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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月3日(月)〜9月7日(金)
今週のテーマは「千代田区麹町」。
今週は、江戸時代から名高い地名でございます麹町を1週間にわたって取り上げてまいります。

9月3日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「麹町の由来」をご紹介します。

現在では超高級住宅地として知られる麹町でございますが、果たしてどのくらい前から人が住んでいたのか、と申しますとこれが古いんです。現在でも続けられているこの地域の発掘調査でも、縄文・弥生・古墳と各時代の遺跡が次々に発見されておりまして、このあたりに大昔から人が住んでいたことがわかります。
「麹町」の地名の由来については、いろいろな説がありますが、どうやら、酒や酢、味噌や醤油を作るのに欠かせない麹づくりが行われていたことは間違いないようです。昨年も、麹室の跡が発見されております。この場所が大きく変わる切っ掛けは・・・。
天下取りを果たし、1603年に征夷大将軍に任ぜられた徳川家康。広い敷地に江戸城を作ったものの、ふと考えたんですね。
「この城は、守るのには向いていない!」
江戸城の東側と南側は平地で、堀を作り、隅田川という天然の障害があって安心なんですが、北と西には高台が迫っていて、攻められれば、ひとたまりもない・・というわけです。徳川家康、息子の秀忠、孫の家康の三代にわたって大土木工事が続けられたんです。
城の西側一帯にありましたお寺や神社は、立ち退きを命じられました。数十年のうちに、江戸城は家康も満足できる堅固な要塞に変わっていきました。この大工事によって、それまで小さな商店や職人が住んでいた町は、一躍江戸有数の商店が軒を連ねるようになるんです。
なぜ、短時間で、そのような賑わいぶりを示したのか?それは、明日のこの時間に・・・。

9月4日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「麹町を支えた番町」をご紹介します。
昨日は、ごく普通の商業地だった麹町が大発展を遂げた、それは何故か?で終わっておりました。
実に簡単なことでございまして、お得意さんが増えたんですね。
江戸城防備のために大工事が行われ、守りに弱いとされた江戸城の西の一帯に、大勢の武士が移り住みました。旗本、いわゆるエリートの中でも、中級から高級の旗本がこの地区に屋敷を与えられたんです。「旗本八万騎」ということばがありますが、実は、5000人ほどしかいなかったようでございます。しかし、高級旗本ともなりますと、いざ合戦となれば、将軍を護ったり、敵を迎え撃つ精鋭部隊を指揮する立場の者が多かったのですね。家族も家来も連れた旗本たちが大勢移り住んだのですから、街が賑わうのは当然でございます。食料品をはじめとして、衣類から日用のこまごましたものまで、膨大な需要を一手に賄ったのが麹町であった、というわけです。
麹町が町人地であったのに対し、新しい武士の街は、戦を受け持つのが役目。これを番方と呼んでいたので、番方が住む街、番町と名付けられました。番町の範囲ですが、これが実に広かったんですね。東西十六町、南北七八町、と江戸時代の記録にありますように、現在の九段、飯田橋、富士見のあたりまでを含む広い地域を、番町と呼んでおりました。ここに500〜600軒の旗本屋敷があって、街のほとんどが、旗本屋敷で占められていました。
いってみれば中堅幹部の社宅街、なのですが、そこは江戸時代のこと、敷地の広いことは驚かされます。ほぼ平均的な300石取りの旗本は、500坪、5000石取りの高級旗本ともなりますと、1800坪という広い屋敷を構えておりました。
広い旗本屋敷が建ち並ぶ番町、江戸とは思えぬほど静かな佇まいの屋敷街であったそうですが、不便なこともありました。そして、それを解決するために生み出されたものがあったんです。番町生まれの「あるもの」とは、何なのでしょう。この続きは、明日の東京歴史探訪で・・・。

9月5日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「番町から生まれた江戸切絵図」をご紹介します。

昨日の放送、番町から生まれ江戸中に広まったものは? の答え、実は、番組でもたびたびご紹介しております、「江戸切絵図」なんです。
番町に限らず、江戸の街には、案内図など一切ありません。そればかりか、大名や旗本の屋敷には表札などなかったんです。映画やテレビでは、「勘定奉行 野村邦丸」などと墨で書いた大きな表札が映りますが、あれは全部ウソ・・・。さすがに、隣り近所に誰が住んでいるかは知っていたでしょうが、とてつもなく広い番町の隅々まで知っているはずがありませんよね。 「番町にいて番町知らず」という言葉があったほどです。
番町を訪ねるお客様もいろいろです。お馴染みの「伊勢屋、おぬしもなかなかの悪よのう〜」賄賂を届ける人もいれば、仕事の打ち合わせや挨拶に行く人も多かったんです。
訪ねる人にとっては、番町は不便な町でした。町人地・麹町の商店は、道を尋ねる客が多かったそうです。来る日も来る日も、道案内ばかり。迷惑だったことでしょう。
でも、さすがは商人、そこから商売のヒントを掴む人もいました。
(これは、地図を作ったら、案外売れるかもしれないな)
こうして、幕末も近い頃に、江戸切絵図の元祖である番町切絵図が発売されました(江戸切絵図のうち「番町」あります)色分けしたり、地形の特徴も加えたり・・・そんなアイデア合戦もあって、大ヒット商品になりました。こうして、次々に江戸全体の切絵図が作られていったんですね。

9月6日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「文化の薫りのする街へ」をご紹介します。
旗本屋敷が集まっていた番町ですが、番方、いわゆる軍人ばかりが住んでいたわけではありませんでした。幕府に仕える学者や医者は、役目柄、江戸城の近くに住む必要があったため、番町にも屋敷を構えていたんですね。既に触れておりますように、広い敷地の旗本屋敷でございます。武蔵野の趣きが残され、大都市江戸の真ん中とは思えぬほどに木々の多い静かな環境の中に、医術や学問の塾も設けられ、文化の薫りも漂う場所になっていきました。
時代は下って、1868年(明治元年)。徳川幕府は倒れ、明治時代になります。旗本たちが引き払ったあと、番町一帯の広い屋敷は、政府の施設に使われたり、高級官僚の住まいとして使われるようになりました。また、女子校を中心に、私立の学校が続けて作られ、お隣の神田と共に、有名な学校が集中することになったのです。教師や文化人が住むようになるのは自然の流れでございます。その中でも有名なのは、「荒城の月」「花」などで知られる作曲家・滝廉太郎。およそ8年間麹町に住んでいましたが、代表作のほとんどは、この時代につくられています。
作曲家だけではなく、文豪・幸田露伴が「麹町は文人町だね」と言ったように、有名な作家や文化人が住んだ町でした。泉鏡花・島崎藤村・武者小路実篤・山田耕作など、住居跡が多いんです。
近代国家の建設を急いでいた明治政府にとって、広い敷地の旗本屋敷が空き家になって残されていたのは、大助かりでした。次々に、学校や、各国の大使館、そして政府の施設が作られました。試しに、学校や大使館、ホテルなどのある場所を、江戸時代の地図・ ・・江戸切絵図でございますね・・・地図と重ねあわせてみますと、これが昔の大きな旗本屋敷と重なるんですね。
明治政府が安定してまいりますと、麹町は、東京でも有数の、学校の多い屋敷町として知られ、現在に至っているのでございます。

9月7日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「麹町を歩く」をご紹介します。
古代から現在まで、長い歴史を物語る遺跡や史跡が多いことは、麹町の特長なんですが、実は、この地域はもうひとつ、歴史の街歩きに便利なことがあります。それは、江戸時代そのまま、と言っていいほどに昔の地形が残されていることなんです。
江戸切絵図のうち、武家地が記された「東都番町大絵図」と町人地が記された「麹町永田町外桜田絵図」を持っていれば、迷うことなく、現代の麹町歩きを楽しむことが出来るほどです。
現在、千代田区は、地名や番地の表示が整備されていますし、遺跡や旧跡の説明板も整っています。江戸時代の有名な事件や小説に登場する旗本の屋敷跡、お馴染みの怪談「番町皿屋敷」をはじめとする多くの史跡、そして数多い坂など、見どころが多いんです。
街歩きの途中に、ぜひ立ち寄っていただきたい場所がございます。千代田区立四番町歴史民俗資料館です。麹町地区から発掘された品々をはじめ、この街に関するさまざまな資料が展示されているんです。学芸員の後藤宏樹さんに、麹町の街歩きの魅力を伺ってみました。
四番町歴史民俗資料館の最寄り駅、JRと地下鉄の市ヶ谷駅です。記録的な猛暑も終わり、本格的な秋を迎えようとしています。ご家族やお友達と、街歩きを楽しんでみては如何ですか?

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