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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
8月13日(月)〜8月17日(金)
今週のテーマは「巣鴨の夏・2007」。
第二次世界大戦が終わってから、早くも六十二年の月日が流れようとしている、今年の夏。
番組では巣鴨・地蔵通りへとマイクを持って出かけ、そこに集う戦争の生き証人の皆さんに、当時のお話を伺って参りました。

8月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「厳しかった食生活」をご紹介します。

我々が子供の頃は、回りの大人はみな戦争体験者、ごく身近にそんな話を聞いて育ったものでした。太平洋戦争どころか、お年寄りの中には、日清、日露の時代を経験された方もいらっしゃいましたが、気がついてみると、そうした人々は少しずつ、この世を去っていき、日常的に戦時中の話を聞くことも、ほとんどなくなってしまったように思います。或る意味、しあわせな事かもしれません。ただ、子供の頃、両親やおじいちゃん、おばあちゃんに、さんざん戦争の話を聞かされた我々世代としては、なんとなく、それではいけないのではないか…そんな思いがあるのも事実です。
そこで、今週、この番組では、まだまだそんな生き証人たちが数多く集っている町=巣鴨へと出かけ、いくつかの証言を集めて参りました。
昭和時代の前半、20年は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。日本は明治時代に日清戦争で中国、当時の清国と、そして日露戦争でロシアと戦って大陸に進出していましたが、大正、昭和の始め頃を通じて、いくつもの小さな戦闘があり、多くの日本、朝鮮、そして中国の人々が犠牲となりました。1937年(昭和12年)になると中国との戦争が本格化、さらに4年後にはアメリカを中心とする連合国との戦争、「太平洋戦争」が始まります。この頃は、既にヨーロッパでも大規模な戦争が始まっていて、世界中が正に戦争一色、死者は数千万人に及びました。日本は中国やアジア各地、そして現在リゾート地となっているグアムやサイパンといった島々を含む太平洋各地で戦い、そして今から67年前、1945年(昭和20年)、8月15日に敗戦。長い長い戦争の日々が終わりました。実際に戦った人々、国内にいて空襲など攻撃を受けた人々、すべて合せて300万もの人命が失われたと言われます。戦争はとてつもなく物資を消耗しますから、当然のように食料も足りなくなります。米や大豆、味噌、醤油などはすべて国の統制のもとに置かれ、一人当たりの買える量が制限される「配給」という制度が導入されました。しかし、戦争が激しくなると共に、配給される食べ物や生活必需品の量はどんどん減り、国民のほとんどが栄養失調に陥っていったのです。

8月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「生存率15%」をご紹介します。

今では「おばあちゃんの原宿」と呼ばれ、月に3回、「4」の日の縁日はもちろん、それ以外の日でも、天気さえよければ、大勢のお年寄りで賑わう、とげ抜き地蔵・高岩寺の門前町。どこからどう見ても、平和の象徴のようなこの巣鴨も、昭和二十年には空襲を受け、焼け野原になっています。東京が本格的な空襲を受け始めたのは、昭和19年の11月。この時点ではまだ、硫黄島の日本軍が、フィリピンから飛んで来るアメリカの飛行機と戦って被害を与えていました。しかし、昭和20年3月、クリント・イーストウッド監督の映画でも描かれたように、硫黄島がアメリカの手に落ちると、アメリカの飛行機は抵抗を受けず日本に到達できるようになり、3月10日に、最初の「東京大空襲」。死者およそ10万人を数え、下町が焼け野原となったこの空襲に続き、4月13日金曜、今度は豊島区、文京区、新宿区などが狙われます。「城北大空襲」とも呼ばれるこの日の空襲で、豊島区は実にその面積の4分の3が焼き尽くされ、死者はおよそ2500人。巣鴨の駅からとげ抜き地蔵、庚申塚まで、本当に何もなくなってしまった!
この後も空襲は毎日のように続いて行われました。女性であろうと、子供であろうと、東京に住んでいれば、毎日が文字通りのサバイバル。
そんな気が遠くなるような生活が、10ヶ月近くも続いたのです。首都・東京がこんな有様ですから、もちろん、戦地でも日本軍は悲惨な状態でした。爆薬を積んだ飛行機ごと、敵の船に体当たりする「特攻」。また陸上でも、同じように、爆弾を抱えて洗車に体当たりし、最後の抵抗を試みる、捨て身の戦いが毎日行われていました。4月13日、今度は巣鴨、池袋など城北地区が狙われます。

8月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「女学生勤労奉仕」をご紹介します。

きょう、8月15日は「終戦記念日」です。
まもなく、11時45分から、日本武道館では「全国戦没者追悼式」が行われ、正午になると一分間の黙祷。甲子園球場でもまた、サイレンが鳴り響き、球児たちも黙祷を捧げる。おなじみの光景ですね。62年前の今頃、あと1時間も経たないうちに戦争が終わるとも知らず、命を落としていった人々がいる、そう思うと、何ともやりきれない気持ちになります。長く続いた戦争の間、戦場で戦う兵士たちだけでなく、本来なら学問を身につけ、将来の日本を支える立場の学生たちも、例外なく戦争に巻き込まれていきました。年齢が上の者は「学徒出陣」…戦場へと向かいます。またそこまでの年齢に達していない学生や女学生たちは、「勤労奉仕」あるいは「勤労動員」として、教室を出て、働き手が戦場に駆り出されてしまった工場や、農家などで働くことになったのです。食べ物も不自由な中での肉体労働、いくらでも食べられる年頃の学生たちにとって、これほど辛いことはなかったでしょう。今日は、そんな「勤労奉仕」の世代…昭和20年当時、国民学校高等科2年…といいますから、現在の中学2年生、13歳か14歳だったという、岩手県生まれの女性にお話を伺いました。
あの有名な沖縄の「ひめゆり部隊」も、今お話を伺った方と同じ、女学生たちでした。「ひめゆり部隊」は、県立第一高等女学校と、師範学校の女子部の生徒たちが、勤労奉仕のために陸軍病院に配属され、看護などの作業に従事していたものです。やがて、アメリカ軍が沖縄に上陸し、地上戦が始まると、軍と行動を共にすることになり、最後は激戦の中で解散、教師、学生、合せて240人のうち、実に136名が命を落とすことになりました。

8月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
第二次世界大戦で日本が戦った相手は、最初は中国。やがて、アメリカやイギリスなどの連合国が加わります。連合国には、ヨーロッパ戦線では当時のソ連も参加していましたが、日本と戦うことはありませんでした。これは1941年(昭和16年)に、「日ソ中立条約」が結ばれていたためです。ソ連はヨーロッパでの戦いに集中したい。また、日本は中国やアメリカとの戦いで手一杯。お互い、この上、戦う相手が増えてはたまらない…そんな思惑があったのでしょうが、それにしても中国の向こう側は、もう、ソ連。日本にしても、ソ連にしても、この条約が、とても危うい存在であることは認識していました。日本軍は、将来ソ連とも戦うことがあることを見越して、そのための訓練なども着々と行っていたのです。そして、そんな訓練に参加されていたのが、きょう、お話を伺う、大正十一年生まれの男性の方です。
結局、ソ連は日本の敗戦がほぼ確定した、8月9日になってこの「中立条約」を破棄し、日本が占領していた中国東北部や樺太へ、どっと攻め込んで来ました。このころ、もうヨーロッパでの戦争は終わっており、勢力をシベリア、アジアへと向けても支障がなかったのです。そして数多くの日本軍兵士たちが捕虜となり、シベリアに送られ、強制収容所で過酷な労働に従事させられ、多くの人々が命を落とすことになったのです。

8月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
我々が子供の頃は、回りの大人はみな戦争体験者、ごく身近にそんな話を聞いて育ったものでした。太平洋戦争どころか、お年寄りの中には、日清、日露の時代を経験された方もいらっしゃいましたが、気がついてみると、そうした人々は少しずつ、この世を去っていき、日常的に戦時中の話を聞くことも、ほとんどなくなってしまったように思います。或る意味、しあわせな事かもしれません。ただ、子供の頃、両親やおじいちゃん、おばあちゃんに、さんざん戦争の話を聞かされた我々世代としては、なんとなく、それではいけないのではないか…そんな思いがあるのも事実です。
そこで、今週、この番組では、まだまだそんな生き証人たちが数多く集っている町=巣鴨へと出かけ、いくつかの証言を集めて参りました。 昭和時代の前半、20年は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。日本は明治時代に日清戦争で中国、当時の清国と、そして日露戦争でロシアと戦って大陸に進出していましたが、大正、昭和の始め頃を通じて、いくつもの小さな戦闘があり、多くの日本、朝鮮、そして中国の人々が犠牲となりました。1937年(昭和12年)になると中国との戦争が本格化、さらに四年後にはアメリカを中心とする連合国との戦争、「太平洋戦争」が始まります。この頃は、既にヨーロッパでも大規模な戦争が始まっていて、世界中が正に戦争一色、死者は数千万人に及びました。日本は中国やアジア各地、そして現在リゾート地となっているグアムやサイパンといった島々を含む太平洋各地で戦い、そして今から67年前、1945年(昭和20年)、8月15日に敗戦。長い長い戦争の日々が終わりました。実際に戦った人々、国内にいて空襲など攻撃を受けた人々、すべて合せて300万もの人命が失われたと言われます。
戦争はとてつもなく物資を消耗しますから、当然のように食料も足りなくなります。米や大豆、味噌、醤油などはすべて国の統制のもとに置かれ、一人当たりの買える量が制限される「配給」という制度が導入されました。しかし、戦争が激しくなると共に、配給される食べ物や生活必需品の量はどんどん減り、国民のほとんどが栄養失調に陥っていったのです。

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