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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月9日(月)〜7月13日(金)
今週のテーマは「東京島めぐり」。
日本は世界有数の「島大国」でして、6,800あまりの島がございます。 では、東京は? と申しますと、219、だそうです。伊豆諸島や小笠原諸島が思い浮かびますね。でも、この数字に入らない島も多いんです。
今週は、「東京島めぐり」と題して、有名・無名を問わずエピソード豊富な「島」をご紹介してまいります。

7月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「妙見島」をご紹介します。

江戸川区と千葉県の境を流れる江戸川に、島があります。妙見島です。
南北700メートル、東西は広いところで200メートル、小さな島なんです。地下鉄東西線から、よ〜く見えます。でも、行ったことはない・・・そんな方が多いのではないでしょうか。実は、この島、「動く島」として有名だったんです。動く島・・・といえば
はい、あの「ひょっこりひょうたん島」よりも前に世に知られていました。手元に、明治時代の地図、これは参謀本部測量部というところが作ったものですが、これと昭和40年代の地図がございます。見比べてみると、確かに、100メートルほど、下流に移動しております。
江戸川の中洲の妙見島、昔は大雨が降ると上流の部分が削り取られて、その土が島の下流に溜まっていく、長い時間をかけて、島が移動していった・・・ということなのでございます。
この島の歴史は古く、南北朝時代の古文書に「妙見島」の名がみられます。また、滝沢馬琴の長編小説「南総里見八犬伝」から、永井荷風・曽野綾子らの作品にも登場します。明治時代の末あたりから、この島に工場が出来始め、食品・造船などの工場が増えました。
現在の妙見島。数は減りましたが、いくつかの工場が操業しておりますが、島の中ほどに、都内でも有数のマリーナがあるんです。以前はこの場所で造船所を経営されていたのですが、なぜマリーナに切り替えたのか? オーナーの浅見守男さんにお話しを伺ってみました。
造船所時代に使われていたクレーン、今もボートの格納作業に活躍しているんですよ。会員制マリンクラブの老舗として27年、この間にここで免許を取った人が5万人以上、ボートの普及に大きな役割を果たしてきたんです。
そうそう、「動く島」といわれた妙見島ですが、護岸工事が完成、現在では動くことはございません。
最寄り駅、徒歩ならば、東京メトロ東西線の浦安駅。バス利用ならば、東西線・葛西駅が便利です。

7月10日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「弁天島」をご紹介します。

今日ご紹介する島は、台東区上野にございます。「上野に島なんかあったかな?」ですって? ありますとも。不忍池の中の島、あれが弁天島です。立派な島でございます。不忍池は、海であった名残なんだそうですね。大昔は、関東平野の奥のほうまで海だったんです。それが、次第に陸地になっていって、現在の東京下町あたりには、大きな池や湿地帯があったそうなんです。
大きく変わる切っ掛けは、この人。
幕府を開いた徳川家康。その家康が意見を聞き入れた僧・天海の提案が実行されたんです。京都の朝廷に太閤するために、上野の山を、京都の比叡山に見立て、不忍池を琵琶湖に見立てたんですね。ところが・・・島がない。琵琶湖の名所として、また、信仰の場として名高い竹生島に見合う島がなかったんですね。ないものは作ろう・・・というわけで、大名に命じて中之島、現在の弁天島を築かせました。弁天島は、人工の島なんです。
東の比叡山、東叡山寛永寺が出来たのは1625年(寛永2)のことでした。はじめのうちは、舟で弁天島に渡っていたんですが、40年ほどに石の橋が架けられ、便利になりました。江戸時代の後半になると、四季おりおりに楽しめる名所になりました。夏場では、江戸で一番の蓮池として知られ、料理屋や茶店からハスの花を楽しむ客で賑わい、水辺の風景が納涼客に人気でした。錦絵に描かれることが多く、なかでも、初代の広重は繰り返し繰り返し上野の風景を作品にしています。
江戸から明治に移ると、広かった不忍池弁天島を埋め立てて競馬場を作ったり、大小さまざまな博覧会が池の周囲でひらかれるようになりました。また、太平洋戦争中は、食料増産の一環として、池は水田になっていたんです。そして、戦後の混乱期には、池そのものを埋め立ててしまおうという動きもありました。ここに野球場を作ろうというプラン、地元の猛反対で中止になった・・・という話しが残されております。
  徳川幕府の威厳を示すために作られた弁天島、いまでは不忍池の眺めに欠かせないものになっております。不忍池のハス、江戸時代と同様、色とりどりの花で楽しませてくれています。現在は咲き始めで、どうやら、見頃は中旬から下旬にかけてのようです。相変わらずたくさんの人が訪れている弁天島、立派な東京の「島」なんです。

7月11日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「越中島」をご紹介します。

日本全国にある、およそ6800の島以外の「島」、江戸の街の繁栄によって生まれ、さらに発展したために消えた島、それが越中島なんです。
江戸の街は、もともと狭い地域で、それ以上に発展するためには、丘を切り崩す、海を埋め立てるか、のどちらかでした。
神田山を切り崩し、余った土を使った埋め立てによって出来たのが、現在の銀座や京橋でございますね。将軍のお膝元として急成長した江戸の街ですから、不要なものを出てきます。侍も町人も、勝手に不用品を処分していましたから、見た目にも汚く、不衛生でもありました。そこで、幕府が出来てから50年ほどした時に、やたらにゴミを捨てることが禁止されました。計画的なゴミ処理場第1号として選ばれたのが、隅田川の最も下流の左手、左岸の島でした。そこは、もともとは隅田川の下流の中洲で、江戸時代の初期に榊原越中守という大名の別邸があった場所だったんです。その大名の名前から、今日まで残る「越中島」という地名が生まれたんです。江戸市中の不用品だけでなく、新しく土地を作り出す工事は続けられました。島だった場所は、たちまち地続きになり、やがて元禄の頃に永代橋が架けられると江戸の発展が広がって、江戸市中に飲み込まれていったのです。
時代は下って、幕末。ペリーが浦賀に上陸し、外国との力の差を見せ付けられた幕府は、軍隊を訓練するための場所を探し、越中島に調練場を作りました。明治になってからは「練兵場」と改められ、その名残として「練兵橋」という橋の名で残っています。しばらく練兵場として使われていましたが、やがて、新しい学校が置かれることになりました。現在の東京海洋大学の前身の学校が置かれ、たくさんの海の男たちを育ててきたことは皆様、ご存知の通りでございます。
史跡の多い江東区越中島の最寄り駅は、JR京葉線・越中島駅と、東京メトロ東西線・門前仲町駅です。

7月12日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「城南島」をご紹介します。

「城南島? どこにあるの?」
はい、大田区にございます。あることで、とても有名な場所なんです。それは・・・。
羽田空港に着陸する飛行機が、よーく見えるんです。飛行機を写すカメラマンにとっては、こんな良い場所は他にはないでしょう。およそ1分半から2分間隔で、次から次と飛行機が着陸します。
羽田空港の離発着回数は、1日およそ○○回。近くで見る着陸の光景は迫力満点です。海に眼を向けると、ここにも楽しめる景色が見られます。タンカー、コンテナ船、クルーザーなど、大小さまざまな船が通るんです。ここに来るときは、ぜひ、双眼鏡をお持ちください。
さて、島の歴史について触れましょう。高度成長の時代、工業団地を作るため、昭和島・京浜島などの人工島が、次々に作られました。最初のうち、これらの島ではちょっとした問題がありました。それは・・・その名残りで、現在も、夜21時から朝6時まで、関係者以外は立ち入り禁止になっているんです。
城南島にも工業団地がありますが、この島には立派な海浜公園があるんです。東京港が整備した「城南島海浜公園」です。開園から16年を迎えたところで、なかでも、5年前に完成した人工砂浜は、楽しめます。およそ450メートルの長さがある砂浜は家族連れに人気ですし、砂浜の両端は岩場が作られています。ただし、遊泳と釣りは禁止されています。
よく整備された公園には、キャンプ場があり、バーベキューを楽しむことが出来るんです。迫ってきた夏休みですが、7月の予約は満員。でも、8月の平日の利用ならば、取れる日もあるそうです。昨年の来園者は、およそ37万人。週末には、およそ280台収容できる広い駐車場が一杯になるほどの人気なんです。
さまざまに楽しめる城南島へは、本数が少ないんですが、京浜急行大森海岸駅やJR大森駅から、バスが出ています。海浜公園は、「城南島四丁目」の停留所から徒歩3分です。

7月13日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「佃島」をご紹介します。

江戸から一番近い島。江戸とは目と鼻の先にある小さな島「佃島」は、江戸市中とは全く違った感じのする場所でした。浅草や両国といった盛り場と違い、江戸という大都会の人々にとっては、息抜きの出来る場だったようです。
こんな落語があります。人情噺「佃祭り」のに登場する、恩義を忘れない人々が暮らす漁師町だったんです。佃島の住吉神社に詣でて、生きのいい魚を食べる・・・それだけで気分転換が出来た別天地でした。
隅田川の河口に出来た中州に、現在の大阪府、摂津の国・佃村から漁師などを移住させたのは、徳川家康でした。収穫の一部を江戸城に納めさせる代わりに、手厚いほどを与えたんですね。隅田川の河口一帯は、絶好の漁場として知られていました。隅田川の沖で、白魚漁が盛んに行われていたことは、「江戸名所図会」や浮世絵に繰り返し取り上げられるほどで、広く知られています。そうそう、こんな歌舞伎のセリフもありますよね。
明治の世になっても、佃島は古き良き時代の風情を残していました。その理由のひとつが、島に行くには渡し船しか手段がなかったからです。最盛期には、1日70往復も運行されていた渡し船が廃止されたのは、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)のことでした。佃大橋の完成によって、昔から保たれてきた良さがなくなってしまう・・・と心配する声をありましたが、この街は大きく変わることはありませんでした。
地下鉄が相次いで乗り入れ、すぐ近くに高層マンションが立ち並んでも、この街の魅力が消えることはありません。漁師の保存食として考えられた佃煮は、この街から全国に広がっていきました。昔の渡船場近くには、佃煮の老舗が数軒並び、住民や観光客で繁盛していますし、わずかに残された船溜まりのあたりは、漁師町の雰囲気を色濃く残しています。不思議なことに、江戸時代の人々が佃島を訪ねて感じた「ゆったりとした」気持ちを、現在でも感じられるんです。
すっかり有名になった「もんじゃ焼き」の街・月島はすぐ隣り町です。他の場所では失われた「懐かしい街並み」が残されている佃島は、昔も今も、一番近い島なんです。
最寄り駅は、都営大江戸線と東京メトロ有楽町線の月島駅です。

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