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4月7日(月)〜4月11日(金)
今週は、「文明開化で大騒ぎ!」。
明治維新と共に、日本に上陸してきた西洋文化のあれこれ。
それが受け入れられるまでのてんやわんや、珍騒動の数々をご紹介して参ります。
4月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「太陽暦」をご紹介します。
懐かしいニール・セダカの「カレンダー・ガール」。一年は十二ヶ月、三百六十五日、そして一日は二十四時間。現代に生きる我々にとって、これは常識ですよね。ところが、明治維新、文明開化の以前は、違っていました。現在の「暦」は、「太陽暦」ですが、江戸時代までの暦は「太陰太陽暦」と呼ばれるもの。この暦は、月の満ちかけをもとにしていますから、一ヶ月はおよそ三十日、一年はおよそ三百五十四日になります。ところが、これでは地球の公転周期より十日ほど短い。だんだん季節がズレてきてしまいます。そこで、だいたい三年に一度の割合で「うるう月」を設け、長さを調節していたんですね。ところが、明治の新しい時代になって、欧米との付き合いも多くなってくると、先方とのカレンダーの違いが大きな問題となります。そこで、この際、国際標準である「太陽暦」に、
思い切って暦を変えてしまおう! ということになったのが、明治五年(1872年)のことでした。この年、明治五年は十二月二日で終了。翌日、それまでの暦でいえば「十二月三日」が、明治六年(1873年)の元日となった…というわけです。ところが、このお触れが出たのが、十一月の九日。国家全体の暦を変えるという大事業なのに、準備機関が僅か一ヶ月だけ、しかも一年の締めくくりとなる大切な師走がたったの二日!いったい一年のツケをどうやって取り立てたらいいのか、国民は右往左往、大変なことになりました。なんで、こんなムチャなことになったのか?実は、理由があります。それは、明治政府の「財政難」。それまでの暦であれば、翌・明治六年は「うるう月」のある年だったため、一年が十三ヶ月!これでは、月給を十三回支給する必要があります。そこで、これを太陽暦に改めれば十二回で済む。さらに、前の年の十二月も二日しかありませんから、これも日割りにすれば、ごく少額でごまかせる…という、コソクな理由で、この世紀の大事業が行われたのです。
おなじみの落語「時そば」、この中に旧暦の時刻の数え方が出て参りますが、この昔ながらの時刻の数え方も、明治六年一月一日をもって、現在、私達が親しんでいる効率重視の「二十四時間」制に改められました。明治五年の九月、新橋・横浜間で開業したばかりの鉄道も、影響を受けて大変な混乱に陥ったそうです。落語や時代劇に見られる、どこかのんびりした風情が、効率重視となり、しだいに失われていくその始まりが、この改暦だったのではないでしょうか。
4月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ビスケット」をご紹介します。
こんな不思議なポケットが本当にあったら、ワタシ、ますます、食べすぎて大変なことになりそうですが、本日のテーマは「ビスケット」。ビスケットそのものは、戦国時代にやってきたポルトガル人が、日本に伝えていましたが、国産ビスケットが誕生したのは、明治維新後のこと。作ったのは、両国若松町の菓子店「風月堂」の米津松造さんでした。この両国・風月堂は、現在の東京風月堂の前身に当たります。ある時、知り合いから舶来のビスケットをもらった松造さん。ひとくち食べてみたものの、バターの匂いがきつく、どうにも好みに合わなかったんですね。しかし、せっかくの頂き物なので、捨てる訳にもいかず、とりあえず仏壇にあげておいたんだそうです。二、三日たって来客があり、そのビスケットを茶菓子に出そうとしたら、これがキレイに消えてなくなっている。松造さんの子供達が食べちゃったんですね。「自分の口に合わなくても、こんなに子供が食べるなら、将来有望な商品であることはマチガイナイ!」と、ひらめいた松造さんは、ビスケット作りに乗り出しました。ところが最初のうちは、いくらやってもうまくいかない。せっかくこしらえた物のほとんどが失敗作で、穴を掘って埋めてしまったことさえあった。実は、ビスケットの生地は、粉をこねたあと、しばらく寝かせておくということを知らなかったんです。ところがある日、前の日にこねたまま、うっかり忘れていた生地を試しに焼いてみたところ…これがうまくいったんですね。そうだったのか…と、さらに研究を重ねた松造さんが、ようやく納得の行くビスケットに辿り着いたのが、明治8年(1875年)のことだった、というわけです。5年後の明治13年、松造さんは、さらなる投資を行います。なんと大枚、一万円をはたいて、本場・英国から、ビスケット製造機を輸入したのです。ところが、これが、またまた、予期せぬ大失敗。なんと、一日機械を動かすだけで、一か月分ものビスケットが出来上がってしまい、売っても売っても追いつかない。投資を回収するどころではありません。うーむ、困った…と松造さんは頭を抱えましたが、十五年後、そんな悩みが一気に晴れる時がやって参ります。
明治二十七年(1894年)日清戦争、開戦。携行に便利で日持ちのよいビスケットは、軍の糧食に採用され、今度は余るどころか作っても作っても追いつかない、機械は連日連夜のフル稼働。また、兵隊さんを通じて、ビスケットのおいしさが、国民の間に知られるようになっていったのです。
4月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「紙巻きタバコ」をご紹介します。
公共の施設では喫煙と禁煙の場所がきちんと分けられるようになり、煙草のみといたしましては、少々、肩身の狭い世の中になっております。しかし、つい最近までは、煙草は紳士淑女の嗜み。風邪をひいて病院に出かけて、咥え煙草のドクターに診察を受ける、なんてことも珍しくありませんでした。新大陸アメリカで栽培され、後にヨーロッパに伝えられた煙草が、日本にやってきたのは、江戸時代の初めごろのこと。十八世紀の半ばには全国で栽培されるようになりました。当時の煙草は、キセルを使って吸う「刻みたばこ」。これが明治維新、文明開化の世の中となりまして、西洋から入ってきたのが「紙巻きたばこ」。現在の私達が楽しんでいる、あの形でございます。道具もいらない、いつでもどこでも簡単に楽しめる…ということで、少しずつ、市民権を得ていきました。明治五年、日本で初めて製造販売したのは、元彦根藩の武士、土田安五郎という方だったのですが、すぐに業者が林立。凄まじい販売合戦が繰り広げられるようになりました。中でも抜きん出ていたのが、「天狗」ブランドを展開、明治の煙草王といわれた、岩谷松平。そして「サンライス」「ヒーロー」などで知られる、京都出身の村井吉兵衛、この二人です。
岩谷は、「大安売りの大隊長」と名乗り、真っ赤な服に身を包んで自ら新聞広告や看板に登場。まるで後のグループサウンズが着ていたような、見事なミリタリー・ルックでございます。
そして、銀座のまん真ん中、現在の松屋デパートの場所に、間口がおよそ50メートルという巨大なたばこ店、「岩谷商店」をオープンしましたが、ここも柱が真っ赤。看板には巨大な天狗とおかめの面が飾られ、銀座の一大名物となったのであります。一方、対する村井は、宣伝用の音楽隊を組織。アメリカから輸入した煙草を使って斬新な味を売り物にし、垢抜けたパッケージデザインも話題になりました。そして、何といっても力を入れたのは「ポスター」。当時の印刷技術では、望むようなポスターが摺れないと見るや、なんとアメリカから最新鋭の印刷機を輸入、自前の印刷会社まで設立してしまうという徹底振りでした。
その後も明治の半ばまで、煙草各社の宣伝合戦は続きましたが、明治三十七年(1904年)に、日露戦争が勃発。政府は、戦費調達のため、煙草の専売制度導入を決め、業者は保証金を受け取り、すべて廃業します。その後、専売制度が八十年の長きに渡って続けられることになったのは、皆様、ご存じの通り。その後、村井吉兵衛は実業界へ転身。一方の煙草王、岩谷松平は渋谷・猿楽町、現在の代官山あたりに敷地一万三千坪という広大な屋敷を構え、そこで養豚などを手がけて自ら「豚天狗」と名乗り、悠々自適の晩年を過ごしたということです。
4月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「牛乳」をご紹介します。
文明開化を代表する食べ物といえば「牛肉」。
「牛鍋屋」の繁昌振りは、つい先日、「東京新繁昌記」の巻でご紹介しましたが、肉だけではありません。牛のお乳、「牛乳」も、明治に入って飲まれるようになりました。当時は、冷蔵庫などというシャレた物はありませんから、消費地に近いところで生産するしかありません。外国人や、ハイカラな人々目当てに、東京の市内、あちこちに牧場が作られることになります。文豪、芥川龍之介の父親も、明治時代、現在の新宿二丁目あたりで牧場を経営していた…というお話は、以前、ご紹介したことがありました。明治維新のころ、路頭に迷った、大量の武士、お侍さんたちの失業対策としても、酪農はうってつけ。なにしろ、広大な大名屋敷の土地があります。しかも、農業ほど手間はかかりません。牛を二、三頭飼って、餌をやり、乳を絞ればそれでOK。当時は、牛を飼って乳を搾り、それを集めて販売、配達するところまで、一軒の業者が手がけていたので、都心にも、小規模な牧場が山ほどありました。中でも有名なのが、赤坂にあった「阪川牛乳」。これは、江戸城で将軍の侍医となり、後に新政府では軍医総監を務めた松本良順が、義理の叔父さんにあたる旧旗本、「阪川」さんという方と組んで始めた牛乳屋さんでした。
松本良順は、健康のため、牛乳は理想的な飲み物であるとして、飲むことを多くの人に勧め、PRに励みました。たとえば。当時ナンバーワンの人気役者、沢村田之助を吉原に連れ出し、キレイドコロを山ほど呼び寄せて、牛乳を飲ませる。すると、田之助は一言、「牛乳って…おいしいものですね」。あの田之助が言うのなら、私も飲んでみよう…と、お姉さんたちの口コミから、牛乳が広まっていったという、ウソのような本当の話があるほどです。
そのころ、牛乳の値段はどれくらいだったか?明治十二年の記録によれば、一合で、三銭二厘。これは、当時のお酒、一升の値段とほぼ同じだそうですから、現在の感覚でいえば千円くらいの検討になるでしょうか。庶民が簡単に手が出せる金額ではありません。そのため、身内に病人が出ると、牛乳を飲ませるという、いわば薬代わりに用いられることも多かったようです。「あすこんちに、牛乳屋さんが来てたよ」といえば、「あすこんちに、病人が出たよ」という意味だったとか。そのため、牛乳屋さんたちは、人目につかないよう、裏口からコソコソと出入りすることが、多かった。もと武士だった牛乳屋さんにとって、これはけっこう、キツい仕打ちだったのではないでしょうか。
4月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「鉛筆」をご紹介します。
もっとも身近な筆記具…といえば、やはり「鉛筆」。握ったとき、指になじむ、木の暖かな感触は、鉛筆ならではのものですよね。鉛筆もまた、文明開化の産物。国産品が、本格的に工業生産されるようになったのは、明治も半ばの二十年、1887年の出来事です。これだけ聞くと、ちょっと遅いな…という感じがいたしますが、しかしその鉛筆、実は最初に試みがスタートしてから、十年がかりで、ようやく作り上げられたものでした。時は、明治十一年(1978年)にさかのぼります。佐賀藩生まれの眞崎仁六という方が、明治維新後、貿易会社の社員となり、欧米に出張、そこで見かけた「鉛筆」に心を奪われます。なんとか、この便利な筆記具を、日本でも広めたい。こう考えた眞崎は、帰国後、鉛筆の製造に取りかかるのですが、その時に持っていた知識は、「鉛筆の芯は、黒鉛と粘土を混ぜ合わせた物…らしい」という、たったこれだけ!で、仕事が終わると一目散に家に帰り、来る日も、来る日も、納得の行く配合を探り、理想の芯を追い求める日々。結局「これならオッケー」という品質の芯に行き当たるまで、実に5年もの月日がかかりました。さらに! 今度は軸に適した木を求めて、全国行脚。柔らかで削りやすく、しかも曲がりにくいという木は、なかなか見当たらない。これなら…という、北海道産の「アララギ」という木を見つけるまで、さらに5年近く。しかも、自ら、鉛筆製造のための機械を設計、制作するなど、並々ならぬ努力を続けた結果、ようやく十年目の明治二十年(1887年)、鉛筆の工業的生産がスタートしたのでした。
明治の始め頃、小学生たちの筆記具は「石版」と「石筆」。これ、実際にご覧になったことのある方、あまりいらっしゃらないかとは思いますが、石の上にローセキで文字を書くような道具です。ただ、これだと、消してしまえばそれでおしまいですが、鉛筆とノートならば、間違えた時も直すのが楽。この便利な筆記具を、なんとか日本で広めていこう…これが、眞崎の願いだったのです。そのころ、眞崎の鉛筆工場はどこにあったのか…といえば、なんと、四谷・大木戸の近く。旧、文化放送の社屋からも、目と鼻の先に当たる場所でした。以前もご紹介したことがありますが、東京のこのあたり、ほとんどがフタをされてしまったものの、中小河川の宝庫です。眞崎は、このあたりの渋谷川沿いに工場を設置。水車を取り付けて動力源とし、鉛筆の生産を始めました。また、眞崎は、近所ということで、新宿の小学生たちに、鉛筆のプレゼントも行っています。日本で初めて、鉛筆を使った小学生は、この四谷地区の子供たちだったのです。現在、工場のあった場所には、「鉛筆の碑」という、記念碑が設置されています。
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