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5月21日(月)〜5月25日(金)
特長があって人が集まる・・・そんな東京の「にぎわいスポット」をご紹介してまいります。
5月21日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「御茶ノ水 楽器街」をご紹介します。
全国有数の学生街であります御茶ノ水。書店が並ぶ神保町、スポーツ用品店が集まっている小川町など、学生街ならではの特色のある街でございます。
最近、JR御茶ノ水駅から駿河台下に向かう道、明大通りと呼ばれている道の両側を中心に賑わっているのが・・・。そう、楽器店。どの店を見ても、お客さんが一杯で活気に溢れています。昔から学生街ではあったんですが、さて、いつ頃から楽器店が増えてきたんでしょう。
創業が1937年(昭和12年)という、70年の歴史がある老舗の楽器店・下倉楽器さんにお邪魔しました。新入生がようやく学校に慣れてくる時期でございます。サークル活動の勧誘を受けた学生が楽器を買いにきた・・・そんな姿が見られます。
さて、このギター、初心者向けは1万円から5万円ほどのものが売れ筋と伺いました。これが、中級品ですと10万円ほどになるんです。この界隈の楽器店で驚くのは、初心者用からプロ用の楽器まで揃っていることなんですね。下倉楽器さんの場合、エレキギターでは200万円のものが販売されています。また、アコースティックギター(生ギターですね)では、なんと567万円の商品が飾られているんです。マーチン製で、限定50本の超高級品です。特別に、弾いていただきました。
当然ながら、楽器は、ギターだけではございません。弦楽器、管楽器、打楽器、楽譜から部品にいたるまで、それぞれの店が特長を打ち出して競争している・・・まあ、こういうことでございましょう。
下は小学生から、大学生、そして「セカンドライフ」が見えてきた団塊世代にいたるまで、楽器を始めてみたいという人たちが多いんですね。
新しいことに取り組みたい・・・そんな夢を実現したい人が集まるのが、御茶ノ水の「楽器街」なのだと実感いたしました。
場所は、JR御茶ノ水駅から目と鼻の先、明大通りの両側を中心に駿河台下の交差点近くまで、楽器店が並んでおります。
5月22日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「秋葉原電気街」をご紹介します。
アキハバラ秋葉原。
太平洋戦争前から、ラジオを中心とした電気製品と部品の店が集まっていて、戦後の混乱期に、組み立てラジオの部品を売る店が急増しました。現在でも、「○○ラジオ」「○○無線」という看板が目立ちますが、そんな歴史を物語っております。
「電化」という言葉が、夢のような豊かな生活を感じさせたのは、そんなに昔のことではありません。「三種の神器」と言われた、テレビ・冷蔵庫・洗濯機、そして、カラーテレビ、ビデオ、パソコンと次々に人気商品が生まれてきました。秋葉原にはたくさんの電気店が集まり、それがまた人気の源になって、さらに発展してきました。
そろそろ伸び悩みかな・・・と思うと、次の新製品が登場する。現在のパソコンに至るまで、そんな流れが続いています。現在、電気店の組合であります「秋葉原電気街振興会」に加盟しているだけで51社およそ200店。部品や特定の製品だけを扱っている店を加えると、5年前には500店あったそうですから、現在ではもっと多くなっていることでしょう。パソコンやゲームソフトの店も増え続けていますよね。 電気だけではなく、こんなお店もここから生まれ、名物になっています。
ご存知、メイドカフェでございますね。おたく・・・という言葉も、この街から生まれ、全国に広がりました。おたく・・・を言い換えれば、好奇心の強い人ということになるのではないでしょうか。
新しく大きな電気店が開店したり、新しい業種の店が出来、あっと言う間に増える、そんな活気に満ちた街に集まるのは、昔から好奇心の強い人なんです。以前は青果市場であった場所の再開発によって、高層ビルが増えて、ますます通りの賑わいが増しています。意外なことがわかりました。この街、実に安全なんです。地元の商店会が地元の警察、万世橋警察署などに協力して犯罪防止に努めているんです。引ったくりなどの犯罪は年に数件という、驚くほど低い発生件数なんです。
「AKIHABARA」がどんな街なのかは、世界に知られております。昨年、わが国を訪れた外国人の総数は、およそ730万人だったんですが、そのうちの8パーセントから10パーセント、70万人ほどが、秋葉原を訪れた・・・と言われています。
浅草・銀座とならぶ、外国人の定番観光スポットになっているんですね。少しずつ姿を変えながら、繁盛ぶりは変わらない街「秋葉原」。次の流行や、新しいビジネスが、もう始まっているかも知れません。目を離せない、文字通りの「にぎわいスポット」なのでございます。
5月23日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草橋 ビーズタウン」をご紹介します。
浅草橋界隈と申しますと、人形の店や、玩具問屋の街として知られておりますが、最近では、趣味のアクセサリーづくりの材料でございますビーズを売る店が集まっている街として全国的に知られております。ビーズを編んでネックレスや腕輪を作る遊びは昔からありましたよね。でも、いろいろなビーズや天然石を材料にしてアクセサリーを作り始めたのは、それほど古いことではありません。 では、いつ頃、どのようにして始まったのでしょうか? 現在のビーズタウンの生みの親であります、竹内美津夫さんに伺いました。
竹内さん、大手ビーズ・アクセサリー店・瓢箪家の社長さんでいらっしゃいます。手軽に始められるビーズ・アクセサリーづくりですが,世界にひとつだけの作品、手の込んだ製品にチャレンジ出来るようになると、楽しさも増してまいります。豊富な品揃えの店が次第に増え、それによってビーズ・アクセサリー作りを始める方が増える・・・とまあ、こんなことで、ほんの数年のうちに浅草橋界隈が「ビーズタウン」と呼ばれるまでになったのでございます。
現在、浅草橋には、ビーズ専門店だけで25店ほど、アクセサリーの店でビーズも取り扱っている店も含めると80店ほどあるといわれています。数が多いから選びがいもありますよね、お友達と連れ立ってお店のハシゴを楽しむ姿、浅草橋ではお馴染みの光景でございます。ビーズ専門店以外の、飲食店や和菓子屋さん、それに玩具店なども売り上げを伸ばしているそうで、「ビーズ効果」とでも呼べる利益を地元にもたらしています。
一方、積極的に他の地域にも店舗を増やしている会社もあるんです。やはり大手の貴和製作所では、若者の街・原宿や、大阪にアンテナショップを出店、来月には吉祥寺にも新しい店がオープンします。浅草橋で買い物をしたことがない、初心者の方にビーズ・アクセサリーの楽しさを知っていただいて、ファンになっていただこう、こんな狙いがありました。これが見事に的中、大変に賑わっています。 これまでは少なかった男性のお客様も増え、手製のアクセサリーを身につける方が着実に増えている、と伺いました。 だんだん慣れてまいりますと、手の込んだものに挑戦したくなるものなんですね。そうなると、もっと違った材料や、変わった色や形のビーズが欲しくなりますよね。そうすると・・・。「ビーズ・タウン」浅草橋を訪ねることになり、ファン層が広がり、本拠地の人気が上向く、という展開になっているんです。
月の13日は「母の日」でしたね。作って楽しい、贈って喜ばれるビーズ・アクセサリーは、母の日のプレセントの定番になっているそうです。
5月24日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、台東区鳥越の「おかず横丁」をご紹介します。
おかず横丁。
本当にすばらしい呼び名だと思うんですが、今となっては、誰が名付けたのかは分かりません。実は、「おかず横丁」というのは通称でございまして、正式には「鳥越本通り商盛会」というんですが、やはり「おかず横丁」が、馴染んでおります。
この界隈、江戸の昔から、職人さんや家族ぐるみで働く家が多い土地でございました。食事の支度をする時間も惜しんで働く・・・というわけで、食事時になると、「おかず、買っといで!」「煮豆と豆腐ね!」「今日はコロッケだよ」という具合に、近くの惣菜屋さんで買うのが普通でした。買いに行くのは、もっぱら子供たち。喜んでお使いにいった・・・ことでございましょう。近所には、肉・魚・野菜をはじめ、安くて美味しい惣菜の店が必ずあったもので、鳥越神社に近いこのあたりの店は賑わいを見せていました。幸い、戦災にもあわず、1949年(昭和24年)には、「鳥越本通り商盛会」が出来たんですが、その前から「おかず横丁」と呼ばれていたんです。当時、200メートルほどの通りには100店以上が並んでいました。
終戦から10年たった1956年(昭和31)の台東区の人口はおよそ31万人、復興から成長に向かう時期でした。職人さんも、たくさんあった町工場も大忙し、「おかず横丁」がもっとも賑わった時代だったんですね。しかし・・・。
高度成長の時代を迎えると、街の様子は大きく変わっていきます。40年ほどの間に、31万人だった台東区の人口は16万人ほどに減り、スーパーやコンビニの影響もあって、商店は減ってゆきます。「おかず横丁」、現在では、最盛期の半分以下の40店ほどになりました。でも、おかず横丁には変わらないものがあります。味噌漬物店の郡司(ぐんじ)春雄さんに伺いました。今年88歳、「生涯現役」という郡司さん、「おかず横丁」の賑わいを取り戻すために頑張っていらっしゃいます。
少なくなってはいますが、この商店街には本物の味と暖かい応対があります。コロッケや、焼き鳥や、チャーシュー、漬物、いえ、惣菜ばかりではありません。野菜も魚も、食品以外のお店も、他所とは違うんです。そんな昔ながらの味わいが、わざわざ遠くから買い物に来てくれるお客さんも多く、「レトロな商店街」としても人気があります。
これぞ本物の商店街、ぜひ、訪ねてみてください。
5月25日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「青山 骨董通り」をご紹介します。
江戸時代には、大名の下屋敷や旗本の屋敷が立ち並んでいた青山界隈、明治の世になりますと、学校や陸軍の施設が出来、官吏や軍人が住む、ごく普通の住宅地だったそうでございます。
そんな住民を相手に、戦前から数軒の骨董店があったそうなんですが、特に変わった場所ではなかったようです。戦後。この街が大きく変わる切っ掛けになったのは、「東京歴史探訪」でもたびたび取り上げております・・・。
オリンピック東京大会。青山通りが、それまでの2倍の広さに拡張され、次第に洒落たレストランやブティックが出来てきたんですね。しかし、大繁華街になっていた渋谷や、急速に盛り場になった六本木などに比べると地価も安く、相変わらず住宅地だったんです。青山通りの青山5丁目交差点から、六本木通りの高樹町交差点に抜ける道路沿いに、増えてきた業種がありました。それは、骨董店。1976年(昭和51)、鑑定団でお馴染みの中島誠之助さんが骨董店を開店。数年後、中島さんが、この通りを「骨董通り」と名付けました。古めかしい呼び名だね・・・と笑う人も多かったんですが、慣れてみれば土地柄にマッチした命名だったんですね。
その後、骨董店の数はピークの頃に比べるとだいぶ減りましたが、代わって高級ブティックが次々に進出、ライブハウスや洒落たカフェも作られました。骨董通りの名前はそのままに、ショッピングとグルメの街は、高級感を持ったままで進化していきました。賑わい・・・とは言っても、渋谷とも六本木とも、原宿とも違います。静かで、決して騒々しくない、そう、大人の街なんです。
20年ほど前に、ジャズクラブ「ブルーノート・東京」が誕生、夜の楽しみが増えていったんですね。さて、現在の骨董通り。最盛期には80店以上あった骨董店ですが、現在は30店ほど。ただし、最近になって少しずつ増えているようです。以前の骨董店が取り扱っていたのは、日本の古美術品が中心だったんですが、新しくオープンしているのは、西洋アンティークを扱う店が多いようです。骨董通りではなく、脇道に入ったあたりに小さいお店を探すことが出来ます。
骨董店以上に多くなっているのは、ブティックと高級ブランドの店。
そして・・・。レストランの多くなったこと。 イタリアン、フレンチその他もろもろ。南青山一帯には100店以上のレストランがあるんですが、この通りには有名店が多いんです。
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