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3月17日(月)〜3月21日(金)
今週は、「東京新繁昌記の世界」。
明治七年から九年にかけ出版された大ベストセラー、当時の東京を見事に描いた「東京新繁昌記」。その内容をご紹介しながら、文明開化の風俗を探って参ります。
3月17日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「牛肉屋」をご紹介します。
今週ご紹介する「東京新繁昌記」という本は、明治維新から七年後、まさに文明開化の絶頂期に出版されたベストセラー。江戸から東京へと、音を立てて変わっていく街の、新たな風俗を、ユーモアとエロティシズムを交えて、漢文で見事に描き、評判となりました。もちろん、当時の政府にとって好ましくない記述も含まれていますから、迫害を受けることもあったようです。著者は、服部誠一さんという方。幕末、1841年(天保十二年)の生まれで、もとは福島、二本松藩に仕えていらっしゃいましたが、維新後、1870年(明治三年)に上京します。二本松藩は、戊辰戦争で幕府側についたため、当然のことながら、その藩士である服部さんにとって、新政府の首都・東京の居心地は、あまり快適とはいえなかったようです。どんな艱難辛苦があったのか、今となっては、想像することすら難しいのですが、上京して四年目、明治七年に「東京新繁昌記」の第一巻を出すと、たちまちベストセラー作家に。この「東京新繁昌記」、全部で六巻が書かれましたが、それぞれ一万から一万五千部ほど売れました。今の数字でいえば、文句なしのミリオンセラーです。
この本では、西洋式の床屋さん、洋品屋さん、人力車、学校、写真館など、新しい風俗をたくさん紹介していますが、中でも目を引くのが「牛肉店」。服部さん、牛肉がよほどお好みだったとみえて、ベタボメしていらっしゃいます。「くらわんかな、くらわんかな、たとえ、われ白米の飯をくわざるも、肉をくらいて、もってよく百年の妙齢を保つ」新聞もラジオも、ましてやインターネットなど考えも及ばない時代。情報の伝わるスピードは、今と比べて遅かったはずです。しかし、この明治七年の時点で、どの盛り場にも鰻屋より多くの牛肉屋があり、その中でもいい店、普通の店、そして腐った肉を出すようなよくない店がある…といった記述もあるんです。これほど凄まじい勢いでブームとなった食べ物も、空前絶後なのではないか、という感じが伝わって参ります。
「我、一片の肉を買う力なしといえども、いまだかつて、汝をかえりみてヨダレを流さざるはなし。寝てはすなわち汝を夢み、覚めてはすなわち汝を思う。我と汝との交際、実にジッコンなりと言うべきなり。故に我は汝を、我が腹に葬れり」
服部先生、牛肉が、本当にお好きだったようですね!
3月18日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「築地異人館」をご紹介します。
もと福島・二本松藩士、服部誠一さんが書いた、明治初年の大ベストセラー「東京新繁昌記」。この本、元々は漢文で書かれております。それが現在のミリオンセラーに匹敵するほど売れた。当時のインテリはほとんどがこの本に親しんでいた、と考えても、あながち間違いではないように思えます。
本日ご紹介しますのは「築地異人館」。原文の漢文だと少しわかりにくいので、少々、噛み砕いて現代風の文章にしてみます。「東京に入る船で、ここを通りすぎないものはない。このあたりに親船が停泊し、ここからハシケが出ていく。小さな船がウロコのようにぎっしりと並び、帆柱が立ち並び、釣り船や網を打つ船が行き交う」まだまだ、埋立が進まない隅田川の河口の景色が、いきいきと描かれています。このあたり、漁民や船舶関係者の家がぎっしり立ち並び、その真ん中にぽっかりと広い空き地があって、ゴミが山のようになって、野良犬が行き来していました。それが、明治維新になって、交通の便がいいことから、この空き地が外国人居留地となりました。ゴミはいずこかへと持ち去られてすっかりキレイになり、見違えるような西洋館が立ち並ぶようになったのです、ただし、海が浅くて、大きな船が接岸できないため、やはり商人たちは横浜を拠点にしており、築地に住む外国人は、宣教師、留学生といった人々が多かったようです。「東京新繁昌記」には、田舎から出てきたオジサン達が、見たこともない西洋館を初めて目にしてビックリ。いったい、これは何の建物か…と論議する場面があります。一人の男が、「ああ、これは神社じゃよ、ほら、あそこに弁天様がいらっしゃる」と、洋館にたたずむ美女を指差したという笑い話。我々、子供の頃から、外国人を多少なりとも見慣れております。しかし四十、五十になって初めて、外国人の、それも美しい女性を目の当たりにしたら、それは実際、弁天様に見えても仕方ありませんよね。
聞こえているのは、現在の魚市場の音ですが、明治初年から、もちろん、築地では魚の取引が盛んでした。取引だけではなく、実際の漁業も盛んで、水の上で暮らす人も多かったんだそうです。で、こういう人を相手に、やはり船でそのへんを回る、美しいお姉様たちの一群がおりました。「おまんじゅういかがですか〜」と、黄色い声で、築地界隈を巡る饅頭船。漁師さんや船頭さんが、その声を聞いてムラムラ…と来ると、饅頭船を呼び寄せる。で、饅頭は饅頭でも、かなり湿り気の多い饅頭を、パックリといただいてしまった…というお話でございます。
3月19日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「夜店」をご紹介します。
「東京新繁昌記」の著者、服部誠一は、子供の頃から儒学の勉強にいそしんでおりました。そのため、漢文を読むのも、書くのも、お手のもの。この「東京新繁昌記」も、漢文で書かれています。今日ご紹介するのは「夜店」の項ですが、冒頭の部分を、少し、ご紹介してみましょう。「都下の人口、およそ百万。一日費やすところ、幾万金なるを知らず」東京の人口、百万人。これだけの人が一日に使う金は、合計すると、いったい、いくらぐらいになるのだろう。…という書き出しで、朝から晩まで売り続けても、まだ買い物をする客の需要には応えきれないようで、そこで夜店が盛んになってきた、と続けています。特に栄えるのが、夏場から秋にかけて。日本橋から、浅草にかけ、ギッシリと夜店が立ち並んでいたそうですから、これは凄い眺めだったことでしょう。
本文を見ると、現在もあるもの、とっくに無くなったもの、そして一体どんなものだか訳がわからないものなど、さまざまな「夜店」が登場して参ります。スイカ、団子、甘酒。握り寿司に、炒ったえんどう豆。天ぷら、肉の煮込み。古道具に、古着。楊枝に歯磨き、箸箱に枕、金魚に鈴虫。物販だけではありません。そこかしこに、芸人が立って人を寄せています。また、易者が「これこれ、占わないと、必ず災いがありますぞ」…と、通行人を脅す様子なども、いきいきと描かれています。そして、興味深いのが、「麦湯」の店がはやっていたこと。「麦湯」、今は「麦茶」と呼ばれておりますが、当時は夏場でも暖かい「麦湯」を好んで飲んでいたようです。夜が更けてくると、どんどん「麦湯」のスタンドが増えてきたんだそうです。いったい、何でこんな地味な店が人気を呼んだのか?これ、実は、店員が皆、いろっぽ〜い女性だったから。通行人の袖を引いては「お休みになっていってください…」と、お色気満点の猫なで声、これに参った男性たちが、ついフラフラと寄ってきて、麦湯を飲んでいくという趣向。お酒ではなく、ソフトドリンクなのが面白いですね。
この夜店を彩ったのが、いま聞こえている「新内流し」。悲しい節が特徴で、見ているお客さんたちも、思わず涙にむせびました。悲しいのも道理で、この「新内流し」、落ちるところまで落ちた、サムライとその妻という取り合わせが多かったのだとか。明治維新に運命を翻弄され、売る物もすべて売り尽くし、仕方なく「隠し芸」であった「新内」を語ってその日暮しをしていたんだそうです。
3月21日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「芝・増上寺」をご紹介します。
東京タワーの真下に広がる緑の空間、増上寺そして芝公園。この時間でも、しばしばご紹介して参りましたが、徳川家の菩提寺として、この増上寺、江戸時代にはたいへん手厚く保護されておりました。「東京新繁昌記」にも、荘厳な美しさ、建築の麗しさ、都下の寺でも随一であったと描かれています。ところが、明治維新になって世の中は一変してしまいます。それまで無税だった上、莫大な手当てを受け取っていた寺も、特権を廃止されてしまったのです。それまでは尊大で、大名も鼻であしらっていたような僧侶が、とたんに三度のご飯にさえ困るようになり、初めて心の底から「南無阿弥陀仏」を唱えた、という記述が出て参ります。もともと幕府にシンパシーを感じていた著者でさえ、半分からかうように書いている程です。この増上寺の僧侶の高慢さに、庶民は嫌気がさしていた、ということなのでしょう。そして、現金収入の道を求めてどうしたかというと、鬱蒼とした森を切り開いて土地を作り出し、そこにどんどんテナントを呼び込んだ訳です。「東京新繁昌記」によれば、できた店は、割烹、蕎麦店、写真師、のぞきからくり、そして、こちら。
時代劇によく出て参ります。弓をつがえて、矢を射る。命中すると、お姉さんが「あた〜り〜」と黄色い声を挙げる。いわゆる「矢場」という奴ですね。今で言えば、さしずめ、ボウリングかビリヤードか。ただし、こちらの「矢場」は、レジャースポーツ…というよりは、美しいお姉さん目当ての、風俗店の要素が強いところが、違っております。当時、この増上寺の敷地内には、こうした「矢場」が、いくつも軒を連ねていたんだそうです。当時、こうした店では覗き見はご法度だったんですが、増上寺では、覗きもオッケーでした。いったい、中では何が始まってるのかな…と、間抜けな客が中を覗いたら、もう最後。いらっしゃい、寄ってって、楽しいわよ…とお姉さんにつかまえられてしまう、という寸法でございます。矢が足りなくなってくると、お姉さんたちが、お尻をプリプリと振りながら、的に刺さったのを抜きに行く。たまらなくなった客はその尻を狙って矢を放ちますが、お姉さんたちは見事によけて決して当たらなかったとか。その名人芸ともいうべき、お尻の運動に見惚れた客は、ムラムラ…っときて、そのままお泊りになる…なんてことも多かったんだそうです。ほんの十年前まで、庶民を寄せつけなかったお寺の境内で、人目をはばかる行為が堂々と行われている。世の中、変われば変わるものでございます。
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