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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月28日(月)〜2月1日(金)
今週は、「コンサートホール列伝」。
東京のコンサートホールと、そこで開かれた歴史的なコンサートの思い出をお送りしてまいります。

1月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「東京文化会館」をご紹介します。
上野、といえば、東京の文化の中心地ですね。数々の美術館や博物館、東京芸術大学などが立ち並ぶこの上野ですが、JR上野駅の公園口を出て目の前、改札から一分もかからない場所にデーン! とそびえ立つのが、本日の主人公「東京文化会館」でございます。
このホールは、東京の開都五百年を記念して建てられました。「かいと」、耳慣れない言葉かと思いますが、「開く」「みやこ」と書きます。1457年、かの太田道潅が、江戸城を築城したわけですが、この年から数えて五百年目の1957年(昭和32年)、記念事業としてこのホールの建設が計画されまして、四年後、1961年(昭和36年)に完成いたしました。それまで、東京のクラシックのメッカといえば、戦災を逃れた唯一の本格的ホールだった日比谷公会堂でしたが、この文化会館完成後は、主要なコンサートのほとんどが、こちらで開かれるようになりました。今でこそ、クラシックといわず、ポピュラーといわず、毎日のように海外から一流アーティストが来日し、音楽ファンは、どのコンサートに行くか迷う…といったゼイタクな時代になりましたが、この東京文化会館がオープンした当時は、一流アーティストの来日公演など、数えるほど。一度聞き逃してしまったら、今度いつ見られるか、わからない。ヘタすれば、もう一生、見る機会はないかもしれない。そんな思いから、せっせと音楽会へと足を運んだものです。昭和三十年代としては超モダンな、コンクリート打ちっぱなしの設計は前川国男の手になるもの。またクラシックの会場ですから音響も大切に考えられて、音響設計はNHK技術研究所が担当しています。地上四階建て、大ホールはおよそ二千三百席の堂々たる建物。当時の音楽ファンは皆、戦後、わずか十六年の月日しか流れていないのに、ここまで立派なホールを持てるようになった…といった感慨を、持ったものだとか。ハコだけじゃありません。こけら落としに登場したアーティストは豪華そのもの、アイザック・スターン、ジュリアード弦楽四重奏団など、当時のトップ演奏者たちが東京に集結しています。そして何といってもレナード・バーンスタイン指揮による、ニューヨーク・フィル。ちなみに、この時のサブ指揮者が、あの小沢征爾だったといいますから、これは豪華版ですね。
この後も、東京文化会館には次々に凄いアーティストが登場した訳ですが、この昭和三十六年のハイライトと、なったのが、十月に来日したイタリア・オペラの公演。「黄金のトランペット」と言われた、テノールのマリオ・デル・モナコらが大挙して来日し、  大評判となりました。

1月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日本劇場」をご紹介します。
平尾昌晃さんの若き日の歌声をお送りしています。日劇といえば、そう、ウエスタン・カーニバル。1958年(昭和三十三年)に第一回が開催されて、平尾さん、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんのいわゆる「ロカビリー三人男」の人気が爆発しました。六十年代に入ってからは、グループ・サウンズ・ブームにのり、隆盛を極めたこの「ウエスタン・カーニバル」は、ここ日劇=日本劇場を舞台に、昭和四十六年まで、実に五十七回に渡って開催されました。
もちろん「ウエスタン・カーニバル」だけではありません。かつて、昭和二十年代から三十年代にかけては、この日劇のステージに立つことが、歌手のステイタスでありました。まさに、文字通りの「夢の舞台」、それが日劇だったのです。クローズしたのが1981年(昭和五十六年)ですから、もう四半世紀以上の時が流れているんですね!お若い方は、ご存じない向きも多いと思いますので、一言、申し添えておきますが、この「日劇」は、かつて有楽町の駅前にドーンとそびえ立つ、ランドマーク的な建物。その跡地には、現在「有楽町マリオン」が建っております。日劇がオープンしたのは、1933年(昭和八年)。戦前はゴージャスな映画館として使われ、戦争中は、一時、風船爆弾の製造工場となったこともあります。戦後は進駐軍による接収を免れたため、連日の大入り満員。映画と実演の二本立て劇場として人気を集めました。今では、昭和三十年代前半のロカビリー・ブームばかりが有名ですが、それ以前、もう一つの、凄まじいブームがあったことを、皆様、ご存じでしょうか?
そう、もう一つのブームとは「ジャズ」。進駐軍の影響も大きかったようですが、これだけ日本のポピュラー音楽シーンでジャズが人気を集めるのも、空前絶後のことでした。石原裕次郎の主演映画「嵐を呼ぶ男」も、このジャズ・ブームを背景につくられたもの。そして、ジャズの一番人気のグループが、いま、お聞きいただいている「ビッグ・フォー」でした。いま、ジャズのアーティストがミーハー的な人気を集め、日劇のような大劇場を満員にするなど、まず考えられませんが、当時はこういうことがありました。

1月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草・国際劇場」をご紹介します。
有楽町を代表する大劇場がきのうご紹介した「日劇」なら、浅草を代表する大劇場は「国際」。客席数およそ四千、「東洋一の大劇場」がうたい文句でした。日劇は「日劇ダンシングチーム」、そして国際劇場は「松竹歌劇団」のホームグラウンド。いずれ劣らぬ艶やかなレヴューが、連日、繰り広げられておりました。日劇は、1981年(昭和五十六年)にクローズしましたが、こちら国際劇場も、その後を追うように、翌1982年(昭和五十七年)に閉館。跡地には、現在「浅草ビューホテル」が建てられています。国際劇場がオープンしたのは、1937年(昭和十二年)。基本的には、松竹歌劇団、SKDと映画一本という組み合わせで興行が行われ、SKDからは、男装の麗人=水の江滝子を始めとして、草笛光子、淡路恵子、野添ひとみ、そして倍賞千恵子、美津子姉妹ら数々のスターが生まれています。SKDのレヴューが行われない時期には、随時、人気歌手の実演が行われており、1957年(昭和三十二年)には、あの美空ひばりさんが、ファンに塩酸をかけられる事件が起きています。また、国際劇場の特徴は、数多くの外国人アーティストが公演を行っていること。たとえば、こちら!
流れているのは、ポール・アンカ「君は我が運命」。ポール・アンカは1957年(昭和三十二年)、弱冠十六歳にしてあの「ダイアナ」を世界的に大ヒットさせ、翌昭和三十三年九月、早くも来日。この昭和三十三年という年、そう、きのうご紹介した「日劇ウエスタン・カーニバル」の始まった年です。日劇から巻き起こったロカビリー・ブームは、本場からのポール・アンカの来日で頂点に達しました。アンカは、国際劇場に一週間出演しましたが、ホテルの部屋に少女を連れ込んだとか、移動中の寝台車の中でご乱行に及んだとか、当時のマスコミを大変賑わしたそうです。また、国際劇場では、こんな楽団も公演を行っています。
「ウー!」
つい、マネしたくなりますね。一世を風靡した、マンボの王様 ペレス・プラード。初来日は、ポール・アンカの二年前、昭和三十一年ですが、この時も大変なフィーバーを巻き起こし、裾がピッチリした短めの「マンボ・ズボン」も大流行しました。

1月31日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「後楽園球場」をご紹介します。
後楽園球場での野球実況放送。
コンサートホールの紹介で「後楽園球場」、妙に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ロック・ファンには、数々の大規模コンサートが行われたスタジアムとしてもおなじみでした。後楽園球場では、サイモンとガーファンクル、マイケル・ジャクソン、そしてマドンナ…といった、ビッグ・アーティストのライヴが行われていますが、なんといっても、有名なのは、こちら!
流れているのは、グランド・ファンク・レイルロードのライヴ音源です。これは、後楽園球場で録音されたものではありませんが、当時の雰囲気を伝える音ということで、ご了承ください。1971年(昭和四十六年)七月十七日。嵐の中のライヴ、ということでご存じの方も多いでしょう。この日は、前座として「霧の中の二人」のヒットをもつ、マッシュマッカーンというバンドが出演していましたが、その出番の終わり頃になり、突如突風が吹きました。それでもなんとか演奏を終えて、さて、いよいよメインのグランド・ファンク・レイルロードの登場を待つばかり…という段になって、今度は凄まじい雷、そして豪雨。とてもじゃないけど、このままでは演奏は不可能。一時間以上待たされる間、観客のボルテージは上がる一方で、叫び声や歌声がそこかしこから響いてくる。ようやく小降りになって、メンバーが登場すると、客席のノリはもう、行くところまで行ってしまって、それこそ欧米のロック・コンサートの映像に見られるような、凄まじい熱狂状態がそこに現れました。実は、これ以前の日本のコンサートは、ロックといえども、観客は実におとなしいモノで、どんなにノリのいいバンドでも、基本的には座って聞いていた。しかし、雷や嵐という偶発的な要素があったにせよ、このグランド・ファンク・レイルロードのコンサートで、日本の観客も、アメリカのように、最初から最後まで立ちっぱなし、叫びっぱなし…というトランス状態に入ることを覚えたのです。
いま、私達が知っているロック・コンサートの熱狂の原点は、この日、1971年七月十七日にあったのでした。ちなみに、現在は野球場でコンサートを行う場合、グラウンドにも観客が入れますが、当時はスタンドのみ。それでも凄まじい熱狂が生まれたのですから、これは、本当に、事件だったのです。

2月1日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「久保講堂&九段会館」をご紹介します。
めでたくガンから復帰して話題の忌野清志郎さんですが、これはRCサクセションのライヴ音源、今から二十八年前、1980年(昭和五十五年)、四月五日の声。場所は…そう、いま、清志郎さんも叫んでおりましたが、東京・虎ノ門にあった「久保講堂」です。久保講堂、懐かしいなあ…という方、けっこう、いらっしゃるのではないでしょうか。久保講堂は、キャパシティ千人ほどの手軽なホールで、七十年代から八十年代前半にかけて、ロックやフォークのライヴに盛んに利用されました。ゴダイゴ、シャネルズ、アルフィーといったバンドがこのステージを踏んでいますし、外国人ではトム・ウエイツ、ライ・クーダーといった、シブ〜いアーティストたちが登場しています。この久保講堂ができたのは、1958年(昭和三十三年)。もともとは宗教団体、霊友会が建設したホールで、創立者・久保角太郎の名前をつけた上で、当時の厚生省を通じて、社会福祉法人社会事業会館に、寄贈されたものです。RCサクセションを始めとし、数多くの名コンサートが開かれましたが、新ビル建設のため1984年に閉館。跡地には、「新霞ヶ関ビル」が建設されています。
さて、今回のコンサートホール列伝、最後にご紹介するのは、やはり七十年代から八十年代にかけ、フォークやロックのコンサートでおなじみだった「九段会館」。聞こえているのは、その九段会館でのライヴ音源、かぐや姫の「おんすてーじ」から「面影色の空」です。今週ご紹介してきたホールは、初日の東京文化会館以外は、日劇、国際劇場、後楽園球場、そして久保講堂…と、 ほとんどが現存していないのですが、この九段会館はまだまだ現役。ルネサンス様式の洋風建築の上に、巨大な瓦屋根が乗る、和洋折衷の建物で、戦前にはやったスタイルなんだそうです。
建てられたのは、1934年(昭和九年)、当時の名前は「軍人会館」。その名の通り、「帝国在郷軍人会」が建設したもので、除隊後の軍人の訓練を行う場として生まれました。建物が有名になったのは、昭和十一年に起きた2・26事件のとき、ここに戒厳司令部が置かれたから。終戦後は進駐軍に接収されましたが、返還された後、日本遺族会に管理運営が委され「九段会館」として再出発しています。
コンサート会場としては、どちらかといえばフォーク寄りで、ご紹介しているかぐや姫やイルカが有名です。また、最近では細野晴臣さんが久々のコンサートを行ったり、我らがなぎら健壱さんを司会に迎えて五つの赤い風船四十周年記念コンサートが行われるなど、今もなお、魅力溢れるコンサート会場の一つです。

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