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9月25日(火)〜9月28日(金)
今週は、「水の都 江戸・東京」と題してお送りししてまいります。
江戸は世界有数の人口を持った大都市でしたが、イタリアのヴェニスや大阪と並ぶ、水の都でもありました。
9月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「水の都誕生」をご紹介します。
またまた、この人物が登場します。徳川家康。1590年に、江戸への移転を命じられた家康は、早速、江戸の街の改造に取り掛かったんです。意外なのは、江戸城づくりと並行して、運河建設工事も進めたことです。400年前、当時の海岸線近くに作られた運河、江東区の小名木川です。
江戸と、下総の行徳、現在の千葉県・行徳を結ぶ水路、当時は有名な塩の産地であった行徳の塩を運ぶための道として最優先で作りあげました。この運河、江戸が大都市になるにつれ、塩ばかりか、野菜、酒、米などが大量に運ばれるのに使われ、大動脈になりました。天下人になる以前に、大切な物資の輸送路を確保していた徳川家康、只者ではありません。
さらに、小名木川をはじめとして、江戸にたくさん作られた運河や水路、実は、物や人を運ぶだけでなく、火事が燃え広がるのを防いだり、敵の進入を防ぐ堀の役割も期待されていた・・といいます。まさに、一石二鳥ならぬ一石三鳥でございました。当然ながら、船が自由に通行できたわけではありません。小名木川の場合、中川に合流する場所に、陸地の関所に相当する船番所、船の関所が作られていました。
この運河、食料品が優先されましたが、例外もありました。その代表が・・・。お馴染みの八代将軍・徳川吉宗でありました。鷹狩りや鹿狩りを好んだ将軍・吉宗、時には江戸城から船を仕立て、小名木川を通って猟場の下総、現在の千葉県に向かったそうでございます。当時の番所の覚書、いわばマニュアルが残っておりまして、上様がお通りになる場合の心得が、詳細に書き残されてます。女性の通行は禁止、大量の物資の持ち込みは厳重に検査する、など厳しい番所でしたが、遊山の客には甘かったようで、こんな川柳がございます。「中川は 同じ挨拶 して通し」「通ります」「通〜れ」、顔見知りの船頭、無害な客の場合はそうなったことでしょう。
現在、昔の船番所のあった場所に、江東区立の中川船番所資料館が建っております。番所の建物が再現されているほか、小名木川をはじめ、江戸・東京の水運の歴史の資料が展示されています。最寄り駅は、都営新宿線の東大島駅。月曜日は休館です。
9月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「なぜ水運なの?」をご紹介します。
江戸時代、道路を使って荷物を運ぶのは、大変に不便でした。道路の状況が悪いのに加え、運ぶ手段といえば、馬か、せいぜいが大八車でした。米俵の場合、馬なら2表、大八車で、20俵ほどが限界でした。ところが、隅田川や運河を使えば、200俵ほどは軽々と積め、大きな船ならば500俵ほどは運搬できました。当然ですが、運賃は安く、早く着く・・・いいことずくめでした。
荷物だけではなく、隅田川に架かる橋が少なかった時代、水路から川へ、そして水路へと、実に便利な乗り物だったんです。18世紀のはじめ、元禄の頃から開けた深川などは、縦横に水路が通じている地区でした。
江戸時代には、川船、淡水で使われる船ですね、川船だけで27種類もあったんです。用途に応じて使い分けていました。例えば、遊びに行くのに重宝された当時の快速艇、猪牙船、まさにプレジャー・ボートでございまして、スピードが出る分、安定が悪く、揺れる揺れる。船宿が密集しておりました柳橋あたりから、華の吉原の手前、山谷堀まで行くと、一人150文ほど、現在の価値で3000円。もっとも、これは運賃だけ。早く着くために、船頭の腕を十分に引き出そうとすれば、それなりの酒手、チップが必要だったのは言うまでもありません。
吉原通いばかりではなく、目的に応じ、人数に応じて、いろいろな船を頼むことが出来ました。小は猪牙船から、大は花見や川遊びに使う屋根舟まで、江戸には5000艘とも、7000艘ともいわれる船が動いていたんです。
9月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「水の都 江戸の面影」をご紹介します。
時は移って、明治時代。新しい文明の象徴が登場します。それは・・・。
新しい乗り物、蒸気機関車でした。大量に運べ、早い。船の手ごわい競争相手でした。もっとも、長い歴史を持つ船の便利さは、簡単に消え去ったのではありません。第一回でご紹介した小名木川の場合、関東大震災の直前、1921年(大正10)に、1日の通行量が、およそ900艘という大変な賑わいを見せていたのです。
しかし、震災で大量に発生した瓦礫の処理で埋め立てられ、20年ほど後の太平洋戦争末期の空襲による瓦礫の処理で埋め立てが相次ぐなど、東京の堀や運河は次々に姿を消していきました。そして、戦後の高度成長期になると、自動車が増え、道路が整備されてくると、こんな声が高くなります。「時代遅れの運河は埋め立てろ!」「埋め立てて、新しい道路にしろ」高速道路やビルの建設のために、都心部の川は埋められ、次々に姿を消していきました。
さて、以前は文字通りの「水の都」で、現在では、ほとんど面影が残っていない場所が東京にあるんです。どこでしょう? それは・・・。銀座。昭和30年頃までの銀座は、出るにも入るにも、橋を渡らなければならない土地だったんですね。中央区立京橋図書館の菅原健二さんです。今では水を見ることが出来ない銀座なんですが、昔は、水に囲まれた街だったんですね。銀座といえば、「銀ブラ」という言葉がありますが、ブラブラ歩きをすると川面からの心地よい風を感じられたことでしょう。
それにしても、デパートや有名ブランドの店が建ち並ぶ中央通りと交通の大動脈であります昭和通りの間を、幅30メートルの川が流れていたとは・・・驚きでございます。
9月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「水の都 再び」をご紹介します。
江戸時代の初めから、明治・大正・昭和と、それぞれの時代に日本を訪れた外国人が口を揃えてほめたたえていた「水の都」江戸そして東京。自然を失った弊害が指摘されるようになると、東京の自治体でも、失われた水を取り戻す動きが徐々に広がってきました。汚れるままに放置されていたドブ川を整備して、親水公園、水に親しむ公園として再生したり、隅田川沿いに遊歩道を作ったり、そんな動きが定着してきたんです。
ウォーターフロント、という言葉が定着したのはごく最近ですが、400年以上も前に、徳川幕府が実行していたことなんです。実は、江戸や東京を訪れた外国人がイタリアのヴェニスと同じだ、とほめたたえた景色、「水の都」の大部分は、長い時間をかけて人の手で作られたものだったんですね。
最盛期の江戸には、およそ500の橋があったと言われます。現在は川が埋められたり、暗渠、ふたをされたりして激減していますが、街の名前や交差点に名前を残している例は多いんですね。なかでも、ヴェニスに負けないほどに水路が張り巡らされていたのが深川です。池波正太郎の「鬼平犯科帳」も、もし船を使う場面がないとするとだいぶ変わった内容になっていたのではないでしょうか?江戸の時代は、水をうまく利用することで、繁栄していたんです。ところが、東京になると、南に広がる海と、400年前からあった堀や水路を埋め立てることで成長してきたんです。
この夏は異常な暑さ・残暑が続きましたが、昔のような「水の都」ならば、もう少し凌ぎ易かったのではないか・・・取材で江東区の小名木川の遊歩道を歩きながら、そう感じました。水をとりもどす動き、ぜひ、続けてほしいほのです。
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