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10月22日(月)〜10月26日(金)
今週は、「東京の軽工業」と題してお送りししてまいります。
今週は、明治・大正・昭和・平成と、東京の、そして日本の成長を支えてきた軽工業の歴史をご紹介してまいります。
10月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「マッチ」をご紹介します。
マッチです。
明治維新直後、便利な外国製品がドッと入り込んできたんですが、その中で、すぐに庶民の生活にまで取り入れられたのが、マッチでした。
それまでは、付け木というものを使って、行灯や炊事用の火を起こしていたんですから、便利なことこの上なかった・・・。でも、マッチはすべて外国製でした。
この時、一人のヒーローが登場します。清水誠。日本のマッチ製造の父といわれる人物です。外国でマッチ製造法を研究、1876年(明治9)に、現在の東京都墨田区に初めての本格的なマッチ製造工場を完成させました。
国産マッチは、たちまち全国に広まり、外国製品にとってかわり、すぐに有力な輸出品になりました。ちなみに、当時の値段、並型10個包みが3銭、現在の価値にして200円ほどでしょうか。タバコ店・荒物屋などで売られておりました。たくさんの会社がマッチ製造を始め、有数の輸出品になったんですが、当時の最大の貿易港は・・・と申しますと、神戸。次第に、港に近い関西にマッチ製造が盛んになり、現在でも、マッチ生産第一位は兵庫県なんです。
激しい競争を繰り広げていたマッチ業界、それぞれの会社はラベルのデザインに工夫をこらしていたんです。花・動物・風景・人物・・・いろいろな図柄がマッチ箱を飾り、日本製のマッチは、図柄の美しさでも人気になっていました。
さらに、明治時代後半になると、素晴らしいアイデアを思いついた人がいたんです。
これまた、たちまち普及。お馴染み広告マッチの登場です。料理屋やバー、喫茶店など、お店には必ず置かれていましたよね。マッチのような軽工業は、天災や戦争の被害を受けても、簡単に事業を始められましたから、すぐに立ち直ることが出来ました。マッチ業界の繁栄は、戦後もかなりたった1970年代まで続いていたんです。
ところが、1975年(昭和50)、衝撃的な商品が登場しました。100円ライターが発売されたんです。手軽に使え、安い。マッチの売り上げは急激に減ってしまいました。それまで売り上げのおよそ半分を占めていた広告マッチは、次第にティッシュペーパーに移っていったんですが、ご記憶の方も多いことでしょう。
国産マッチ製造の歴史は130年にもなりますが、現在でもマッチの生産は盛んに行われおります。昔と変わらぬ広告マッチを置いている店もあり、最近では少しづつ増えているようでございます。
マッチ生産の業界団体、日本燐寸工業会に伺ったところ意外なことがわかりました。現在、材料は輸入品が多いんですが、流通しているほぼ100パーセントが国産なんですね。日本のマッチ製造の父の功績をたたえて、最初のマッチ工場が作られた墨田区本所、東京都立両国高校の敷地の一画、歩道からも見えるところに「国産マッチ発祥の地」の石碑が建てられています。
10月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「自転車」をご紹介します。
小坂一也が歌ってヒットいたしました「青春サイクリング」。
わが国に自転車が入ってまいりましたのは、幕末から明治の初め。横浜や東京の築地にあった居留地の外国人が乗り回しておりまして、見よう見まねで「それらしきもの」を創り上げた日本人がいた、という話が残っております。新しい乗り物・自転車、新し物好きの日本人の間に普及し始めました。と申しましても、とても高かったんですね。値段は、明治時代から大正のはじめまで変わらず、およそ200円!銀行員の給料の半年分から1年分という、現在の自動車並みの値段だったそうでございます。
ところが、自転車の競技会やサイクリングが盛んに行われ、上野の池之端あたりで貸し自転車業が繁盛しているのを見て、「これを作ったら、きっと売れるぞ!」と考える人が次々に現れました。世の中には、新らしい時代に相応しい、チャレンジ精神旺盛な人がいました。
そして、刀鍛冶や鉄砲鍛冶など伝統の技能を持った人々も。力を発揮できる機会を探していたんです。一方、自転車を買う側は、時代の先端を走る人たちでした。新し物好きといえば、いつの時代も女学生でございますね。明治34年、ちょうど二十一世紀を迎えた年でございますが、十数名の女学生が自転車を連ねて、隅田川で行われた学生のボートレースを見物したことが、大きな記事になっております。また、意外な職業の女性が自転車を積極的に取り入れていました。
お産婆さんです。女性が自転車に乗る姿が珍しかった時代、女子大生とお産婆さんが先駆けて自転車を取り入れていたようでございます。また、当時最先端の業種でありましたデパートの配達や、電報の配達にも使われるようになりました。明治20年代には東京市本所区に、動力を使った当時最新鋭の工場が完成しております。値段が高い自転車は、ステータスシンボル。大きな商店は、店頭に自転車をズラリと並べて繁盛ぶりを示していました。明治時代の記念写真には、中央に自転車を置いた構図がよく見られますが、実は、そんな事情があったんですね。自転車の売り上げは順調に伸びまして、昭和3年には、全国の保有台数が500万台を突破しております。
時代は下って昭和10年代。戦争の気配が漂ってまいりますと、自転車はガソリン不要の乗り物として見直されました。太平洋戦争が終わって自転車生産が回復しても、相変わらず高かった。終戦から10年たった昭和31年でも、平均的な自転車が1〜2万円。当時、ラーメンが40円でしたから、現在ならば10〜20万円にもなる高価な商品でした。
平成に入りますと、趣味として、そして健康維持に役立つとして、またまた自転車人気が盛り上がり、今も続いております。現在は輸入品も増え、1万円ほどから買うことが出来ます。50年前と同じ値段ということになります。レジャーに仕事に健康増進に、自転車は役立っております。
10月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「石鹸」をご紹介します。
風呂好きな日本人の、安らぎのひと時であります。入浴に欠かせないもの、石鹸はいつ頃日本に伝わったのでしょう。ずいぶん昔のことなんですね。1543年、元文年間、種子島に鉄砲が伝わった時に、いっしょに持ち込まれたとされているんです。あの織田信長も愛用していたそうですし、徳川家康の遺品一覧を書き記した中に、石鹸を意味するポルトガル語、「シャボン」の文字が見られます。
ところが、シャボンはごく一部の大名や商人が使えるだけでした。一般庶民は、昔ながらの方法、灰を水に溶かした上澄みの灰汁や、汚れを落とす成分を含んだ木の実、尿などを使って、洗濯や入浴していました。浮世絵などでお馴染みの、ぬか袋などは入浴に欠かせない道具だったんですね。
そして明治維新。
外国人が使う石鹸を見て、早速、国産石鹸の製造が始められました。工場が作られたのは、東京市本所、現在の墨田区で、石鹸の原料となる油が手に入りやすかっためでした。他にも理由があります。
それは、9月の「東京歴史探訪」でもご紹介しましたが、隅田川や運河を使って、原料を運んだり、製品を送り出すのに便利だったこと。
そして、空き家になった大名屋敷や旗本屋敷があり、工場を作るのに適していたことなど、有利な条件が揃っていたからなんです。
ところが・・・。 出来上がった石鹸の品質は、外国製には遠く及ばなかった。でも、明治時代の人は立派でした。くじけることなく、改良を重ね、外国製品に追いつこうと努力を続けたんですね。
そして、1890年(明治23)、画期的な高級石鹸が発売されました。「花王石鹸」と名付けられ、国産の高級石鹸として売り上げを伸ばしました。桐箱に3個入って35銭、といいますから、現在ならば2000円ほどでしょうか。高かったんです。石鹸業界は、その後も新しく競争に加わる会社が続き、現在の足立区や墨田区には、大きな石鹸工場が建てられました。
こうして、明治時代も末になると、一般大衆も入浴や洗濯に石鹸を使えるほどに値段も下がり、固形石鹸と洗濯板を使った洗濯風景がふつうになり、はるか後、昭和30年代はじめに洗濯機が普及するまで続くことになるんです。
10月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「オモチャ製造」をご紹介します。
既にお気づきのように、明治時代のはじめ外国から、さまざまな衝撃がもたらされ、それをバネにして新しい産業が生み出されていったのでございます。その典型のひとつが、おもちゃ産業なんですね。
日本で家族とともに生活する外国人が増えてまいりますと、生活の中で使われる品も目についてきます。おもちゃも、ブリキおもちゃは、明治7,8年頃にイギリスから、セルロイドのおもちゃは、明治10年頃にドイツから、ゴム製のものは明治14、5年にドイツやアメリカから伝わりました。国内でも売り始めたんですが、これが高い!ゴムまりを例にとりますと、1個50銭でした。当時、かけソバ一杯が1銭5厘でしたから、庶民には手が出ませんでした。時の有力者大久保利通は、こう考えていたようです。「造船や鉄鋼を立ち上げるには時間と莫大な費用がかかる。これは国の仕事。でも、軽工業ならば民間が努力すれば何とかなるだろう・・・」
おもちゃの場合、この方針は驚くほど短期間で達成されました。ブリキ・セルロイド・ゴムを材料にしたおもちゃが5年ほどの間に国内で作られ、ほどなく輸出も始められるほどになったんです。東京の下町、現在の台東区・墨田区・江東区そして葛飾区を中心とした一帯の小さな製造業者が、工夫して、江戸時代から続く優れた技能を持つ職人の力を借りて作りました。
なかでも、競争の激しかったのがセルロイド玩具。生き残った会社は、やがて輸出に力を入れるようになりました。1914年(大正3)に起きた第一次世界大戦によって、欧米のセルロイド会社は火薬づくりに切り替え、外国の玩具会社は材料途絶えてオモチャを作れなくなったんですね。ここれで日本のメーカーは売り上げを大きく伸ばしました。
野口雨情の詩で知られる童謡「青い目の人形」、大正10年に作られた詩に歌われたのはアメリカ製の人形でしたが、やがて日本製の人形が世界中で人気を集めました。こうして、昭和の初めには、日本製のセルロイドおもちゃの輸出額は世界一になったんです。
戦後、占領下の日本で最初に息を吹き返した軽工業がオモチャ業界であったのは良く知られております。モノを作る技術はあっても材料がない時代でした。そこで代用品としてアメリカ軍の缶詰の空き缶を使ってブリキオモチャを作ったんですね。1946年から1951年までに輸出されたオモチャには、MADE IN OCCUPIED JAPAN(占領下の日本製)の文字が記されております。当時作られたブリキおもちゃが、現在では世界中のコレクターに珍重されていることは、皆様ご存知の通りでございます。
戦後、新しい材料プラスチックが現れ、景気の大きな波を受けながらも「おもちゃ業界」は成長を続けてきました。フラフープ、ダッコちゃん、リカちゃん人形、オセロゲーム、そして、テレビゲーム。
まさしく創意工夫と努力によって成長を続けてきた玩具業界、少子化の波も乗り越えて、更なる成長を遂げてゆくのでございましょう。
10月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「靴製造」をご紹介します。
昔から、日本人の履物といえば、草履・ワラジ・下駄。クツといえば、沓、宮中や神社で用いられる履物でした。ところが・・・。
明治維新。西洋靴の製造を始めたのは元佐倉藩士・西村勝三でしたが、これは政府の有力者の勧めに応じたものでした。その有力者とは、九段の靖国神社の銅像で知られる大村益次郎。西洋式の軍隊の建設を急いでいた大村は、膨大な量の軍隊用の靴、軍靴の国産を考えたんです。大村益次郎の考えはこうでした・
「国産にすれば、日本人の足に合うものが出来るし、高い金を出して輸入することもない。それに、仕事が増えて、失業した武士の救済にも役立つ・・・」
確かに、合理的な考えなんですが、大変な作業でした。
ワラジや草履に慣れてきた兵隊の不満は大きかったようです。ドイツ人技師を雇って指導を受け、東京・築地で製造を始め、すぐに現在の墨田区向島に移り、本格的な工場を作って製造をはじめました。日本の靴作りは軍隊用の靴から始まりました。明治10年代の兵隊はおよそ6万人で、1人に年間3足支給されましたから、大村益次郎の考えは正しかったんです。
軍人だけでなく、官吏や教員は洋装、西洋式の服装が義務付けられましたから、草履ばきというわけにはいかず、次第に靴の需要が増えていきました。さらに、明治16年に開設された鹿鳴館では、女性も洋装。女性も靴をはく習慣がはじまったんです。明治時代末から大正はじめになると、女学生が靴をはくようになり、形や色に流行が取り入れられるようになりました。昭和初め、女性の社会進出が始まります。デパート・カフェ・ダンス・・・。そして、モボ・モガの時代を迎えます。靴は生活に欠かせないものになっていました。
戦後、ファッションが身近なものになって、映画スターがはいた靴、雑誌で見た靴、デパートの売り場で見た靴、おしゃれを楽しむ時代になりました。洋装ということばは完全な死語になっておりまして、靴のない生活は考えられません。日本ではじめて始めて靴作りをはじめた西村勝三の功績をたたえて、墨田区向島にある銅像堀公園には、彼の銅像が建てられています。
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