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12月 3日(月)〜12月 7日(金)
今年も忠臣蔵の季節がやってまいりました。一昨年、東京歴史探訪で「東京・忠臣蔵紀行」と題してお送りいたしました。今回は、その続編でございます。
12月 3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「事件の発端」をご紹介します。
「刃傷でございます! 浅野内匠頭、吉良上野介様に刃傷に及ばれましたぞ!」
元禄十四年三月十四日。江戸時代最大の事件が起きました。江戸城・松の廊下で起きた事件が、忠臣蔵の発端。この日、江戸城は、一年で最も重要な行事、朝廷の使者を迎えた儀式が行われていました。幕府の威信を朝廷にみせつける儀式の直前の不祥事でした。しかも、接待担当者である浅野内匠頭が、幕府の儀式の責任者に切りつけたのですから、殿中は大混乱になったのです。幕府の面目丸つぶれでした。
早速取り調べが行われました。
数少ない目撃者の証言は、こんな具合でした。
目撃者A「いきなり浅野殿が後ろから切りつけたのでござる」
同じくB「浅野殿が甲高い声でわめいていたようですな」
同じくC「吉良殿は、刀に手をかけてはおりません」
老中らの緊急会議の結果、異例なことでしたが、加害者の内匠頭は、その日のうちに切腹。被害者の上野介には、将軍から「ゆっくり養生するように」という言葉が与えられたんです。
武士の世界では、「喧嘩両成敗」というのが常識ですが、松の廊下の刃傷は、喧嘩ではない・・・と判定されたのです。殿中の刃傷事件は、それまでにもあったんですが、元禄14年3月、朝廷からの使者を迎えたなかでの刃傷に対して幕府は厳しい処分を下しました。この厳しい処分が、次第に、武士や町人の間で憶測を生むようになっていったんです。
殿中という神聖な場所で起きた事件。責任ある立場の者が軽率な行為に走ったのは、何か特別な理由があったに違いない・・・そう考えたんです。街の噂にとどまっているうちは良かったのですが、やがて人形浄瑠璃で上演され、芝居になりました。思いつく限りの「原因」を、いろいろな作家が考えたんですね。「賄賂の額が少なかった」「奥方に片思い」「美男の小姓をめぐるトラブル」そして「塩の生産をめぐる争い」などなど。 事実は果たしてどうだったのか? 今となっては確かめようもありません。すべては謎のままなんですが、いつの間にか、加害者・浅野、被害者・吉良という立場が逆転してしまったのですから、世間の噂というのは、恐ろしいものでございます。やがて吉良上野介は幕府の儀式をつかさどる役目・高家の食を辞任、その後、江戸城に近い屋敷から、隅田川を越えた新開地・本所に移転を命じられたのです。
後の討ち入りの伏線が出来るのですが、この扱いもまた、新しい憶測を生んでいったことは、皆様、ご存知でしょう。
12月 4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「上杉屋敷」をご紹介します。
元禄15年12月14日、深夜。赤穂浪士四十七士が本所の吉良邸に討ち入りました。
この事態を、江戸城に程近い米沢藩上杉家上屋敷に知らせた人物がありました。その人物は、吉良家の門前で店を開いていた豆腐屋さんでした。吉良亭から聞えてくるただならぬ物音に、真冬の真夜中、一里およそ4キロの道を駆け抜けて、急を知らせたのです。
吉良家出入りの豆腐屋さん、まことに立派な人物でございます。しかし、屋敷内の物音で気がついただけに、どれほどの人物が襲撃してきたのが分からなかった。「赤穂の者度どもが百五十人ほど押し寄せ・・・」と報告したから、上杉家も考えたんですね。
(少ない人数を救援に出して不覚を取ってはいかん!)
こう考え、他の上杉屋敷からも応援を集めることにしました。上杉方が準備を整えているうちに、幕府の使者が上杉家上屋敷に到着。
「赤穂の者どもは、幕府が処置いたす。軽挙してはならん!」
江戸市中で上杉家が軍勢を出せば、浅野本家が対抗し、市街戦になる恐れがある・・・幕府は、こう判断したんですね。上杉家の家臣たちは、主君の父・吉良上野介の運命を思って歯軋りしたことでしょうが、上杉家を守る道を選んだんです。ところが・・・。時間が経つにつれ、幕府が指示したことは秘密にされました。忘れられて、上杉家を臆病者と罵ったり、実在しなかった人物を登場させた芝居が出来て人気を集めたりしました。
両国の豆腐屋さんが目指した上杉家上屋敷ですが、現在でも霞ヶ関の官庁街の一画に、広い敷地の名残りを留めています。桜田門の目の前にある法務省。重要文化財に指定されている赤レンガの庁舎で知られておりますが、江戸時代には、この場所に米沢藩上杉家の上屋敷がありました。上杉謙信以来、「武門の家」として名高く、屋敷の造りの立派なことでも有名だったのです。
上杉家にとっては、吉良上野介は跡継ぎがなく断絶の危機にあった上杉家を救った恩人であり、現在の藩主の父でもありました。
町人にとって、赤穂浪士の討ち入り事件は、日頃の鬱憤を晴らす良い対象だったのかも知れません。
「腰抜け大名」
「手も足も出せずに、親を見捨てた侍」
まさに罵詈雑言が浴びせられたのは、上杉家にとって不運なことでした。真相は闇のままで、噂ばかりが広まる例は、現在でも多いのですが、一連の忠臣蔵の話題は、この典型なのですね。じっと耐えていたのは、講談や浪曲で描かれる浅野内匠頭や浅野の家臣ばかりではありませんでした。吉良家や上杉家の人々も、また、耐え忍んでいたのでございます。
12月 5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浪士引き上げ」をご紹介します。
本所にございました吉良屋敷で本会を遂げた赤穂浪士四十七士が泉岳寺を目指して出発したのは、元禄十五年十二月十五日の午前6時頃とされております。
泉岳寺のある芝高輪までは、三里およそ12キロほどあります。一番近い両国橋は渡らずに、隅田川沿いに下って、永代橋から霊岸島を通って、鉄砲洲へ。ここは、以前の播州赤穂浅野家の上屋敷がありました。現在、聖路加国際病院になっている広い屋敷でございました。築地から新橋に抜け、東海道、現在の第一京浜を西へ、大門、この文化放送のすぐ近くを通って、芝高輪の泉岳寺に着いた。両国から泉岳寺まで、およそ3時間だったそうです。2時間以上の激戦の後で、この元気。昔の人は丈夫だったんですね。
映画やテレビを見ますと、この引き揚げの様子は、こんな風に描かれておりますね。
ところが、実際はそうではなかったようです。当時の記録を見ますと、口コミで街から街へ早く伝わったようで、たくさんの人が人垣を作った場所もあったといいます。ところが、どうやら誰もが黙って見送っていたようなんです。何といっても、幕府の法度に背く犯罪集団が、武装したままで歩いているわけですから、異様な雰囲気だったことでしょう。間違っても、拍手喝采・・・というわけにはいかなかったのです。
それだけではありません。後になって討ち入った浪士の一人が書き残しているのですが、こんどは敵になった赤穂の面々を狙って、上杉家や吉良家の武士に襲撃されるのは警戒しながら歩いた、そうです。3里、およそ12キロの道のりを3時間で歩き抜いたのは、こんな事情もあったことでしょう。
この日から、高輪の泉岳寺は、江戸で一番有名な寺になった、と江戸川柳にあります。これです。
「それまでは ただの寺なり 泉岳寺」
12月 6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「萬昌院功運寺」をご紹介します。
実際に起きた「元禄赤穂事件」でございますが、江戸から平成の現在まで、伝わっている内容の多くは、実は「忠臣蔵」でございます。
この物語が人気になった結果、一番の被害者になったのは、いうまでもなく吉良上野介です。幕府の儀式運営の責任者・高家肝煎、鎌倉時代から続く名家の生まれで、4200石。若い頃は、大名の姫君が話題にするほどの美男であったそうです。その上、茶道でも歌道一流であった上野介、でも、こんな人物を嫌う人々もいたようなんですね。上野介は陰謀の罠にかかった・・・とも言われております。
さて、上野介、本当は、どんな人物であったのか? 上野介が眠っているお寺中野区上高田にある、萬昌院功運寺を訪ねました。ご住職・佐々昌樹さんに伺いました。
吉良家の菩提寺は、事件当時は牛込にありました萬昌院でした。犠牲になった上野介が葬られ、後に現在の中野に移り、戦後になって功運寺と合体し萬昌院功運寺となりました。忠臣蔵と申しますが、忠臣は浅野側だけではありませんでした。
討ち入りの際に主君を守って死んだ家臣も、また、立派な忠臣でございます。討ち入りによる死者の数は、諸説ありますが、このお寺には死者38名と伝わっております。
吉良上野介の人柄をしのばせるエピソードをご紹介しましょう。松の廊下で負傷した上野介を治療し、怪我が治ってからも、親しく交際していた外科医がおりました。まったく偶然なんですが、この栗崎道有も同じ萬昌院功運寺に眠っております。
明治から昭和の中頃まで、忠臣蔵の人気が高まるにつれて、浅野・善玉、吉良・悪人という風潮が強くなっておりまして、このお寺もいわれのない非難や被害を受けたそうです。
毎年、命日の十二月十五日には、吉良公慰霊法要が営まれております。今年も、身に覚えのない理由で倒れた吉良上野介と38人の家臣をいたむ人たちがお参りすることでしょう。萬昌院功運寺の最寄り駅、JR東中野駅・東京メトロ東西線の落合駅、駅から徒歩10分です。
12月 7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「忠臣蔵あれこれ」をご紹介します。
忠臣蔵というと思い出すのが、このメロディですね。芥川也寸志作曲の大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ曲。江戸時代最大の事件ともいわれる忠臣蔵、いえ、元禄赤穂事件ですが、
これほど謎が多い出来事はないんです。
刃傷の原因は何か?何故、幕府は内匠頭の処分を急いだのか? 大石内蔵助は最初から討ち入りをする気だったのか?幕府は討ち入りの計画を知らなかったのか?など、まさに謎だらけ。実は、この事件には、信用できる資料がほとんど残されていません。 吉良上野介が悪人であった・・・というのは、実は、事件から46年後に上演された浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」から広まったもので、どうやら、幕府に対する庶民の不満のはけ口となり、上野介が損な役回りを演じるようになったようでございます。
芝居では高師直、映画では、吉良上野介、悪役とされてはおりますが、なかなか難しい役どころであります。映画の場合ですと、上野介を演じた俳優は、月形龍之介・滝沢修・進藤英太郎など実力派が、憎々しく演じております。
重厚な俳優が演じる大石内蔵助、美男俳優が演じる浅野内匠頭に比べますと、不利なのではございますが、俳優にとっては演じがいのある役なんだそうですね。
さて、事件が起きてから300年以上過ぎてはおりますが、今もなお毎年12月になりますと、必ず芝居が上演されているのは、皆様よくご存知の通り。今年も、三宅坂の国立劇場では、26日まで「それぞれの忠臣蔵」と題した劇が上演されております。
実際に起きた「元禄赤穂事件」と、50年ほど経ってから上演されて人気になった芝居「仮名手本忠臣蔵」が混同されてしまいました。しかし、善玉・悪玉にされてしまった人物にも、新しい評価がされるようになってきました。
最近の研究で、家老の大石内蔵助は主君・内匠頭から冷遇されていた・・・とか、吉良上野介は領地に大きな貢献をした善良な領主であったことなどが次第に知られるようになりました。そして、刃傷の本当の理由はこれ!という新説もまだまだ発表されているのでございます。
今月14日には、両国の松坂町公園では、吉良祭と義士祭が営まれます。地元墨田区両国の方々は、討ち入った側・討ち入られた側、両方を祭っているんです。また、吉良さんが眠る中野区の萬昌院功運寺では、翌15日に法要が行われます。
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