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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月12日(月)〜11月16日(金)
今週は、「ご存じ東京タワー」と題してお送りししてまいります。
映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」が公開され、またまた話題となっている東京タワーにまつわる、様々なエピソードをご紹介して参ります。

11月12日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「東京タワーを建てた人」をご紹介します。
ここ数年、さまざまな小説や映画の題材となり、新しいタワー建設の話題も重なって、東京タワーが話題に上ることが多くなっていますが、ここでクイズを一つ。東京名所のナンバーワン・東京タワー、大阪のシンボル・通天閣、そして名古屋のランドマーク、テレビ塔。この三つの鉄塔には共通点があります。
さて、それは何でしょうか…というものですが、答えは…「設計した人が同じ」。1886年(明治19年)、山梨県に生まれた「内藤多仲」さんという方が、この3つの塔の構造設計を手がけているのです。この方、東京大学大学院を卒業すると同時に、わずか25歳で早稲田大学の教授に就任したといいますから、そうとう、優秀な人材だったそうです。1917年(大正6年)にはアメリカに一年間、留学していますが、そこで経験したある出来事が、彼のその後の設計に大きな影響を与えます。大陸横断鉄道で、アメリカのあちこちを見て歩いていた多仲は、サンフランシスコからワシントンへ移動するとき、トランクに荷物を沢山詰め込もうとして、中についていた「間仕切り」を取り払いました。ところが、ワシントンに到着して、荷物を受け取ってみると、丈夫なはずのトランクが壊れてしまっていたんですね。「これは…間仕切りをとったせいだな」と気づいた彼は、今度は間仕切りをつけたまま、外側にロープをかけて持ち運ぶようにしたところ、トランクはビクともしなかった。「建築も同じことだ」多仲はひらめきました。「建物の中身が、がらんどうでは、地震が来たら、ひとたまりもない。トランクの間仕切りのような、地震の衝撃にも耐えうる、丈夫な壁を内部に作ればいい」多仲は帰国後、早速、このアイディアを実行に移します。
そして迎えた、大正12年(1923年)の関東大震災。最新のオフィスビルが次々に倒れていく中で、彼が構造設計を行った建物はびくともしませんでした。耐震構造の第一人者となった彼が、戦後、各地の鉄塔の設計を手がけるようになったのは、いわば、自然の成り行きでした。まだコンピューターの「コ」の字もない時代、内藤は計算尺だけを頼りに計算に明け暮れ、地震国・日本にふさわしいタワーの形を割り出したのです。
懐かしい怪獣映画「モスラ」の挿入歌、ザ・ピーナッツの「モスラの唄」が聞こえています。映画の中でモスラの幼虫はタワーに登って繭をつくり、そしてタワーをへし折ります。地震には強いタワーですが、怪獣には…弱いみたいですね。

11月13日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「タワーを作った職人たち」をご紹介します。
きのうは、東京タワーの「構造設計」を行った建築家、内藤多仲のお話をご紹介しました。その綿密な設計図に基づき、実際に現場で作業にあたったのは、日本が世界に誇る建築現場の職人、トビの皆さんでした。地上三百メートルの空中を、羽根でも生えているかのように、自由自在に動き回り、鉄骨を組み上げていくトビ職たち。当時は今のように建設機械も発達していませんから、タワーの組み立ては、ほとんどが手作業。いくら設計図が綿密にきちんとできていたところで、それを的確に組み立てていくトビたちの献身的な努力なしには、おそらくこの計画、挫折してしまっていたことでしょう。合計4千トンにも達する、莫大な量の鉄骨を、ほぼ手作業で組み、そして止めていく。しかも工期は限られており、突貫工事が当たり前。もちろん想像を絶するご苦労があったこととは思いますが、その反面、日本を代表する建築現場で働いているという、そんな誇りが、彼らを支えていたのです。
作業の中でもタイヘンだったのが、鉄骨をつなぎ合わせるため、リベットという鉄のピンを打ち込み、とめていく作業でした。しかし、このリベットがなかなか扱いが大変でした。実は、使う直前まで、コークスを使った小さな炉の中に入れて加熱されており、温度はおよそ八百度。リベットを長い鉄製の箸ではさみ、下から上に向けて放り投げると、現場では筒のような専用の入れ物を持った職人さんが待ち構えていて、それをナイスキャッチ!一見、何気なくこなしている作業ですが、もし間違えて取り損ね、落としてしまうと、下にいる人は大けが、大火傷の可能性があります。熟練した職人さんならではの、離れ業。受け取ったリベットは、鉄骨に差し込まれ、一人が頭を抑えると、もう一人が目にも留まらぬ早業で、反対側からカーン、カーンと打ちつけていきます。なぜ熱するのかといえば、金属は加熱すると膨張する性質を利用しているからです。打ち込まれたリベットが冷えると、ギュッと収縮して、鉄骨をしっかりと締め付け、安全性が高まるという仕組みなのです。
戦後、十二年ほどの月日が流れていたとはいえ、日本は、まだまだ復興途上にありました。4千トンもの良質な鉄骨を確保するのは、なかなか大変でした。中でもユニークなのは、朝鮮戦争で使われたアメリカ軍の戦車。前線に向け、大量に投入された戦車が、戦争が終わったため不要になり、民間に払い下げられました。戦車は安全性を優先して作られていますから、使われている鉄も、非常に良質なものなんですね。そこで、戦車をパーツにバラして溶かし、鉄骨にして、タワーに利用した、というわけなんだそうです。

11月14日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「名前の由来」をご紹介します。
皆様、東京タワーの本名をご存じでしょうか?いきなり、妙な話を始めたと思われるかもしれませんが、実は、東京タワーの正式な名前は「日本電波塔」という、少々いかめしいモノなんです。
実際、計画、着工段階の新聞記事などを見ても、「電波塔」と書かれています。この「東京タワー」という名前は、公募で決められた愛称なんですね。賞金は十万円…といいますから、今の感覚でいえば、百万円ほどになりますでしょうか。寄せられた名前を眺めてみると、これが実に面白い。たとえば、いちばん多かったのが「昭和塔」。それから「日本塔」「平和塔」「富士塔」「世紀の塔」「エターナルタワー」「マンモス塔」「宇宙塔」、面白いものでは「きりん塔」というものがあります。そして、当時の世相を反映しているのが「プリンス塔」。実は、東京タワーが建設されていく過程は、そのまま、皇太子殿下…現在の天皇陛下と、正田美智子さん…現在の皇后陛下のロマンス、そして婚約発表と、ほぼ同時進行していたんですね。タワーの完工式が行われた12月23日は、奇しくも皇太子殿下の誕生日、そう、現在の天皇誕生日。当日の新聞を見ても、タワーの記事のすぐ上に、「新しい御所は美智子さんと相談して」という、皇太子さまの誕生日談話が掲載されております。
聞こえているのは、フランク永井さん歌うところの、「たそがれのテレビ塔」という便乗ソングです。まだ高層ビルもほとんど建っていない東京の街に、忽然と現れたタワーは、人々の注目の的でした。もちろん高額賞金目当てということもあったでしょうが、名前募集の応募総数は、何と8万6千通あまり。そして審査員のメンツが、これまた評論家の大宅壮一、作家の川口松太郎に吉川英治、東大総長に東京都知事…と、凄い名前が並んでおります。その、そうそうたるメンバーが、悩みに悩んで決めた名前が「東京タワー」。やはり審査員の一人で、ラジオの大先輩でもいらっしゃいます、徳川夢声さんは、次のように書き残していらっしゃいます。「…私はその名付け親の一人となった。広くその名を全日本に求め、無数の巨名、偉名、美名、奇名、珍名が集まった中から、私達委員が選んだ。結局、平凡そのものと思われる『東京タワー』と定まった。今日に至ってみると、この名こそ最もふさわしきもの!平凡こそ最高なり!」
確かに、あの建築物、他の名前では、絶対にしっくりこないような気がいたしますが、皆様、いかがでしょうか?「東京タワー」の応募は223通、全体では「エンゼルタワー」に次ぎ、十三位の得票数でした。

11月15日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京タワーの麓では」をご紹介します。
東京タワーは、1957年(昭和32年)、6月29日に着工され、翌58年(昭和33年)の12月23日に完工式が行われました。僅か一年半の間に建ってしまったんですね!ちょうど半世紀前の今頃は、このスタジオから目と鼻の先の増上寺のすぐ裏で、トンテンカンテン、騒々しく工事が行われていたという訳です。さて、東京タワーから南に進めば、ここ、文化放送。逆に、北に進むと、ほどなく「六本木」に行き当たります。
現在では、日本有数の盛り場となっているこの六本木ですが、昭和二十年代は、現在の東京ミッドタウンのあたりがすべてアメリカ軍の施設となっており、日本人にとっては近づきにくい街でした。しかし、朝鮮戦争が終わって、アメリカ兵の数が減ると、最先端の風俗を求める日本の若者たちが、このアメリカナイズされた街に入り込んで来るようになります。もちろん、当時の最先端そのものといってもいい、東京タワーの雄大な眺めも、六本木に若者を引きつける、一つの魅力となっていました。東京タワーのオープンから一週間後、年が改まって1959年(昭和34年)になりますと、六本木の日本化は、さらに加速していきます。この年、アメリカ軍施設の多くが日本に返還され、また東京タワーに設置されたアンテナを使って、地元の放送局である日本教育テレビ、現在のテレビ朝日が放送を始めます。ピザの「ニコラス」、ハンバーガーの「ハンバーガーイン」、中華料理の「香妃園」といった店が人気を集め、こうした店にたむろする若者たちが、「六本木族」と呼ばれるようになっていきました。名高いイタリアン・レストラン「キャンティ」の開店は、さらに翌年の1960年(昭和35年)のこと。この店には、夜な夜な三島由紀夫、黛敏郎、丹下健三、黒澤明といった文化人、さらには芸能界で活躍するムッシュかまやつ、安井かずみといった才能が集い、最先端のサロンとなっていたのです。先日「邦流」にご登場いただいた峰岸徹さんなんかも、その一員だったわけですね。そして、店に集ったメンバーの中でも、アイドル的存在だったのが、若き日の加賀まり子さん。彼女は高校在学中に女優としてデビューしています。そのデビュー作、フジテレビのドラマなんですが、何とタイトルが「東京タワーは知っている」。六本木を遊び場にする美少女の、昭和三十五年のデビュー作として、これほどぴったりなモノはございません。

11月16日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「昭和三十三年・秋」をご紹介します。
ニョキ、ニョキ、ニョキ…と、東京タワーが、あきれるほど背を高く伸ばしていった1958年、昭和33年。子供たちにとって最大の話題は、何といっても連続テレビドラマ「月光仮面」でした。この年、二月に放送が始まると、あっと言う間に大人気となり、最高視聴率は実に68%に達したという伝説の番組です。白いターバンと覆面姿でオートバイに乗って現れ、悪者を倒して去っていく、国産ヒーロー第一号。子供たちは来る日も来る日も月光仮面ごっこに熱中し、覆面のかわりに顔に包帯を巻き、高いところから飛び降りて骨折する事件が続出して、社会問題にまでなりました。そして、もう一人のヒーローが、こちら!
ご存じ、現・巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん。この年、立教大学を卒業してジャイアンツに入り、ルーキーイヤーを過ごしています。デビュー戦こそ、国鉄・金田投手の前に沈黙、4打数4三振に終わりましたが、シーズンが終わってみると、ホームラン29本、打点92で二冠に輝き、打率も・305で2位という素晴らしい成績。もちろん新人王も獲得し、チームのリーグ優勝に大きく貢献しています。
さて、優勝の余韻も冷めやらぬ10月9日、東京タワーの工事も佳境に入っていました。鉄塔は250メートルの高さに達し、いよいよ、長さ94mに及ぶアンテナの取付工事が行われます。本来なら、塔の内部から吊り上げるところですが、先にエレベーター工事が行われたため、塔のてっぺんに仮設の塔を設けてワイヤを下ろし、そこに8つに分割したアンテナをつなぎ、次々に引き上げることになりました。当日は見事な日本晴れでしたが、時折強風が吹いて作業は中断。お膝元の芝公園では、小学校の運動会が行われていましたが、男の子はみなアンテナ工事が気になって、そちらをチラチラと見続けるため、先生に怒鳴られてばかりだったとか。結局、1時間ほどの中断を経て、工事は再開され、アンテナは無事、塔のてっぺんへ。一年半に及ぶ、東京タワー工事のクライマックスはこうして終わったのです。
運動会とアンテナ取り付けが終わると、子供たちの関心は、二日後に始まる日本シリーズへと移っていきました。二年続けて西鉄にやられている巨人、今年こそは…と、東京の野球ファンは期待していました。しかし、鉄腕稲尾の獅子奮迅の活躍で、思ってもみない3連勝後の4連敗という悲劇が待ち構えていようとは、この時点では誰も、知る由もなかったのです…。

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