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11月19日(月)〜11月22日(木)
今週は、東京で一番の興行街、日比谷をご紹介してまいります。
11月19日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「偉大なプランナー 小林一三」をご紹介します。
現在の日比谷界隈、江戸時代には、有力大名の屋敷が集まっておりました。町人の住居など、まったくございませんでした。明治となりまして、大きな劇場が建てられたりしたんですが、大都市の住民が求める楽しみを充たす場所ではなかったんです。ところが、この歴史探訪の決まり文句になっておりますが、一人の人物がこの街を大きく変えることになったんです。
小林一三。
大阪でアイデアを盛り込んだ新しい商法で鉄道やデパート事業を成功させた一三は、都心の一角・日比谷の再開発に取り組んだんです。当時、東京一の盛り場、そして興行街といえば、浅草。関東大震災で壊滅したものの、たちまち復興、商店に勤める人や自営業者など、江戸や明治の頃と変わらぬ盛り場として栄えていました。
小林一三の頭にあったのは、
(浅草に追いつき、追い越せ!)
でした。
では、どうやって、追い越すか?庶民の歓楽の街として繁盛していた浅草に対して、当時、昭和の初めの都心では、役所だけでなく、丸の内を中心にして、大会社のオフィスビルが増えていて、「オフィス街」が出来ていました。大正の末から使われはじめた「サラリーマン」という言葉が定着した時期でした。加えて、都心部の交通機関は急速に整備されていたんですね。
従来からの省線、現在のJRでございます、省線とバスの他に、地下鉄も開通、一段と便利になっていたんです。また、大学生をはじめ、学生も急増していました。わが国最大の都市は大きく変わっていたんです。
日比谷、という場所を選んだのは偶然ではありません。近くに、新興の商店街・銀座や、江戸以来の老舗が集まる日本橋があり、高級住宅地の麹町や麻布にも近い・・・ここならいけるぞ。そこで、大胆な計画を実行しました。急成長する都心部・日比谷に大興行街を作り上げよう、こう考え、実行したんですね。決して、一か八かの賭けに出たのではなく、きちんと計算した上で取り掛かったのは、間違いございません。
言うなれば「都会人」、新しいタイプのそんな人々は、これまでにない楽しみを求めているに違いない・・・こう考えたんです。都会的なお洒落で豪華な劇場や映画館・・・小林一三が目指したのは、これでした。
その第一弾に選ばれたのは・・・これ。東京宝塚劇場。狙いは的中。日比谷界隈にはたくさんの劇場と映画館が出来、たちまちのうちに浅草から興行街首位の座を奪ったんです。では、どんな繁華街になっていったのでしょうか?
11月20日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「劇場街」をご紹介します。
昭和9年、東京宝塚劇場が完成しました。続いて日比谷映画、有楽座などが完成、しだいに興行街の形が出来あがっていったんですね。それまで興行街の王座にいた浅草が庶民的だったのに比べて、どれも豪華な建物でした。
宝塚歌劇の公演をはじめとして、さまざまな催しに使われていましたが、やがて戦争が激しくなり、戦争中には閉鎖され、広い空間を利用し風船爆弾づくりが行われた、と記録に残っております。そして、終戦。劇場は接収され、沖縄で戦死した記者の名前をとって「アーニーパイルシアター」となりました。進駐軍の慰問に日本を訪れた、超一流の芸能人が出演したのですが、一般の日本人には無縁の世界でした。
昭和30年、接収解除。宝塚歌劇公演をはじめ、さまざまな演劇の舞台として使われました。那智わたる・鳳蘭・安奈淳・榛名由梨などの宝塚スター、東宝歌舞伎、長谷川一夫公演、そして、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう、三木のり平・八波むと志のコンビが人気を集めた「雲の上団五郎一座」などの公演が行われました。そうそう、この劇場、日本で初めてブロードウェイミュージカルが上演されたんですね。1963年、「マイ・フェア・レディ」。主役は、江利チエミと、高島忠夫でした。
さて、宝塚歌劇の戦後最大のヒットといえば、これ。「ベルサイユのばら」。初演は1974年。往年の二枚目・長谷川一夫が演出を担当、空前の大ヒットとなり、その後もたびたび再演されているのは、皆様よくご存知の通り。昨年までの公演回数1500回以上、観客総数は400万人を超したという、記録破りの作品に、たくさんのファンが押しかけたのでございます。
興行街のシンボルとして親しまれた劇場も、完成から60年あまり、老朽化のために取り壊され、2001年1月1日、21世紀最初の日に新装オープンしました。客席およそ2000の宝塚歌劇専用劇場として新しく生まれ変わったんですが、昔と変わらぬ風景もございます。それは、入り待ち・出待ち。憧れのスターが劇場入りするの待つ「入り待ち」、公演を終えて帰るスターを見送るのを「出る待ち」と申します。
雪・月・花・星・宙の5つの組が、毎月、見られるようになったのは、ファンにとって嬉しいことだそうです。
11月21日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「映画街」をご紹介します。
日比谷といえば、映画と演劇、なかでも豪華なロードショー劇場を思い出す方が多いのではないでしょうか。映画が大衆の娯楽の王座を占めていた時代、この界隈には、豪華な映画館や洒落れた映画館が集まっていたんですね。有楽座。日比谷映画。千代田劇場・・・。
堂々とした構えの正面入り口、大きくて豪華なロビー、70ミリ映画の巨大なスクリーン、広い客席、そして上映されるのは大作ばかり。クラーク・ゲーブルとビビアン・リーの「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」「地獄の黙示録」などが上映され、多くの観客を集めておりました。日比谷に映画を見に行くとなると大変でした。 一張羅、一番良い服装で出掛ける。ちょっとした緊張感と晴れがましさが入り混じった、特別の行事だったんですね。洋画ばかりではありませんで、「七人の侍」も「ゴジラ」も、そして「若大将」も山口百恵も日比谷の映画館で見た、こうおっしゃる方、いまだに多いんです。現在では少ないんですが、当時のロードショーは、単館上映、1つの映画館だけしかやっていない、こういうシステムでした。日比谷の映画館の入場料、とても高かったんです。昭和29年、50年以上前の料金、最高の映画館と言われた有楽座の自由席が、250円!当時は週刊誌が30円。現在の価値で3000円ほどになるでしょう。大作を扱う映画館が多かった中で、女性に好まれる映画を上映することで知られていたのが、みゆき座でした。この映画館の最大のヒット作、なんだかお分かりですか?これです。1974年に公開された「エマニエル夫人」。順番待ちのお客様の列が、毎日、地下1階から屋上近くまで出来ていたた、というエピソードがございます。
個性のある映画館が集まっていた日比谷興行街なんですが、建物が古くなり、次第に建て替えられていきました。現在、この通りの両側にある映画館は2個所、スクリーンの数は5つ、減ってはいますが、設備の整った映画館は前にもまして賑わっています。歴史と伝統のあった有名映画館、「有楽座」や「みゆき座」の名前は、場所を変えて近くに建て替えられた映画館に受け継がれています。
11月22日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「大きく変わる興行街」をご紹介します。
日比谷の街が大きく変わっています。今月7日、新しい劇場「シアタークリエ」がオープンしました。以前は「芸術座」が入っていたビルなんですが、老朽化のため建て替えられました。
芸術座といえば、昔懐かしい「がめつい奴」「たぬき」「三婆」などの名作を生んできましたが、代表作と言えば、やはりこれでしょう。放浪記。初演は1961年(昭和36)、芸術座でした。今年87歳の森光子さんの当たり役となり、これまでの上演回数は1858回。来年1月7日から3月30日まで、新しい劇場「シアタークリエ」で「放浪記」の連続公演が行われます。2月(23日)には、1900回を迎える予定です。入場券の前売り、もうすぐ始まるそうです。
この街の魅力は、劇場・映画館が集まっているだけではないんです。有数の繁華街・銀座が近く、交通も便利、しゃれたレストランや飲食店も数多く集まっていることなんですね。この街の生みの親、新しい事業を興す天才だった小林一三の計画には、先の展開まで出来上がっていたようです。でも、どうやら日比谷興行街のまわりの変化は、予想を上回る規模で進んでいるようです。最寄り駅でもありますJR有楽町駅近くの再開発が一挙に進み、銀座は相変わらず有名ブランドの直営店の出店が続いています。
劇場が変わった、映画館も建て替えられ、複数の映画館が入ったシネコン、シネマコンプレックスも増えています。有楽座・日比谷映画などの跡地に建てられたショッピングビル、日比谷シャンテは、今年20周年を迎えました。
実業家小林一三の夢が実現した街、日比谷興行街、秋が深まるにつれ華やかさを増しているんです。
11月23日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
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