|
|
|
10月9日(火)〜10月12日(金)
今週は、「築地今昔物語」と題してお送りししてまいります。
魚河岸の町、築地にスポットを当て、その過去と現在に思いを馳せる四日間です。
10月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
10月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「築地本願寺」をご紹介します。
ナンマンダ、ナンマンダ〜。
築地のユニークな建物…といえば、本願寺。古代インドを思わせる本堂は、一度見たら、ちょっと忘れられませんよね。以前の建物は、関東大震災で焼け落ちてしまったので、1934年(昭和9年)に現在我々が親しんでいる、あの伽藍が建設された、というわけです。もともとこの地に本願寺が移転してきたのは、1679年と申しますから、もう三百三十年も前のこと!それ以前は浅草・横山町にあったこのお寺ですが、1657年の明暦の大火、いわゆる「振袖火事」で焼失。すぐ建て直したいところでしたが、幕府の都市計画のため、元の場所での再建に、まったがかかってしまったのです。代替地として与えられたのが、八丁堀の目の前の海。まさか、海の上にお寺を建てる訳にも参りませんから、佃島に住む信者の皆さんが、エッサホイサと埋め立てに奔走。「地面を築いた」ということで、このあたりが「築地」と呼ばれることになったのです。火事から十八年のちに、ようやく埋め立てが完了、そして壮大な伽藍が完成しました。関係者の皆さん、さぞや嬉しかったことでしょう。現在の本堂の正面は、新大橋通りに向かっていますが、当時は、現在の築地市場の側が正面にあたり、いまの市場一帯は、門前町となっておりました。この、のどかな寺町が、現在のような市場の町へと変貌を遂げるきっかけとなったのが、先ほども話の出た関東大震災。
当時、晴海通りは、新大橋通りのところで行き止まりになっていたのですが、震災復興計画で、これを月島方面へと延長することになり、本願寺の広大な敷地は、大きな道路によって二分されることになったのです。門前にひしめいていた小さな寺も、そのほとんどが郊外へと移転することになりました。で、この後に入ってくることになったのが、魚河岸です。こちらもやはり、もともとは日本橋にあったのが、震災で大きな被害を受け、ここ築地へと引っ越して参ります。こうして、現在、我々が知っている築地の町の姿が、徐々に形作られて来た、というわけです。
本願寺の中には、いろいろな動物の彫刻があります。中でも目立つのは、インド風だけあって、やはり「ゾウ」。このほか牛や猿なども、そこかしこに見かけられます。もし、お寺の中に入る機会がありましたら、このあたり、注目してご覧になってはいかがでしょう?きっと、新たな発見があるに違いありません。
10月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「築地魚河岸」をご紹介します。
世の中で一番早く起きるのは、鶏…ということになっておりますが、いえいえ、築地・魚河岸の朝は、それよりも〜っと早い。セリに参加する仲卸の皆さんが下見にやってくるのは、だいたい午前三時ごろ。もちろんそれ以前に、肝心の魚そのものは、続々と築地に集まってくるわけでありまして、築地市場のホームページを見ると、一日の始まりは、前の日の午後五時ということになっております。お疲れさまです!市場に到着する魚たち 魚河岸が築地にやってきたのは、昨日もお話ししましたが、関東大震災がきっかけでした。江戸時代以来の栄華を誇った日本橋・室町の魚河岸は、震災によってすべて焼き尽くされてしまったのです。生き残った人々にとって切実なのは、食べ物です。震災後ほどなく、芝浦に仮設市場が作られましたが、交通の便が悪く、しかも狭い。もっといい場所はないか?…ということで、その年のうち、大正十二年の十二月に、東京市が海軍省から土地を借り受け、本日、私たちが放送を行っております、正にこの地で、魚河岸の新たな歴史がスタートいたしました。現在のような、近代的な市場が完成したのは、震災から十二年後の昭和十年のこと。建物が扇形に建てられている主な理由は、鉄道の引き込み線で貨物を直接市場に運び込むため、線路の形に合わせてあるからです。
東京は昭和二十年に入ると、連日、アメリカ軍の空襲に遭い、市街地のほとんどが焼き払われましたが、不思議なことに、ここ築地一帯は、ほぼ無事でした。無事だった理由は、アメリカのキリスト教関係者が建てた聖路加病院が近くにあったから…とも、終戦後のことを考えて食糧確保の上での市場の重要性を認識していたから…とも言われておりますが、いずれにせよ、東京の台所は無事、現在も、築地の路地裏、あちこちに、戦前からの風情ある建築物が残っているのを目にすることができます。
卸売市場は、平成二十四年、豊洲への移転が予定されています。魚河岸のなくなった築地は、そこから、また、新たな歴史を刻んでいくことになるのでしょう。
10月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「築地小劇場界隈」をご紹介します。
「おのおのがた、討ち入りでござる…」
この時間、この曲を使うのは一体何度目になるでしょうか、芥川也寸志作曲、「赤穂浪士」のテーマでございます。築地と赤穂浪士、どんな関係があるのかと申しますと、実は現在、聖路加看護大学があるあたりは、浅野内匠守の屋敷があった場所なのです。江戸城内で吉良上野介に切りかかった浅野内匠守は、最愛の夫人が待つこの屋敷に、二度と戻ることはなく、その日のうちに切腹。およそ九千坪あった広大な屋敷も、幕府に召し上げられることとなってしまいました。この有名な事件は、ほどなく芝居の重要な演目となり、現在に至るまで繰り返し、舞台で、映画で、そしてTVでも上演が繰り返されているのは、皆様ご存じの通りです。
さて、芝居…といえば、ここ築地は、演劇の歴史の上で、とても重要な場所であります。関東大震災の翌年、大正十三年六月、日本で初めての、新劇の常設劇場「築地小劇場」がオープン。場所は、地下鉄の築地駅ほど近く、築地二丁目十一番地。建物は空襲で焼け落ちてしまい、現在は、その場所に、記念のレリーフが設置されています。劇場を作ったのは、演出家の土方与志と、劇作家の小山内薫の二人。土方は、関東大震災当時、ドイツに留学中でしたが、震災の知らせを聞いて、急きょ、帰国。震災復興の途上で、建築規制が一時緩められたのを機に、それまでは難しかった劇場の建設を進めてしまおうと、途中で切り上げた留学用の資金を注ぎ込み、突貫工事で、この「築地小劇場」を造り上げてしまったのです。考えてみると、築地本願寺のインド風の建物も、卸売市場の扇形の建物も、そしてここ築地小劇場も、すべて震災がきっかけで出来上がっている。築地の町と、関東大震災との深い因縁を感じてしまいますね。築地小劇場は、建物の名前であり、そしてここを拠点にした劇団の名前でもありました。この劇団は、後に日本の新劇を担う、千田是也、滝沢修などの才能を輩出。あの名女優、杉村春子も、キャリアの第一歩を踏み出したのは、ここ、築地小劇場でしたが、昭和三年、小山内薫が急死した後、劇団は分裂していきました。
築地小劇場でもう一つ、ご紹介しておかなければならないのは、 作家・小林多喜二とのかかわりです。一九三三年(昭和八年)、二月二十日、プロレタリア文学の第一人者だった多喜二は、治安維持法違反容疑で逮捕され、築地警察での拷問により死亡。そして、三月十五日に、築地小劇場で、労働者や農民による葬儀が執り行われました。暗い時代の足音が、少しずつ、近づいて来ていました。
10月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「何かが始まる街・築地」をご紹介します。
時は幕末。日米修好通商条約の締結により、江戸も外国人を受け入れる必要に迫られ、居留地を設けることになりました。そこで選ばれたのが、築地・明石町だったのです。ここには外国人専用の「築地ホテル」も建てられました。明治維新直前の慶応三年(1867年)に工事が始まり、大政奉還、明治維新を迎えた翌・明治元年(1868年)に完成、営業が始まりました。設計はアメリカ人ブリジェンス、施工は清水組…現在の清水建設が担当しました。和洋折衷形式、三階建ての建物は人目を引き、当時の錦絵にもしばしば描かれていますが、残念ながら建設後わずか4年で、大火事のため焼け落ちてしまいました。
築地ホテルは短命に終わりましたが、界隈には多くの外国人宣教師らが移り住んで来て、さまざまな新しい文化がこの地で産声を上げることになります。たとえば、立教大学。現在は立教と言えば池袋を連想しますが、発祥の地は、実は築地なんですね。創始者は、アメリカ聖公会から伝道のため来日していたウィリアムズ主教。幕末から、弾圧の中、キリスト教の布教を続けていたウィリアムズさんでしたが、明治維新後はさらに積極的に活動し、その一環として、居留地で聖書と英語を教える私塾を開設した。この私塾が、立教大学の始まりなのです。
さて、立教大学を作った「聖公会」。これは英国国教会の流れを汲むキリスト教の一派ですが、この「聖公会」、築地に、さらに大きな足跡を残します。それは「聖路加国際病院」。1900年(明治三十三年)、築地外国人居留地にやってきた聖公会の宣教師、トライスラーさんと言う方が開いた診療所が、始まりでした。診療所は1933年(昭和8年)には東洋一のスケールを誇る大病院となり、1936年(昭和11年)には、財団法人「聖路加国際メディカルセンター」へと発展していきました。
築地は聖路加があったから、空襲を受けなかった…と言われますが、これはかなり信憑性が高いようです。マッカーサー元帥も、聖公会の熱心な信者でした。
1938年(昭和13年)、一世を風靡したメロドラマ「愛染かつら」。川口松太郎の小説は映画化され、当時人気絶頂の上原謙…加山雄三さんのお父さんですね、この上原さんと、田中絹代さんが主演。いま聞こえている主題歌「旅の夜風」も大ヒットしました、上原さんは病院の御曹司、田中さんはバツイチの看護婦という設定でしたが、この映画で採用されたナース服が、当時最先端を行っていた、聖路加病院の制服を元にしたデザインだったんだそうです。
現在の築地のランドマークといえば、「聖路加タワー」。47階のスカイレストランからは、江戸からの歴史を秘めた魚市場、本願寺、勝鬨橋…築地の街を一望することが出来ます。皆様も一度、お出かけになってみては、いかがでしょうか。
|
|
|
|