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10月29日(月)〜11月2日(金)
今週は、「江戸東京読書案内」と題してお送りししてまいります。
読書の秋。神保町では「古本まつり」が盛大に開かれ、また全国的にも11月9日までは「読書週間」です。
そこで、今週の歴史探訪は、「江戸東京読書案内」。江戸、そして東京をテーマに書かれた本の数々をご紹介して参ります。
10月29日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「江戸名所図会」をご紹介します。
本日ご紹介しますのは「江戸名所図会」。私が愛してやまない本に、池波正太郎作の「鬼平犯科帳」シリーズがありますが、池波先生が「鬼平」や「剣客商売」を執筆するとき、 座右には常に、三種類の書物があったんだそうです。ひとつは「江戸切絵図」、当時の地図ですね。そして、もうひとつは「江戸買物独案内」、これは当時のショッピングガイド。お店の名前や所在地、家紋などが詳細に記されています。そして、最後のひとつが「江戸名所図会」。江戸の名所を文章と美しいイラストで紹介する、今でいえばヴィジュアル本の一種ですね。刊行が始まったのは1834年(天保5年)。当時は全部で二十冊に分けて刊行されたという、とてつもないボリュームを誇っております。ガイドブックの刊行を思い立ったのは、神田雉子町に住んでいた、斎藤幸雄という名主さん。この方、もともとは青果市場の仕事をされていた方で、幕府に納める野菜に関する責任者も務めていましたが、その一方で読書や学問も大好き。当時出ていた、江戸の案内本も愛読していたようですが、どれもこれも、ちょっと時代遅れだな…と考えていました。よし、それなら、一つ私が、「いまの江戸」を調べて、便利なガイドブックを作ってやろう…と思い立ったんですね。これが、1780年頃のことだったと申します。
志を立てた斎藤さんは、精力的な取材を始めます。とはいえ、いくら学問好きとはいっても、当時は今と違ってもちろんインターネットはありませんし、図書館のような便利な施設もありません。神社・仏閣の成り立ちを調べるにしても、すべて現地に出かけて、自分で取材をして書いていく。私などには想像もつかない、気が遠くなる作業でございます。斎藤さんは16、7年に渡り取材・執筆を行いましたが、原稿など未整理のまま、63歳で亡くなられます。これを継いだのが、娘婿の斎藤幸孝さん。画家も長谷川雪旦と定まりまして、この二人、連れ立ってさらに取材を重ねたそうですが、さあ、いよいよ刊行を始めるぞ…という段階になって、この幸孝さんも死去。後は息子の幸成さん、当時十五歳が継ぎ、お祖父さんが思い立ってから、半世紀以上の月日をかけて、この大事業が成ったという次第でございます。「江戸名所図会」は、その後何度も刊行されており、現在はどこの図書館でも、簡単に見ることが出来ます。
10月30日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京近郊一日の行楽」をご紹介します。
本日ご紹介しますのは、田山花袋作「東京近郊一日の行楽」。
1923年(大正12年)の出版物でございます。「田舎教師」あるいは「布団」といった代表作をもち、自然主義文学の代表的な作家として知られる田山花袋が、当時、広がりつつあった郊外電車のネットワークを使って「東京近郊」を歩き回って作り上げたガイドブック。田山花袋は、きのうご紹介した「江戸名所図会」に触発されて、この本を書き上げましたが、この方、とにかく旅行とか出歩いたりするのが何より好きで、小説のほかにも「紀行文」がやたらと多く、実に五十八冊もの著書があるんだそうです。彼の紀行文の特徴は、軽い文体で読みやすく、会話が多く取り入れられていること。蕎麦で有名な「深大寺」の一節をご紹介しましょう。「…『深大寺はまだでしょうか』『もうじきです』こう言って、路傍で畑を耕していた男は振り返って、『そら、向こうに松の山が見えるでしょう』『ええ』『あれがそうです』指さされた方には、形の面白い、なるほど昔、城跡でもあったか…と思われるような立派な松林が広げられてあった。私達は中央線の境の停車場から、畑道のような所を右に折れたり左に折れたりしてやってきた。退屈して、ゴボウの実のトゲトゲのあるのを取って、前に行く友達にぶつけたりして戯れながら歩いた」境、というのは、現在の武蔵境駅です。この後、花袋は深大寺に到着して、そこが江戸名所図会の時代に比べて荒廃しており、「図会」に出てくる名高い蕎麦の店など一軒も見当たらないと書いています。
いま、深大寺あたりに出かけると蕎麦店だらけですが、大正時代にはいったん、廃れていたんですね。そして、帰りは境に戻らず、調布方面へと向かいます。「…私達はここから、田間の道を通ったり、林を抜けたりして、調布町の方へ出て行った。この間は一里には近かった。調布町に入るところは、眺望がややひらけていて、林などがある。ブドウや梨の畑などもある。調布の町は、電車が出来てから、すっかり趣が変わったが、それでも、汚い暖簾の中からおしろいをべたべたつけた田舎女郎などが顔を出していた」オリジナリティを尊重して、そのまま引用しておりますが、かつて甲州街道の宿場町だった調布の雰囲気がよくわかります。それにしても、武蔵境から調布までがずーっと畑や林で、のんびりと一日、ピクニックができるような場所だったという、本当に隔世の感がございますね。「東京近郊一日の行楽」は現在、インターネットでダウンロードできる電子ブック版が入手しやすいようです。
10月31日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「武蔵野」をご紹介します。
本日ご紹介しますのは、1898年(明治31年)の作品、国木田独歩著「武蔵野」でございます。
これ、名高い割には、あまり読まれていない本の代表格…と言ってもいいんじゃないでしょうか。私達が現在「武蔵野」といってイメージできるのは…そうですね、その名も「武蔵野市」の井の頭公園あたり。それも、あの公園の界隈だけが昔の名残をとどめていて、回りはすっかり住宅地になってしまっています。ところが、国木田独歩が定義する武蔵野は…と申しますと、ちょっと朗読してみましょう。「…たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神(きしもじん)あたりの町、新宿、白金…」渋谷も目黒も早稲田も新宿も、このあたりどこもかしこも、十九世紀の末には、のんびりした畑や林に囲まれた土地だったんですね。で、この名作「武蔵野」が書かれた場所、皆さん、どのあたりだと思われますでしょうか。これ、実は「渋谷」でございます。公園通りを上がりきって、渋谷公会堂とNHK放送センターの間の坂を、下っていき、226事件の慰霊碑を過ぎた、イチョウの木陰。ここに「国木田独歩住居跡」の碑が建っています。
二十四時間ひっきりなしに車が往来する、東京でも指折りの賑やかなこの界隈…渋谷公会堂改め、CCレモンホールのあたり、当時は武蔵野の幽玄な林の片隅だったというわけです。独歩は、富豪の令嬢・佐々城信子と熱烈な恋に落ち、結婚します。しかし、社会主義とキリスト教に目覚めた文学青年・独歩と、派手好き・社交好きな信子とは、育ちが違いすぎました。あまりの貧困に耐えられず、妻は出奔。失意の独歩が移り住んだのが、ここ武蔵野の渋谷村、これが明治二十九年(1896年)、今から百十一年前。その頃の日記が「武蔵野」に引用されています。
「十一月四日…天高く、気、澄む。夕暮に、ひとり風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山 地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
まるで北海道の原野かと思われますが、これが渋谷。試しに、「武蔵野」の文庫本を持って、CCレモンホールの脇に立ってみてください。荒涼たる野原の景色が見えてくる…かもしれませんよ。
11月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「梵雲庵雑話」をご紹介します。
本日の一冊は淡島寒月、著「梵雲庵雑話」。
梵は梵語、サンスクリットの「梵」という字に、雲は雲、庵は長寿庵の庵、その雑な話…と書いて、「梵雲庵雑話」、初版は1933年(昭和8年)。明治時代の東京の、奇妙奇天烈なエピソードに溢れた一冊です。淡島寒月という名前、あまりおなじみではないかもしれません。漢字では、淡いという字にアイランドの島、そして「寒い月」と書く、淡島寒月は、1859年(安政6年)、日本橋馬喰町の生まれ。生家は「軽焼き屋」…軽焼きというのは、餅米の粉に砂糖を加えて膨れるように焼いたお煎餅だそうですが、使用人も多く、とてつもなく裕福な家だったそうです。お父様には、お妾さんが合計百六十人もいたそうですから、これはもう、大変なものですね。早くから欧米に憧れ、アメリカへの帰化を志したという寒月。向こうで暮らすことになったら、日本についていろいろと聞かれるに違いない…と考えたのが、日本古典を学ぶきっかけだったそうですが、そこから江戸文化にハマり、持ち前の財力で洒落本やオモチャなどを次から次へと購入、とてつもないコレクションを築いてしまったという、まあ、元祖オタクといった感じの趣味人ですね。では、その「梵雲庵雑話」から、極めつけの面白い一編、浅草寺境内の昔話を綴った「寺内の奇人団」をかいつまんでご紹介しましょう。「…明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。その筆頭にはまず私の父の椿岳を挙げます。父は変人ですから、人に勧められるままに、御経もろくろく読めない癖に、淡島堂の堂守となりました。参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目によむのを御存知なく、椿岳さんになってから、お経も沢山よんで下さるし、御蝋燭も沢山つけて下さる、と悦んで礼をいいましたね」同じ頃、この浅草寺にヨーロッパのサーカスがやってきたという話が出てきます。「…この連中に、英国生れの力持ちがいて、一人で大砲のようなものを担ぎあげ、毎日ドンドンえらい音を立てたので、一時は観音様の鳩が一羽もいなくなりました」
もともと六区のあたりは森で、切り開いてお堂を建てたので、追い出された狸が人を化かして大変に困ったんだそうです。で、どうしたか…というエピソード。「…前に申した大砲をうった男が、よし来たというので、鉄砲をドンドン縁の下に打込む、それでもなお悪戯が止まなかったので、仕方がないから祀ってやろうとなって、祠を建てました」この祠というのが、現在の公会堂近く、伝法院通りの鎮護堂。お堂の隣には、立派な狸の置物がちゃんと飾ってございます。
11月2日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「東京ハイカラ散歩」をご紹介します。
江戸東京読書案内、最後にご紹介しますのは、野田宇太郎著「新東京文学散歩」でございます。
文学散歩…お好きな方、リスナーの皆様にもたくさんいらっしゃることと思います。書店に出かけても、旅行本のコーナーを眺めると、ぎっしりと「ナントカ文学散歩」という本が並んでおりますが、実は、戦後、この「文学散歩」という行為を最初に始めたのが、詩人であり、編集者でもあった、野田宇太郎さんという方。編集者としては、三島由紀夫、森茉莉、幸田文…といった名だたる作家を世に送り出した方でございます。アメリカ軍の空襲によって、見る影もなく焼き尽くされた東京。戦後、野田さんは、愛してやまない文学にまつわる土地が、跡形もなく破壊されていくのに悲しみ、怒りを覚え、何とかそれをきちんとした形で保存できないか…と志し、その第一歩として、自らの足で文豪の足跡をたどり始めました。今でこそ、「文学散歩」は、のどかな娯楽の一つですが、創始者である野田さんには、悲壮な決意があったんですね。もともと「日本読書新聞」の連載企画で、企画段階では「文学的散歩」と名付けていたのを、野田さんが「文学的」では堅苦しい、「的」を外そうと提案。ここに、現在誰もが気軽に使う「文学散歩」という言葉が誕生した…というわけです。文学散歩は、犯罪事件でいう現場検証のようなもの。犯罪は、現場に出かけ、犯人の残した手がかりを探さねば、とうてい解決できるものではありません。文学もまた、その生まれた「現場」に足を運べば、おのずと、本を読むだけではわからない「空気」が伝わってくるもの。野田さんの「文学散歩」には、そんな緊張感が満ち溢れています。
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