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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
2月12日(火)〜2月15日(金)
今週は、「これが大奥だ!」。
江戸城の奥深く秘められた花園、「大奥」を彩った数々の歴史エピソードと、そこに生き、そして死んでいった多くの女性たちの素顔をご紹介して参ります。

2月12日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「大奥はこんなところでございました」をご紹介します。
リン、チリンと鈴の音が鳴ると、大奥が緊張に包まれます。そう、この鈴の音は、ここに堂々と入ることが出来るたった一人の男性、将軍が到着したことを告げる合図。奥女中たちが、重い杉戸をギギギ…と開くと、静かに将軍が入場、お目当ての女性の元へと向かいます。将軍にとっては、「世継ぎ」づくりも大切な仕事の一つ。ですから、お相手は多ければ多いほど好ましい。「御台所」と呼ばれる正室のほか、「御中臈」という側室何人もが、この花園の中で将軍さまのお越しを待ち受けております。しかし。「今日は誰にしようかな…」と、迷いに迷って、最後の最後まで決められないから、ええい、今日は全部まとめて面倒みちゃおう…なんて、そういう、乱暴なことはできなかったんですね。将軍ともなりますと、いろいろ手続きが面倒。お相手の女性の方も、失礼があっちゃいけないというので、いろいろ準備に時間がかかります。そこで、もし、今夜、大奥へ泊まりたいな…と思ったら、七つ刻、午後4時ごろまでに、お相手を指名して予約を入れる必要がありました。
「上様、今宵はいかがいたしましょう」
「うむ、そうじゃのう、直子がよいか、小枝子がよいか、それとも寛子か……うう、なぜこの城には年増しかおらなんじゃ!」
…なーんて悩みに悩んだ末、お相手を決めて、連絡する。すると、ご指名を受けた女性は、準備に大わらわ。丹念にお化粧をして、清潔な着物に着替え、そしていったん髪を梳いて、もう一度結い直す。ご本人も大変ですが、回りも大変、もし将軍が、食事をこっちで食べたい、と言おうものなら、キッチンも大忙し。余分の料理をこさえなければなりません。また、お部屋のメイク係も寝室をチェック。さらに、お相手が御台所、正室の場合はよいのですが、指名されたのが側室だった場合は、一晩中、二人に背を向けて様子を伺う係、「お添い寝役」を手配しなければなりません。これは、女性が、寝物語に、将軍にとんでもないおねだりをしないための措置なんだそうですが、聞く方も、聞かれる方も、いろいろ大変だったと思います。
「発車〜、オーライ…」…いえ、深い意味はございません。この歌をおかけしたのは、東京観光では欠かすことのできない、皇居東御苑こそ、この「大奥」のあった場所だから。今はただ、ひたすら広く、静かな緑の公園。この美しい景色から、日々、濃密な男女のドラマが展開されていた江戸の昔を思い起こすには、かなり、想像力を逞しくする必要があるようです。

2月13日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「春日局」をご紹介します。
「春日局」。1989年には、大原麗子さん主演により、NHK大河ドラマでその一代記が描かれ、大変な人気を博しております。この春日局、大奥の支配者というイメージからいたしますと、「将軍の寵愛を受けた女性」なのかと思ってしまいますが、実はそうではなく、名君と謳われた三代将軍家光公の乳母。なぜ乳母がそれほどの権力を持てたか、それは将軍・家光を作り出したのが、この春日局だったから。春日局は、かの明智光秀の甥の娘に当たるといわれております。一方、二代将軍・秀忠の正室、お江与の方は、織田信長の姪。にっくき伯父の仇の縁者である春日局を、お江与の方は当然のごとく気に入らなかった。彼女は、仇に育てられた長男・家光よりも、自分の手元で育てた次男・忠長を将軍にしたかった。で、江戸城・大奥は長男・春日局派と、次男・お江与派に別れて大変な抗争が起きてしまった。一介の乳母と将軍の正室、これは誰が見ても正室の方が強い…と思われがちですが、春日局は賢かった。どうしたか…と申しますと、「伊勢神宮にお参りいたします」と偽って、当時の駿府、現在の静岡に隠居していた徳川家康公のもとへ。「上様、お世継ぎは長男の家光さまで間違いないですね」家康は長男に相続させるシステムを定着させようとしておりましたから、多少はたじろいだかもしれませんが、「うむ、跡継ぎは家光じゃ」とお墨付きを与えた。三代将軍・家光は生涯、春日局を母のごとく敬い、局が亡くなった時には諸大名が登城してお悔やみを述べ、江戸市内では鳴り物の停止が命じられたそうで、これほどの扱いを受けた女性は、江戸時代二百六十年の歴史を通じても、春日局たった一人でございました。
春日局の最大の悩みは、目に入れても痛くない家光公が、あまり女好きでなかったこと。乳母と実母の凄絶な争いを目の当たりにしたせいか、すっかり女嫌いになってしまい、身近にいるお小姓をつかまえて、男同士で楽しむ方が好きだったと伝えられております。これでは将軍家の血筋が絶えてしまう、と危機感をもった局。次から次へと美女を探してきては将軍にあてがいます。お城の外へ出かけるときも、カゴの中から町娘を物色。そんな中から抜擢されたのが、古着屋の娘、お蘭でした。なんとこの娘、実の父親はご禁制の鶴を捕らえ肉を売り、死罪になっていたというとんでもない出自の持ち主。あとでバレて罪を問われても…と、養父が告白しましたが、局は「そんなの関係ねえ」といったかどうか、とにかく上様がソソりそうな美女なら誰でもいいの!と大奥へ上げさせまして、名前も「お楽」と改めます。そしてめでたく家光公のお手がつきまして、生まれたのが後の四代将軍・家綱公でございます。春日局、小沢一郎先生もビックリの「剛腕」ですね!

2月14日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「大奥ゼイタク物語」をご紹介します。
「今に乗るわ、玉の輿〜」。女性は、どんな家に生まれても、結婚相手がお金持ちだったり、実力者だったりすれば、一気に「名家の奥様」に上り詰めることができる。本妻である「正室」のほかに、たくさんのお気に入りの女性、「側室」を置くことが当たり前だった江戸時代では、こうした女性の出世物語は数多く伝えられております。たとえば、きのうご紹介した死罪になった実の父親を持つ、家光公の側室の一人、お蘭改め「お楽の方」しかり。そして、この「玉の輿」の語源になったとの俗説の主であるもう一人の側室、「お玉の方」も、京都の青果店、八百屋さんに生を受けております。一説によれば、子供の時から屋敷の中で大切に育てられた武家や公家の娘よりも、泥だらけになって遊び回っていた町娘のほうがたくましく、健康的な魅力に溢れていたから…と言われますが、まあ、理屈はどうとでもつけられます。で、このお玉の方が、後の桂昌院。あの、天下の悪法といわれた「生類憐れみの令」を出した五代将軍・綱吉公の母上様、というわけでございます。
将軍の母親として権力をふるい、「女将軍」とも呼ばれた桂昌院。お気に入りの僧侶のために、特に息子の将軍を動かして、絢爛豪華な大寺院を建ててしまったりもしました。そう、あの、音羽の護国寺でございます。とにかく、大奥というのは、ゼイタクな、お金のかかる場所。幕末、江戸幕府の財政が傾いたのも、大奥の出費が痛かったという説があるほどです。時代は下って十九世紀半ば、大政奉還の二十年ほど前。老中・水野忠邦が緊縮財政を柱とする、いわゆる「天保の改革」を行った際、それまで聖域とされていた大奥にも手をつけようとした。まあ、道路特定財源みたいなものですね。相手は、奥女中の最高位である「上臈」、大奥の主と呼ばれた「姉小路」という、煮ても焼いても食えない女性です。「幕府の財政は大変厳しく、倹約しなければ立ち行きません、大奥にも何卒、ご協力いただきたく…」と、おそるおそる切り出したところ、姉小路は「わかりました。無用の出費は切り詰めましょう」と意外な返事。水野忠邦がホッとしていると、ぽつりと一言。
「ところで水野様にはお妾がいらっしゃいますか?」
「人並みにおりますが…」
「それが人間の自然な欲望というものでございます。男は女を、女は男を求めます。しかるにこの大奥の女達は、そんなことも許されず、一生懸命、ご奉公しております。せめて旨い物を食べたり、美しい物を着ることで、欲望を紛らわせております。多少のぜいたくは、お目こぼしいただきたく存じます」
これには改革派の水野もギャフン!平身低頭して引き下がるしかなく、かくして、大奥の利権は温存され、幕府はますます傾いていったのでございました。

2月15日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「天璋院と和宮」をご紹介します。
祝福と愛に満ちた、新しい人生の始まり、結婚。こんな喜びが味わえるところが、平和な現代の素晴らしさだと思いますが、江戸時代の、それも将軍家や大名家、さらに公家といった格式ある家柄の皆様にとっては、なかなか難しいことでした。男女の結びつきは、基本的に政略結婚。現在放送中のNHK大河ドラマ「篤姫」の主役、宮崎あおいさん演じる「篤姫」も、そんな運命に翻弄された一人だったのです。第十三代将軍、徳川家定公の正室、篤姫、のちの天璋院。薩摩藩主、島津家の分家の生まれでしたが、名君の誉れ高い島津斉彬公に見込まれて養女となり、大奥へと送り込まれます。もう、この時代には幕府もかなり傾いてきて、逆に力をつけてきた島津藩の力をなんとか借りて、建て直しをしよう…というための政略結婚でございました。時は1856年(安政三年)、明治維新の僅か十一年前。天璋院は、実家の薩摩と徳川家の間に立って、必死に頑張りますが、時の流れはいかんともしがたい。
鳥羽伏見の戦いを経て、幕府はいよいよ命運が尽き、官軍が江戸へ、江戸へと次第に近づいて参ります。幕臣たちはどうすればよいかと頭を悩ませた末、ここは天璋院様に実家の薩摩にお戻しして、何とかとりなしていただこう…と願い出たところ、「何を申すか!」と、激怒。
「何の罪があって、私に里に戻れというのか。私は大奥から出るつもりはありません。もし無理ということなら、自害いたします」と、懐剣を握り締めて、物凄い剣幕だったので、みな、引き下がるしかなかった…と伝えられております。一度、嫁に入ったからには、私は徳川家の人間。そんなプライドが彼女を貫いていたんですね。里に帰るなどもってのほかではありますが、しかし、徳川家を助けようという気持ちは強い。そこで、官軍の総大将である西郷隆盛に向けて、なんとか徳川家の存続をお願いします…と嘆願状を書いた。最初は徳川慶喜は切腹、徳川家の断絶も…と考えていた西郷でしたが、敬愛する島津斉彬公の娘である天璋院の命懸けの嘆願には心を動かされました。この天璋院の手紙が、江戸の無血開城を導き、江戸の町を戦火から救う、一つの布石となったのでした。明治維新後、天璋院は徳川家の跡継ぎの養育に力を注ぎ、明治十六年、四十七歳でその波乱の生涯を閉じています。天璋院は、夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場します。主人公の猫に、メス猫の三毛子が主人である琴のお師匠さんが元はいい家の出だと自慢するくだり。
「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって」
「何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」
落語好きの漱石らしい会話ですが、こんな所に名前が出るのも、天璋院が江戸、東京の庶民に親しまれていた証拠といえるのではないでしょうか。

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