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12月10日(月)〜12月14日(金)
今週は、「東京事件簿 昭和二十年代編」。
終戦直後の東京を舞台に起きた、時代を象徴する事件の数々をご紹介して参ります。
12月10日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「帝銀事件」をご紹介します。
来年、六十歳を迎える、「団塊」のコア世代が生まれた、一九四八年(昭和二十三年)。お聞きいただいた笠置シズ子さんの「東京ブギウギ」がヒットした年です。戦後、連合軍の占領下となってから二年半の月日が流れ、世の中も少し落ち着いてきた頃でしたが、その一方で、戦争の影響が色濃く残る、恐ろしい事件がおきました。椎名町…といえば、西武池袋線で、池袋の次の駅。都心にほど近い、この番組でもご紹介した漫画家の聖地、「トキワ荘」の最寄り駅でもあります。「トキワ荘」は、駅から進行方向左側に進んでいきますが、本日ご紹介する事件は、その反対側でおきました。
椎名町駅の北口を出ると、目の前に見えるのが「長崎神社」。この神社の西側、現在、マンションになっているところに、帝国銀行…のちの第一勧業銀行、現在のみずほ銀行の前身にあたる銀行ですが、この帝国銀行の椎名町支店がありました。昭和二十三年、一月二十六日、午後四時ごろ。この季節ですから、外にはもう夕闇が迫っていたでしょう。銀行に、東京都の腕章を巻いた男が入ってきました。
「近くの家で集団赤痢が発生して、その家の者が、 こちらの銀行に立ち寄ったことがわかりました。後で消毒に来ますが、とりあえず予防薬をもってきたので、皆さん、これを飲んでください」
衛生状態の悪かった当時、赤痢は恐ろしい病気でした。男が東京都の名刺を差し出したこともあり、銀行にいた人々は、疑うこともなかったようです。薬は二種類あり、まず最初の薬を飲み、一分ほどしてから、次の薬を飲みます。すると…薬を飲んだ十六人はバタバタと倒れていきました、赤痢の予防薬というのは真っ赤な嘘で、男が飲ませたのは恐ろしい毒薬だったのです。実際の液体はほとんど残っていなかったため、毒の正体は明らかになっていませんが、十六人のうち、実に十二人が死亡するという凄惨な事件になりました。これが、世に言う「帝銀事件」です。
犯人は現金や小切手、およそ十四万円を奪い逃走します。当初は、毒薬に詳しい、旧・軍隊関係者などを追及しましたが、この年の八月に、小樽で画家・平沢貞道が逮捕されました。当時から冤罪ではないかという説が流れるほど、物的証拠に乏しい容疑者でしたが、八年後に死刑が確定。しかし、歴代の法務大臣は、刑を執行しようとせず、平沢はその後もずっと無罪を訴え続けましたが、三十年近い日々を獄中で過ごしたまま、九十五歳で、一九八二年(昭和五十七年)、病気で亡くなりました。事件の真相は、まだ、深い闇の中です。
12月11日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「下山事件」をご紹介します。
先ほど聞こえていたのは、昭和二十二年から放送されていた菊田一夫作の放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌です。戦争で親を失った孤児たちが、明るく生きていく姿を描いたこのドラマは人気番組となり、主題歌の「とんがり帽子」も大ヒットしました。今日よりは、明日の方が、ずっとよくなる。前向きな気持ちが、世の中に広がり始めていた頃、その流れに水を差すような暗い事件が、立て続けに起こります。
戦前、国によって運営されていた鉄道を、戦後、公共企業体によって、独立採算制で運営することになり、発足したのが国鉄、日本国有鉄道でした。これが一九四九年(昭和二十四年)六月一日のこと。初代総裁に就任したのが、長く技術畑を歩いてきた、下山定則でした。それまでは、国が丸抱えでやっていた鉄道事業が、独立採算で運営していく…といえば聞こえはいいですが、目的は財政の立て直しにありました。ここで問題になってくるのが「人員整理」です。総裁は、外部から招く案もありましたが、結局は組織の内部から登用されることになりました。長く、苦労を共にしてきた仲間たちだからこそ、自分が責任をもって、整理に当たる。いわば「火中の栗」を拾うことにしたわけですが、それにしても、最終的な人員整理の目標は、「十万人」! だったそうですから、総裁にかかる重圧は、半端なものではなかったでしょう。七月五日の朝、車で家を出た下山総裁は、朝九時半、運転手を待たせて日本橋の三越本店に入っていきました。単なる買い物のためだったのか、あるいは、誰か人に会う約束があったのか?真相はまったくわからないまま、総裁はそのまま消息を絶ってしまったのです。国鉄本社は大騒ぎとなりました。
総裁が発見されたのは、翌・七月六日の未明です。JR常磐線が北千住駅を過ぎ、荒川の鉄橋を渡って大きくカーブを切り、東武伊勢崎線のガードをくぐったあたりで、無残な轢断死体となって発見されたのです。自殺か、他殺か。警察内部でも対立が置き、また、法医学者の見解も分かれるなど、大きな論議を巻き起こした事件でしたが、最終的に警察は「自殺」という見解を取り、捜査は終わりました。しかし、「自殺」と考えるにはあまりにも不可解な謎が多い。「下山事件」を扱った本は、今もなお、次々と出版されています。
12月12日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「三鷹事件」をご紹介します。
日本の社会が、敗戦の痛手から、ようやく立ち直りかけてきた一九四九年(昭和二十四年)。戦争で命を奪われる心配こそなくなりましたが、それでも、食糧難やインフレは続いていました。また、中国大陸では毛沢東の中華人民共和国が成立し、朝鮮半島でも三十八度線を境に緊張が高まるなど、東アジア情勢も風雲急を告げていたのが、この年です。占領軍は、それまでの民主化政策を一転させ、労働組合や、共産勢力に対して、厳しい締め付けを始めました。そんな中で起きたのが、昨日ご紹介した下山事件。そして、きょうご紹介する「三鷹事件」です。事件が起きたのは、下山貞則・初代国鉄総裁が、無残な轢断死体となって発見されてから九日後、一九四九年(昭和二十四年)七月十五日のことでした。現在の時間にして、午後九時二十三分…当時はサマータイムが実施されていたので、午後八時二十三分、事件は置きました。
中央線の下り電車に乗って、三鷹を過ぎると、進行方向左側に、電車の車庫が見えてきます。この夜、車庫に入っていた七両編成の電車が、突然、無人のまま、三鷹駅方面に向かって走り出したのです。電車は次第にスピードを上げて、ポイントを通過し、そして時速60キロで、当時引き込み線になっていた駅の一番線に突入し、車止めを越えて暴走。ホームから改札に向かって歩いていた人々を次々に撥ね、駅から玉川上水方面に向かって飛び出すと、トイレや駅前交番をなぎ倒し、道路を横切って駅前の運送店に突っ込み、ようやく停まりました。跳ね飛ばされたり、電車の下敷きになった即死者が六名、ほかに二十名の重軽傷者が出る大惨事になったのです。昭和二十四年七月は、国鉄で十万人に及ぶ人員整理の計画が発表された後、各地で列車妨害事故が相次ぎ、国鉄の職員も、利用者も、戦々恐々とする中での事故。時の首相、吉田茂は、翌日ただちに「この社会不安は共産主義者の扇動によるものだ」と談話を発表し、共産主義者や組合員への徹底的な弾圧が始まります。警察では「首切り反対の首謀者が計画したもの」と断定し、翌日から八月にかけ、合計十名が逮捕されました。裁判ではこのうち九名が無罪とされ、単独犯と認定された二十八歳の男性に有罪の判決が出ます。しかし、物的証拠は何一つなく、またこの男性には銭湯での目撃証言というアリバイがあったのに、死刑が確定。そして執行されないまま、拘置所で病死しています。三鷹事件もまた、真相はいまだ闇の中にあります。
12月13日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「光クラブ事件」をご紹介します。
只今、「鍋屋横丁」という地名が出て参りましたが、皆様、どのあたりだか、ご存じでしょうか。青梅街道を新宿から西に進んでいきますと、地下鉄・丸ノ内線の新中野駅の手前の左側に、斜め前方に分かれていく道があります。ここが、鍋屋横丁。落語にも出てくるように、古くから、堀之内のお祖師様、妙法寺への参道として江戸の人々に知られた場所です。今では新宿からほど近く、多くの会社も立ち並んでいますが、江戸時代には郊外も郊外。昭和に入ってからも、どちらかといえば住宅地で、「都心」という言葉はまったく当てはまらない場所でした。
一九四八年(昭和二十三年)九月、この鍋屋横丁の商店街の一画に、小さな金融機関が看板を掲げました。名付けて、「光クラブ」。社長は、当時二十四歳の現役東大生、山崎晃嗣。あのホリエモン事件の時、この山崎と比較する論評が出ましたから、それでご存じの方もいらっしゃるでしょう。山崎は、自分の「頭の良さ」を証明するために、金貸し業を始めました。「光クラブ」という名前は、そのころ、新宿の闇市を束ねていた「尾津組」の、「光は新宿から」というスローガンから思いついたもの。山崎自身は、自分が陰気な性格なので、「光」の明るいイメージが気に入った…と書き残しています。出資者には、月一割三分という破格の利息を支払い、これを貸すときは月に二割一分から三割という、ヤミ金融も真っ青の高利。そして、焦げ付いた客には、苦学生や元兵士、チンピラなどを派遣して容赦なく取り立て、業績は上がる一方で、翌年、昭和二十四年には、郊外の中野から銀座二丁目、松屋の裏へと進出しています。「年中無休!!天下の光クラブは精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社です」というキャッチコピーで、存在を大々的にアピール。今も昔もマスコミ受けする「現役東大生」の看板で、産業界へもガッチリと食い込んでいきました。しかし、「出る杭は打たれる」のが、世の習い。利息制限法の9%を越える、13%の金利を咎められ、この年の七月、山崎は物価統制令、銀行法違反で逮捕されます。取り調べの最中も、検事に法律論争を挑むなど、意気盛んだった山崎でしたが、さすがに社長が逮捕されたとなると、出資者たちは穏やかではいられません。およそ三千万円もの出資金の返還を迫られ、窮地へと追い詰められたのです。
そして支払期限であった十一月二十五日の前夜、銀座事務所の社長室で青酸カリを飲み、自ら死を選びました。巷では高峰秀子の「銀座カンカン娘」が大ヒット中。明るい銀座での、孤独な最期でした。
12月14日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「オー!ミステーク事件」をご紹介します。
美空ひばりの「東京キッド」がヒットしていた、一九五〇年(昭和二十五年) 九月二十二日、午後二時。日本大学の会計課員の二人が銀行で、職員およそ百人分の給料、百九十万円余りを引き出し、学校に戻ろうとすると、車を停める男がいます。誰だろう…と思い、近づくと、これが同僚の山際啓之、十九歳。
学校に行くのなら乗せてってやるよ…と車に入れたところ、なんと運転手の首にジャックナイフを押しつけてきました。そして大手町まで車を走らせると、停車を命じ、運転手の首に切りつけて九針の大けがを負わせた上、現金の入ったボストンバッグを奪って逃げ出しました。山際は大変なアメリカかぶれで、腕にはなぜか「ジョージ」という刺青が。そして、二世のようにカタコトの英語を織り交ぜて話すのが特徴だったそうで、まあ、今で言えば、ルー大柴さんのような感じでしょうか。奪った金ですぐに誂えた服装は、コールテン薄茶の上着に濃い茶のズボン、薄茶のノータイで靴はチョコレート色、頭にはミルキーハットの二世スタイル。職場で知り合った大学教授の娘と、手に手を取って、「俺たちに明日はない」のボニーとクライドのように、「愛の逃避行」とシャレこんだわけです。
ボニーとクライドは、広いアメリカを逃げ回りながら、数々の犯罪を積み重ねましたが、こちらのギャングは、あっさり、二日後に御用となりました。捜査本部では、地方へ高飛びしたものと見て、全国に指名手配を行っていましたが、つかまったのは大井町。山際は、アメリカ軍で働く日系二世と偽って部屋を借り、奪った金でダブルベッドを買って女とイチャイチャ。逮捕された日も朝からビールを呑みながら、女とふざけあっていたそうです。ところが、家主が新聞を見て、どうも犯人に人相が似ている。注意して見ると、腕には「ジョージ」の刺青。
ああ、これは間違いない、日大ギャングの犯人だ…と届け出て、警察がドヤドヤドヤと踏み込んで来た。そこで、ダブルベッドにいた山際がひとこと、「オー ミステーク!」と叫んだ…と報じられると、たちまち流行語となり、あちこちで使われるようになった。今ならさしずめ「流行語大賞」といったところでしょう。警察について写真撮影となると、「エキストラみたいだ」「何枚撮るの?」とニコニコ笑い、ポーズまでとる脱線ぶり。今、ここに当時の新聞がありますが…。
昭和二十年代半ばになると、きのうご紹介した学生ヤミ金融の光クラブ、そしてこの日大ギャングなど、戦前の道徳観では理解不能な事件が続出しました。主人公である若者たちは、フランス語で「戦後」を意味する「アプレ・ゲール」、略して「アプレ」と呼ばれるようになったのです。今も昔も、若者たちの行動は、大人を悩ませるもののようです。
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