番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
3月24日(月)〜3月28日(金)
今週は、「日暮里・舎人ライナーの旅」。
こんどの日曜、3月30日に開業する新交通システム、日暮里・舎人ライナー。
荒川区 日暮里から、足立区 見沼代親水公園まで、沿線風景をご紹介して参ります。


3月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「日暮里」をご紹介します。
日暮らしの里、と書いて「日暮里」。地方から上京された方の中には、この地名が読めなくて苦労された方もいらっしゃるでしょう。このあたり、江戸時代には、もともと「新しい掘」と書いて、「にいほり」と呼ばれていた地域でした。それが、江戸の中頃に、「日」が「暮れる」までいても、飽きない「里」という意味を込めて、「日暮里」と命名されたのだとか。当時はこのあたり、風光明媚な行楽地だったんですね。
聞こえてきたのは名曲、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。なんでこの曲をかけたのか、と申しますと、実は日暮里駅ほど近くに、通称「月見寺」というお寺があるからなんです。本当の名前は、「本行寺」。太田道潅の孫、資高が建立したお寺で、通称の由来は、もちろん月が綺麗に見えるから。もちろん文人墨客にも愛されておりまして、かの小林一茶は「青い田や 露をさかなの ひとり酒」という句を、このお寺で詠んでいらっしゃいます。日暮里にあるのは、月見寺だけではございません。近くにある「浄光寺」は「雪見寺」、そして「修性院」と「青雲寺」は「花見寺」。日暮らしの里を巡るだけで、当時は大変、風流な気分に浸れたんですね。なぜ、日暮里がこれほどの名所になったのか…といえば、そのヒントは地形にあります。山手線、あるいは京浜東北線などでこのあたりを通ると、線路の内側に、急な崖が連なっています。崖になってしまったのは、鉄道を通すとき、なだらかだった台地の端を、削り取ってしまったから。そう、日暮しの里は、「台地」なのです。大きな建物などない江戸時代、この丘の上は、江戸市中でも有数の眺めのいい場所だったんですね。日暮里駅から、谷中銀座商店街へ降りていく石段、通称「夕焼けだんだん」のてっぺんに立てば、たしかに、このあたりが「丘」であることがわかります。江戸時代、人々を虜にした「日暮しの里」。その僅かな名残を、感じることができる場所です。
さて、ここから駅方面にとって返し、JR線路にかかる陸橋を渡ると…見えてきました、日暮里・舎人ライナーの「日暮里駅」。明日からは、この新交通システム沿線の、歴史にまつわるエピソードなど、ご紹介して参ります。

3月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「熊野前」をご紹介します。
今を去ること二十三年前!当時の人気番組「天才・たけしの元気が出るテレビ」で、「商店街復興プロジェクト」に取り上げられたのが、ここ熊野前の商店街でした。当時、顔はビートたけしさん、体は招き猫という「たけし猫まねき」が作られ、展示されていた…といえば、ああ、あの…と、思い出される方も多いでしょう。あれから四半世紀近くが過ぎた今も、熊野前は、昭和の昔を今に伝える建物の宝庫です。
さて、そんな熊野前商店街、現在は「はっぴぃもーる熊野前」の一角に、小さなお社と、石碑、そして金属製のプロペラ飛行機が飾られている場所があります。実は、ここ、熊野前は、日本で初めて飛行機事故が起き、墜落したパイロットが命を落としたところなのです。
今から九十一年前、大正六年(1917年)のちょうど今日、三月二十五日のこと。午前十一時四十分、千葉の下志津から、所沢へと飛行を続けていた、杉野治義工兵中尉操縦のアンリ・ファルマン機が、熊野前の上空五百メートルで、アクシデントに襲われます。ヒョウまじりの突風に襲われ、翼を折られてしまったのです。機体は上空でバラバラとなり、水田に落ちた杉野中尉は殉職。残念なことに、これが、日本の航空の歴史における、最初の死亡事故となりました。地元の人々は、当時二十七歳、将来ある杉野中尉の死を悼み、ここに小さな社を設けたというわけです。小さな建物が所狭しと建て込んでいる現在の風景から、九十一年前の水田風景を想像するのは難しいですが、それにしても、農作業をしていた方々、突然飛行機が落ちてきたのには、さぞや驚かれた事でしょう。

3月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「扇大橋・高野」をご紹介します。
お花見の季節が近づいて参りました。このところ、チラホラと、開花情報が伝わってきておりますが、日暮里・舎人ライナー沿線も、桜の名所ぞろい。およそ五百本が咲き乱れる舎人公園を始め、桜並木が美しい、ライナーの終点、見沼代親水公園、また十種類、およそ二百本の桜が楽しめる江北北部緑道公園など、枚挙にいとまがございません。しかし、こうした桜の中でも、もっとも由緒正しい桜となると、「五色堤公園」で見ることのできる「五色桜」でしょう。時は明治十九年にさかのぼります。台風で決壊した荒川堤防の修復にあたり、当時の村長さんが、桜を植えることを提案し、村人たちからカンパを募りました。集まったお金と、村からの拠出金を合わせておよそ三百円…現在の貨幣価値で考えれば、三百万円ほどになるでしょうか。このお金で、川口との都県境から、西新井あたりまで、およそ長さ6キロに渡り、七十八種類、3225本の桜がびっしりと植えられました。一帯はたちまち桜の名所となり、多くの花見客で賑わうようになったのです。「五色」というのは、いろいろな種類が咲き乱れ、それぞれの色が微妙に違うから。見事な景色を新聞記者が「荒川の五色桜」と書いたことから広まったんだそうです。世界的な桜の名所として名高い、アメリカはワシントン、ポトマック川沿いの桜も、元はと言えば、この五色桜から選ばれた、十一種類の苗木から育ったものなのです。
ワシントンに桜が贈られたのは、明治四十五年のこと。それから百年近い時を経て五色桜は順調に育ち、今ではおよそ三千本、春になれば可憐な花を咲かせます。一方、荒川の五色桜の方は、数奇な運命を辿りました。明治の終わり頃から、荒川沿いに工場が立ち始め、排出される有毒ガスのため打撃を受けたり、水害が続き、治水事業のため伐採されたり。細々と生き残った桜も、戦後、薪にするため切り倒され、昭和二十二年には名高い五色桜も消滅してしまったのです。そして、ようやく世の中が落ち着いてきた昭和二十七年。往年の桜の名所を何とか甦らせようと関係者が奔走し、ワシントンから五色桜の里帰りが実現しました。この時植えられた桜が、今もなお、元気に残っているのが、日暮里舎人ライナー 扇大橋駅、または高野駅から歩いて十分の「五色堤公園」、というわけです。
日暮里舎人ライナーは、首都高速環状線のさらに上を通り、荒川を越えていきます。桜の季節の川越え、これは楽しそうですね!

3月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「舎人公園」をご紹介します。
舎人公園は、面積、実に51・3ヘクタール。東京ドームにして、およそ十一個分という広い公園ですが、実は、まだ造成の途中。工事が終われば、最終的には、69・5ヘクタール、東京ドームにして十五個分にまで広がってしまうという、とんでもなく大きな公園でございます。池のほとりに立って見ると、電柱も何も視界に入らず、大自然の真っただ中にいるような、そんな感覚が味わえる、東京の中でも貴重な場所です。
いったい、二十三区の中で、なぜこんなに広いスペースが取れたのかと申しますと…。聞こえているのは、空襲の音です。そう、これだけ広いスペースを確保したのは、昭和十五年、第二次世界大戦の激化を前に、「空襲の被害を食い止める」のが目的でした。以前、「砧緑地」をご紹介した時も話に出ましたが、ここ舎人公園は、昭和十五年、紀元二千六百年記念事業として計画された、「六大防空緑地」のうちの一つなのです。ちなみに、あとの五つは、先ほどの「砧」のほか、水元、篠崎、小金井、そして神代。いずれも現在、広い公園となっている場所ですね。さて、舎人公園に話を戻しましょう。本当に広い公園だけに、見所もたくさんありますが、そのうちの一つが「レーガン桜」。きのう、戦後荒廃していた荒川堤へ、昭和二十七年、戦前、ワシントンに移植された五色桜の子孫が里帰りした…というお話をご紹介しました。実は、里帰りは、この一回だけではなく、その後も何度か行われています。「レーガン桜」も里帰り桜の一つで、昭和五十六年に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人から贈られたもの。今では毎年、美しい花を咲かせ、舎人公園の名所の一つとなっています。そして今年、もう一ヶ所、舎人公園に名物が増えました。それは…日暮里・舎人ライナーの車庫です。車庫といっても、建物の中に半地下方式で建設されているので、中を見ることは出来ません。車両は、すべて無人運転で、この車庫にある基地から、リモートコントロールされているのです。この車庫の上も、将来は造成され、公園の一部となって、開放される予定です。

3月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「見沼代親水公園」をご紹介します。
日暮里を出た電車は、西日暮里までJRと並走し、そこから「尾久橋通り」の上空を、ひたすら北へ。隅田川、荒川を越えて足立区に入り、埼玉との県境に近い「見沼代親水公園」まで、およそ9・7キロ、二十分間の旅です。
さて、終点の駅名になっている「見沼代親水公園」。漢字では、「見る」の「見」、「沼」、それに「サッカー日本代表」の「代」、そして「親」の「水」の公園と書いて「見沼代親水公園」。これ、実は、かつてこのあたりを流れていた、「見沼代用水」という農業用水路の名残なんですね。宅地化と共に役割を終えた用水路を利用して、「水」と「親しむ」公園ができあがっているわけです。話は、江戸の始め頃にさかのぼります。当時、現在のさいたま市の東側は、「見沼」と呼ばれる巨大な沼地でした。1629年、寛永6年。この年、沼地を堤で区切って水を溜め、農業用水としての利用が始まります。面積実に1200ヘクタールもあったというこの溜め池、当時は溜めるという字に井戸の「井」と書いて、「見沼溜井」と呼ばれました。ところが百年ほどすると、土砂の流入などで、周囲の村々は深刻な水不足に悩まされるようになります。そこで、1728年、享保13年。時の将軍・吉宗は、井沢弥惣兵衛に、この見沼を舞台とした一大土木プロジェクトを命じました。内容をご紹介しましょう。まず、見沼一帯を干拓して、ここを新たな水田とします。そして、農業用水が枯渇して困る村々のためには、遙か遠くの利根川から新たな水路を設けて、利用させる。
それまで使っていた「見沼」の「代用」だから、「見沼代用水」。ネーミングは、やや安直な気もしますが、総延長、実に85キロにも及ぶ大規模な物。東西の2ルートが作られた上、途中で既存の河川の下を潜ったり、上を通したり。さらには東西を結ぶ水上輸送用運河まで建設されました。井沢弥惣兵衛は、この大プロジェクトを、およそ半年で、ほぼ仕上げてしまった。当時の土木技術の高さに驚かされます。
時は流れ、今。見沼代親水公園は、四季を通じ、家族揃って楽しめる憩いの場となっています。そろそろ桜も見頃、日暮里・舎人ライナーに乗って、出かけてみませんか? 開業は明後日、三月三十日です。

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター