷精一郎一流の技で、相手に花をもたせるためのやり方でした。後に、そのことに気づいた虎之助は、頭を下げ弟子入りを志願。立ち合いの際、虎之助の才能を見抜いていた精一郎も、快くそれを受け入れ、二人の師弟関係が始まりました。虎之助はなんと、入門一ヶ月で免許皆伝となりました。精一郎は後に、年の離れたイトコ、勝海舟を島田道場に預け、剣術の修業をさせています。それだけ、虎之助のことを信頼していたのでしょう。
氷川きよしさんのヒット曲「一剣」ですが、実は島田虎之助がモデルになっています。二十九歳で自らの道場を開いた虎之助は、十年後、惜しくも胃がんで世を去りますが、この言葉は、現在まで残り、虎之助の人柄を伝えています。「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」
5月16日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「山岡鉄舟」をご紹介します。
勝海舟、山本泥舟と共に「幕末の三舟」といわれる山岡鉄舟は、天保七年(1836)年、江戸に生まれています。九歳のとき、父親の任地であった飛騨高山に引越し、十七歳までの多感な時期を過ごしました。江戸にいる頃から、剣術の修業を始めていましたが、十六歳で神陰流・免許皆伝となると、父親はさらに息子のために京都から剣術の師を招き、千葉周作を始祖とする北辰一刀流の修業も積ませています。江戸に戻って、早速入門したのが、神田お玉が池の千葉道場。また、今週火曜日にご紹介した、九段の斎藤弥九郎の道場などにも積極的に稽古に出かけ、他流試合を重ねて実力を磨きました。「諸流の壮士と共に試合すること、その数、数千万」とご本人は書き残していらっしゃいます。これはいささかオーバーとしても、若き日に、毎日のように強豪と戦い、腕を磨いていたのは確かでしょう。ただ、親を亡くし、長男として幼い兄弟の面倒を見ていたため、なかなか道場に行けない日もありました。そんなときは、出入りの商人をつかまえては、剣術の練習台を勤めさせていました。もちろん、こちらは裸、相手は防具というハンディキャップをつけてはいるものの、商人がかなうわけはありません。一撃のもとに打ち倒され、気絶するものが続出し、そのうち誰も寄り付かなくなってしまった。「兄上、これでは御用聞きがこなくなって困ります」「兵糧攻めか、それは困った…では今日限り、剣術の稽古はやめにするから、安心して御用聞きに来るよう、触れ回ってまいれ」…と、泣く泣く稽古をあきらめたとか。
鉄舟を一躍有名にしたのは、西郷隆盛との会見です。いよいよ幕府の命運も尽きようとし、徳川慶喜は恭順の意を表明しているにもかかわらず、官軍はかまわず江戸へ進撃しようとしている。そこで鉄舟は、勝海舟の使者となって単身静岡へ。街道沿いはもう官軍の兵士で一杯でしたが、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と、大声で怒鳴りながら真ん中を歩いていきました。度肝を抜かれた兵士たちは手出しできず、無事に西郷と面会。江戸城無血開城の道筋を作ったのでした。
聞こえているのはご存知、志ん生師匠の「文七元結」ですが、この作品を始め、牡丹灯篭などの作品で知られる近代落語の祖、三遊亭円朝のよき庇護者としても、鉄舟は知られています。比類なき武道の達人であり、また禅の達人でもありながら、落語を愛し、さらに女性関係も相当派手だったという、山岡鉄舟は、明治二十一年、五十一歳で、胃がんのため死去。明治維新の犠牲者の菩提を弔うため、自らが建てた禅寺、谷中の全生庵に葬られました。
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