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3月26日(月)〜3月30日(金)
今週のテーマは、「大東京繁昌記」
今から八十年前の昭和二年、新聞社の企画で、関東大震災から目覚ましい復興を遂げつつあった東京各地を文学者たちが取材。
後に「大東京繁昌記」として二冊の本にまとめられた、このルポルタージュをひもときながら、現在の姿も合せてご紹介して参ります。
3月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「芥川龍之介 本所両国」をご紹介します。
「僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一緒に久振りに本所へ出かけていった」下町編、山手編、合せて十八人の作家が、関東大震災から復興途上の東京各地をリポートした「大東京繁昌記」。その「下町編」冒頭に登場する、芥川龍之介、書きだしの文章でございます。龍之介は築地・明石町、現在の聖路加病院の近くに生まれ、生後十ヶ月で母親が病気になってしまったため、本所・両国にあった母親の実家に引き取られ、そこで成年するまでを過ごしました。このルポルタージュは、龍之介がおよそ十五年ぶりに懐かしい故郷を歩いた記録。久々に訪れた本所、両国界隈は、震災を経て、かなり変貌していたようです。
芥川龍之介は、子供の頃…というのは、彼は明治二十五年に生まれていますから、明治時代の後半に比べて、隅田川…当時の東京の人間の言葉で言えば、「大川」が、ひどく汚れたという感慨を繰り返し延べています。
「僕の水泳を習いに行った『日本遊泳協会』はちょうど、この河岸にあったものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家光は水泳を習いに日本橋へ出かけたということを発見し、滑稽に近い今昔の感を催さない訳には行かなかった。しかし僕らの大川へ水泳を習いに行ったということも後世には不可解に感じられるであろう」
特別な行事ならともかく、子供達が水泳を習いに今の隅田川へ出かけていくのは…確かに不可解ですね。蔵前から蒸気船に乗って大川をさかのぼった龍之介は、吾妻橋のたもとで船を降り、そこから亀戸方面へ向かいます。
亀戸といえば、名高いのが「天神様」ですね。龍之介も、子供の頃から、しばしば訪れていたようです。「久しぶりに天神様へお参りに行った。天神様の拝殿は仕合せにも昔に変わっていない。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ収めたことを思い出した。が、僕の字は何年たっても一向上達する様子はない」
いま手元に芥川の筆跡の写真がありますが…
天神様といえば、菅原道真を祀る学問の神様。また道真は見事な書を残したことでも知られています。そこから天神様の境内には筆塚があり、毎年七月二十五日に書道や学問の上達を祈って古い筆を収める「筆塚まつり」が、現在も行われています。
3月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「田山花袋 日本橋」をご紹介します。
「日本橋付近は変わってしまったものだ。もはやあのあたりには昔の様は見出せない。江戸時代はおろか明治時代の面影をもそこにはっきりと思い浮かべることは困難だ」これが当時五十六歳の田山花袋による「日本橋付近」の書きだしですが、はてさて、高速道路で上空をさえぎられてしまった、現在の日本橋を見たら、どんな感慨をもたれることでしょう。
昭和2年…といえば、明治維新からちょうど六十年、明治の終わりから数えても十五年。現在の日本橋と、十五年前、平成四年の日本橋を比べても、さほど変わらないことを考えてみますと、大正のおよそ十五年という歳月が、日本にとってどれほど激動の時期だったのか、なんとなくわかるような気がいたします。
田山花袋は明治十四年、九歳の時、京橋の出版社で、住み込みの小僧さんとして働き始めました。そう、彼にとって日本橋付近は、正に想い出の土地。この文章の中でも、「私はどんな日でも、京橋と日本橋とを渡らない日は なかったことを思い起こした。私は重い本をしょったり、又は至る所の本屋の店にこっちで入用な本を書いた帳面を持っていって見せたりなどした。それにしても遠い昔だ」と、述懐しております。重い本を風呂敷包みにして背負い、橋を渡っていく少年の姿が目に浮かぶようですね。
日本橋、本…といえば思い出すのが「丸善」。その昔は、洋書といえば丸善、そんな時代がございました。つい先日、ビル建て替えのため休業中だった、日本橋丸善がリニューアル・オープンしたというニュースが伝わってまいりましたが、それでは田山花袋の丸善への思いを、紹介してみましょう。
「丸善へと行くために、よくその日本橋を渡って行ったことを思い起こした。それは私に取っては忘れられない記憶のひとつだった。私は昼飯の済んだ後の煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を探した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわず探した。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出し物をした。そしてその本を抱いてにこにこしながら戻ってきた」
本好きの方なら思わず頷かれる一節ではないでしょうか。
3月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「谷崎精二 神保町あたり」をご紹介します。
「神田と言えばすぐ学生を連想する。銀座が紳士の街なら、神保町通りは学生の街だ。銀座のカフェーへは紳士でないと入りにくいように、神田のカフェーでは学生でないと肩身が狭い。学生がそんなに神保町付近へ集まるのは、言うまでもなく学校と古本屋のおかげである」
谷崎潤一郎の弟で、英文学者、作家としても活躍した谷崎精二「神保町あたり」の書きだしの部分です。もちろん、神田が学生の街であるのは、当時も今も変わりありませんが、しかし現在の学生のうちどれほどが古書店のお世話になっているでしょう?当時は、本がまだまだ貴重だった時代。学生は新学期になると、先輩が使い古した教科書を探しに、神保町へと出かけていたんですね。学生がたくさんいる…ということは、即ち、食べ物屋さんがたくさんある…ということでもあります。
「神保町付近にはカフェーやレストランが沢山軒を並べているが、どれも学生向きの安直な物ばかりである。」
「少し高級な感じのするのが、電車通りのランチョンである。ここでは昔から給仕人に女をおかないでさっぱりしていい。今でも私はあの辺へ出かけてビールの一杯も飲もうとする時は、ランチョンへ入る」
と、谷崎精二が書いている「ランチョン」。神保町あたりを散歩される方ならご存じの通り、明治四十二年創業のこのお店、現在も人気のビヤホールでございます。
さて、駿河台下から御茶ノ水方面に向かってのランドマークといえば、なんといってもニコライ堂。このニコライ堂も震災で大きな被害を受け、谷崎精二が歩いた当時は再建工事が始まったばかりでした。鐘楼や独特のドーム型屋根は、昭和4年に復活しますが、この文章が書かれた当時は、無残な有り様でした。
「ニコライ堂の廃墟に立って、私たちが覗けるものは大きな、爽やかな秋の空だけだ。私たちの心を動かすものは、すべての人の世の営みのもろさ、はかなさだけだ」
3月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「加納作次郎 早稲田神楽坂」をご紹介します。
「神楽坂通りの中ほど、俗に本多横町といって、そこから真っ直ぐに築土八幡の方へ抜ける狭い横町の曲がり角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつもなかなか繁昌している」
加納作次郎の「早稲田神楽坂」書きだし部分です。石川県に生まれ、早稲田大学に学び、その後長く牛込・神楽坂界隈に暮らした作家だけあって、大好きな自分の町をちょっぴり誇らしげに自慢する、この「早稲田神楽坂」はそんな文章に仕上がっています。いま神楽坂は、ドラマの舞台になっていることや、話題のペコちゃん焼きが手に入ることなどから注目のスポット。休日ともなると、観光客でけっこうな人出となりますが、当時の神楽坂は、毎晩夜店がぎっしりと並び、連日、押すな押すなの大混雑だったようです。そんな賑わいをいきいきと表した一節をご紹介いたしましょう。作次郎は、自宅を訪ねてきた友人と二人、「神楽坂気分」を味わおうと、夕暮れの町へ出かけます。
「『いよう! なるほどこりゃ大した人出だね』友達は思わず角の交番の所に立ち止まって、左右を見回しながら大袈裟に叫んだ。見ると今ちょうど人の出潮時らしい、電車線路を挟んで明るく灯にはえた一筋道を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相打つ如くに入り乱れて、無数の人の流れがぞろぞろと押し寄せていた」
今では、神楽坂といえば、どちらかというと落ち着いた風情が売り物の街ですが、当時はとてもエネルギッシュな場所だったことがわかります。
大久保通りと早稲田通りが交わる、現在の神楽坂上交差点から、毘沙門天方面へ向かって坂を上り、そして下ると外濠通り。目の前には一杯に水をたたえた外濠の景色が広がります。ちょうどこの季節、満開の桜の下でボートを漕ぐ。なかなか贅沢な楽しみだと申せましょう。このボート場、当時既に営業が始まっていたようで、作次郎はこんな文章を残しています。
「あの濠の上に貸ボートが浮かぶようになったのは、ごく近年のことで、確か震災前一、二年前からのことのように記憶する。今では牛込名物の一つとなった観があり、罪がなくて甚だ面白く愉快である。時には芸者やカッフェの女給らしい艶めいた若い女性たちが真面目な顔つきでオールを動かしていたりして、色彩を華やかならしめている」
神楽坂のキレイドコロが桜の下、のんびりボートを漕ぐ風景。
昭和二年の東京に、タイムスリップしてみたくなりました。
3月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「小山内薫 芝、麻布」をご紹介します。
「『あばよ、芝よ、金杉よ』
子供の頃、一緒に遊んでいた街の子たちと別れるとき、よく私たちは歌のように節をつけて、こういった。私は麹町の富士見町で育った。芝といえば…金杉といえば…大変遠い所のような気がした」
劇作家、演出家、そして作家としても知られる、小山内薫による「芝、麻布」の書きだし部分です。山の手育ちだった小山内薫は、後に三田の慶應義塾で教鞭を執り始めてから、芝界隈に親しむようになりました。そう、現在の我が文化放送の地元ということになります。その昔、芝、品川といえば、遠浅の海。こんな落語もございます。
「品川心中」、花魁に、無理矢理心中の道連れにされた貸本屋の金蔵。桟橋から突き落とされて海に落ちますが、品川の海は遠浅だったため助かってしまいます。今のこのあたりの殺風景な海岸と比べると、なんとのどかな時代という気がいたしますね。小山内薫は、当時の海の景色をこんな風に描写しています。「芝浜館」という、海の見える旅館の座敷で、雑誌の編集会議をした時の思い出です。「もう二十年以上も前のことだが、その時分の芝浦は粋な所で、本場所の芸者や客の、隠れ遊びをするような場所になっていた。私は単に後見役だったが、すぐ前に海の干潟の見える広い座敷で、ごろごろしながら編集に口を出したことが、二度や三度は確かにあった」二十年以上前と言えば、明治の末。
当時はまだ干潟の見える粋な旅館が芝浜にあったわけです。ところがそれから月日が流れて、昭和の始めになると、いかに風景が様変わりしたか、小山内の文章を続けます。 「こないだ、久しぶりで芝浦へ行ってみると、第一埋立地の広くなっているのに驚いた。むかしあんなに遠浅だった浜に、立派な埠頭の出来ているのに驚いた。そこの建物がことごとく倉庫ばかりで、昔の料理屋や旅館などの影も形もないのに驚いた。ただ、少しも変わらないのは、海の向こうの浜離宮の黒松だけである」
さらに八十年後の現在となりましては、浜離宮の黒松が芝浜から見えたなど、もう、想像することすら、不可能でございます。
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