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1月7日(月)〜1月11日(金)
寒さもいよいよ本番でございます。
昔の人はどうやって冬を過ごしていたのでしょうか?
今週は、「江戸・東京冬を楽しむ」と題してお送りします。
1月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「雪見」をご紹介します。
江戸時代、ずいぶん寒かったそうですね。数百年ものあいだ、ずっと低温の期間が続いていたそうです。観測記録が残っている明治時代の末、およそ100年ほど前でも、冬の平均気温が、現在より1度低かった。江戸時代はもっと寒かったといいますから、大変だったでしょう。
では、江戸の人たちは、家の中でじっとしていたのでしょうか?とんでもない。いろいろ工夫して冬を楽しんでいたんです。
冬の楽しみの代表的なものが、雪見。
一面の雪景色を楽しむ場所として、江戸の市中や郊外に、雪見の名所が数多くありました。隅田川・上野・愛宕山・神田明神・日暮里・飛鳥山・向島などで、高い建物などなかった時代ですから、高台からは江戸市中が見渡せました。大名屋敷や町家の瓦屋根が白一色になった江戸の街、冬ならではの眺めであったわけです。
「向島あたりで、句会などいかがですかな?」
「折りよく雪も降っております。では、雪見を兼ねて・・・」
こんな遣り取りがあったかどうか・・・。
江戸の風流人たち、好んで連れ立って郊外の雪景色を見にいったそうで、優れた俳句も数多く残されています。
芭蕉の有名な句。
いざさらば 雪見にころぶ ところまで
たとえ足元が悪くとも、季節を楽しむためならどこまでも・・・そんな気分が表れている句ではありませんか。
さて、雪見の名所・隅田川や、少々離れた向島まで、どうやって行ったのかと申しますと、柳橋あたりに密集していた船宿から、屋根舟を出して雪見を楽しんでいた。舟の中は、気の合う遊び仲間か、それとも馴染みの芸者か、どうも気になることでございます。
さて、この雪見、当然ですが、俳句好きでなくとも楽しめました。温かい鍋をつつきながら熱燗の酒で体を暖める、それも雪見の大きな楽しみ。いえ、それが本当の目的だったのかも知れません。時間と予算がなくても、江戸城の建物や堀、大きな寺や神社に行けば、現在、私たちが錦絵で見るような眺めを楽しむことが出来ました。江戸情緒に満ちた雪見の習慣、明治の世になっても続き、関東大震災によって街の面影が変わってしまうまで残されていたんです。雪見、また、雪見酒という言葉、今も冬の季語として残っております。
1月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「鍋」をご紹介します。
暖房器具など無いに等しかった江戸の昔、寒い時期の楽しみといえば、鍋。
池波正太郎さんの時代小説でお馴染みですが、江戸時代も末に近い頃になると、料理屋の数も種類も増え、手軽に味わうことが出来ました。
冬は、寒いことを除けば、「食」を楽しめる季節なんですね。肉・魚・野菜・・・どれを取っても、江戸の冬は、種類が豊富で味も良い。白身の魚を使った鍋は、鱈ちり、河豚ちりなど。他にも、あんこう鍋、しゃも鍋、どじょう鍋・・・。もっと手軽なところでは、大根おろしを使い豆腐などを入れる「みぞれ鍋」や湯豆腐など、池波正太郎作品にもたびたび登場しています。
では、当時の鍋のお値段、どの位だったんでしょうね?これが安かったんです。江戸時代は、一人一膳といって、一人前か二人前の盛り付けで出されるのが普通でしたが、これが、一人前50文から100文。およそ1000円から2000円ほどでした。
お銚子を取って、馬鹿話をしながら飲んで食べて、不足しがちな栄養の補給も出来、体も温まったんですね。現在は季節感が薄れ、どんな野菜も1年中出回っていますが、江戸の昔は、季節の野菜がはっきり分かれていました。江戸の近郊で取れる冬野菜、種類が多かった。大根・ねぎ・小松菜・白菜・かぶ・・・新鮮な野菜を大消費地であります江戸に供給するルートが出来ていました。季節を実感しながら、食事を楽しんでいたことでございましょう。
江戸で生まれた鍋料理の中で、後に全国に広まったもののひとつがおでん。田楽とよばれ、味噌おでんや味噌田楽だったものを、江戸独特の食べ物に仕上げ、すぐに食べられる「おでん」になったんです。これには、職人が多い江戸だけに、味噌をつけるのを嫌ったためだろう・・・というオチもついております。
年のはじめしばらくの間、新年会が盛んに開かれることでしょう。新年会の人気ナンバーワンは? と申しますと、これは断然、鍋でございますね。寒い季節にいろいろな材料を使って楽しむ鍋、明治以降になって肉を使った「すきやき」なども加わり、江戸以来の歴史ある料理、健在です。
1月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「花見」をご紹介します。
寒い季節、江戸の楽しみのひとつが花見でございました。江戸の花見といえば、桜が有名ですが、負けず劣らず、冬場の花見も人気があったんですね。
寒い時期に、江戸っ子が「おう、花見に行かねえか!」といえば、梅。
一年で最初に咲く花として、観梅、梅を見ることが盛んに行われていたんですね。江戸の梅の名所は、近くでは湯島天神。遠くでは、亀戸天神が知られておりました。どちらも、学問の神・菅原道真公を祀る神社でございます。道真公は梅の花がお好きだったようで、境内に梅の木を植えていた。いつの頃からか、花見の名所として有名になっておりました。日本橋や神田にも近い湯島天神は江戸の人々に親しまれていて、それに加えて江戸時代後半には、富くじ興行の人気も加わって人出が多かった。近くには、賑わいを見せる池之端や、名のある料理屋も多く、さまざまに楽しめる場所でした。
亀戸天神に行くには、舟を使えば歩く距離はずっと少なくて済み、向島などの料理屋に立ち寄り、のんびりと1日を過ごせました。お参りして、梅の花を見て、美味いものを食べ、運動不足も解消できる。江戸の人々にとっては格好の行楽地でした。
明治の世になっても、湯島天神そして亀戸天神は「観梅」の名所として人気が続いておりました。湯島天神といえば、誰もが「湯島の白梅」を思い出すことでしょう。 泉鏡花原作の「婦系図」。
切れるの、別れるのって、そんなことはね、芸者の時にいうことよ。今の私には、はっきり、死ねといって下さい。
おなじみの名文句でございます。
泉鏡花が「婦系図」を書いたのは、明治40年だったんですが、実は、原作には、さきほどの場面はありません。原作が発表された翌年、明治41年に、新派によって上演され、その時に「湯島天神の場」が書き加えられたんだそうです。江戸の記憶が鮮明に残っていた時代でしたから、この場面が有名になったのも当然のことだったんですね。
1月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「焼きイモ」をご紹介します。
寒い季節、江戸の人々とりわけ女性が楽しみにしていたものが・・・、寒い季節、体の芯から温まるものの代表・焼きイモでございます。焼きイモの人気、江戸時代から現在まで、長〜く続いております。
サツマイモは、江戸時代のはじめに日本に伝わったとされておりますが、江戸の中頃には関東地方でも栽培されるようになっていました。寛政の頃と申しますから、200年ほど前のこと、焼き芋が江戸で売られるようになりました。これが、実に、美味い! しかも、安い。庶民のおやつに、そして、商店の使用人たちの夜食にと、たちまち普及したんですね。さきほどの売り声は、移動販売する現在のものでして、江戸の昔は、各町内に設けられている木戸の番人、木戸番が副収入を得るために扱っていたんです。
各地で作られていたサツマイモですが、武州川越産、現在の埼玉県川越市で作られるものが、一番品質が良いといわれていました。美味くて、安くて・・・ほかに、焼き芋には、江戸の昔には知られていなかった効用があったんです。それは、江戸の住人の健康に大きく関わっていました。
長い間、江戸では、原因不明の「江戸わずらい」という病気が住民を悩ませていた。
(江戸に行って、腹いっぱい米を食うぞ!)
勇んで江戸に向かい、念願かなって白米ばかりを食べているうちに、顔がむくんだり、元気がなくなってしまう・・・という不思議な病気。
実は、これは脚気だったんです。副食、おかずを摂らず、白米しか食べないと、ビタミンB1が不足するのは当然ですが、原因がわかったのは明治になってからのこと。ところが、サツマイモには、このビタミンB1がたくさん含まれているんです。おやつや夜食に、焼きイモを食べることによって、知らず知らずのうちに脚気予防に役立っていた、こういうことなんです。
そんな効用はともかく、忙しい日々を送っていた江戸の住人、特に女性たちには、手間がかからず安い焼き芋、大好評でした。かまどで焼く焼き芋の人気は、明治の世になっても続きました。町ごとの木戸が廃止されると、大規模に店を始めて成功する者が続出、冬場は焼きイモ、夏場はかき氷を売り、一年を通しての商売になっていったんですね。現在は、一年中、焼き芋を売っているスーパーマーケットもあり、江戸が生んだ焼きイモ、相変わらず高い人気を保っているようでございます。
1月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「雪あそび」をご紹介します。
寒かった江戸、そして明治の時代、雪が降って喜ぶ人がおりました。まずは、子供たち。子供たちの雪遊びといえば、二通りでございます。第一は、雪丸げ。積もった雪を丸め、それを大きな形にして遊ぶんですね。どこでも作られたのが、雪だるまでございまして、タドンで目を作り、炭で目鼻を作るのは、江戸の昔から現在まで、変わらないようです。
子供たちだけではありません。大人の世界、といっても一般庶民には見ることの出来ない場所でも雪を楽しむ習慣があったそうですよ。
江戸城・西の丸。隠居した前将軍や、次期将軍が暮らしていた場所ですが、大雪が降った翌日は、大変に華やかな光景が繰り広げられたそうなんですね。腰元たちが雪だるま作ったり、雪を丸く固めたものを投げあったり、歓声と悲鳴が飛び交い、まるで「真冬の運動会」のようであったと記録に残されています。
昔から、「雪は豊年の瑞」と言われておりました、米をすべての基本にしていた徳川幕府にとって、雪が多い冬は、次の年の豊作が約束されたわけですね。
それはともあれ、普段は体を動かす機会のない、御殿勤めの人たちにとっては、格好の運動になったことでしょう。広い庭で美女たちが遊び戯れる様子を見ながら雪見酒・・・。将軍や隠居となった前将軍、なんとも優雅な気分を味わっていたことでありましょう。
町の子供たちも、江戸城の奥の高貴な方々も熱中していた遊び、雪を丸めて投げ合う遊びを、何と呼んでいたのでしょう。「なんだ、雪合戦じゃないか!」確かに雪合戦ですが、江戸時代には、「雪投げ」と呼んでいました。明治に入り、学校制度が整備されて、「心身鍛錬」が強調されるようになってから、「雪投げ」を、「雪合戦」と呼ぶようになったそうでございます。
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