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3月12日(月)〜3月16日(金) 今週のテーマは、「恋に生きた女たち」
明治、大正、昭和…そして終戦まで。
まだまだ女性には不自由が多かった時代に、世間に何と言われようとも、自分の気持ちに正直に生き、そして死んでいった女たちをご紹介して参ります。
3月12日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「花井お梅」をご紹介します。
お聞きいただいているのは新橋喜代三さん唄うところの、「明治一代女」。
「浮いた、浮いたと、浜町河岸に…」歌い出しの文句、実に、粋ですなあ。日本橋、浜町といえば、明治座でおなじみ。「浜町河岸」は、新大橋と両国橋の間の、隅田川の右岸…ということになっておりますが、実は、昭和の始めまでは、違いました。隅田川の両側には、たくさんの水路が走っておりまして、ここ浜町にも、隅田川に流れ込む小さな掘割があった。当時は、その掘割の両岸を「浜町河岸」と呼びまして、すっきりと開けた大川端の風景とは違って、とてもジメジメとして薄暗い場所だったそうです。その薄暗い場所で起きたのが、陰惨な殺人事件でした。
明治二十年六月九日の夜。日本橋浜町で待合「酔月」を経営する芸者の花井お梅、当時24歳が、使用人・峯吉を、この浜町河岸で刺し殺しました。お梅さん、大変な美貌の持ち主だったこともあって、この事件は東京中にセンセーションを巻き起こしました。文豪・谷崎潤一郎も、幼い頃の思い出として、お梅さんを実際に知っていた彼の母親が、「いい女とは、あんなのを言うのだろうね」と、折に触れ話していた…と、書き残しています。で、この有名な殺人を川口松太郎が新派大悲劇に仕立て上げたのが、「明治一代女」。先ほどの唄は、このお芝居が元になっているというわけです。若くてまっすぐな心の持ち主である芸者・お梅が、人気役者・仙枝(せんし)と恋に落ちます。
仙枝には襲名が間近に迫っており、お梅は立派に披露目をしてやりたいが、先立つ物がありません。そこで登場するのが、以前から彼女を憎からず思う使用人峯吉。この峯吉が故郷の田畑を売り払い、作ったお金をお梅に渡し、「その代わり夫婦になってくれ」と申し出ます。
その真心に打たれたお梅は、仙枝から身を引く決心をしますが、収まらない仙枝は「俺が嫌いになったか」とお梅をなじり、やがて悲劇が起きる…というストーリー。
実際のお梅さんは、お芝居とは違い、とても勝ち気な性格だったそうですが、ともかくも十五年の刑期を勤め上げ、明治三十六年に晴れて出獄。その後は自ら峯吉殺しの場を演じる芝居に出たり、汁粉屋やレストランの経営に手を出すもことごとく失敗、大正五年、五十三歳で寂しく世を去ったそうです。
3月13日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「松井須磨子」をご紹介します。
明治の末から大正にかけ活躍した女優、松井須磨子は、明治十九年、信州・松代に生まれていますが、これは芸名。本名は「小林正子」と言うのだそうで、確かにこの名前では女優にはちょっと向きませんね。十六歳で上京し、翌年、最初の結婚をしますが、すぐ離婚。二十二歳の時、療養先の病院で知り合った、前沢誠助(まえざわ・せいすけ)と再婚いたします。この前沢が、実は演劇青年で、俳優養成所の講師。妻である須磨子に「君もやってみたら」と勧めたところ、もともと素質も有ったのでしょうが、すぐに家事も何もかもほったらかして、彼女のほうがお芝居にのめりこんでしまったのです。まったく家庭を顧みなくなった須磨子に嫌気がさし、前沢は彼女を離縁。須磨子は二十四歳にして離婚歴二回、もう立派な女優…という感じがいたしますね。
彼女が所属したのは、坪内逍遥率いる「文芸協会」。
明治四十四年、須磨子は帝国劇場での「ハムレット」公演で、オフィーリア役に抜擢されました。さらに同じ年、イプセン作「人形の家」のノラを演じ、その美貌と演技力で一躍人気女優となります。そして同じ頃、彼女の新しい恋が始まっていました。相手は、同じ文芸協会に所属する演出家、島村抱月。ところが、文芸協会では、会員同士の恋愛沙汰は、ご法度とされていたのです。しかも、抱月は妻子持ち。行き場のなくなった二人は、とうとう協会を辞めることになり、新たに劇団「芸術座」を旗揚げすることになりました。そして大正二年、日本演劇史上に輝く、大ヒット舞台、トルストイ作「復活」が生まれます。
ご存じの方も多いことと思います。これは、松井須磨子本人の唄う劇中歌「カチューシャの唄」。「カチューシャ」というのは、須磨子が演じた主人公の名前なのですが、この時、舞台で頭につけていたのが「ヘアバンド」。そう、ヘアバンドのことを「カチューシャ」と呼ぶのは、このお芝居が元になっていたんですね。いかにヒットしたか、お分かり頂けるかと思います。しかし、栄光の日々は長くは続きませんでした。大正七年、この年、世界的に流行したインフルエンザ、いわゆる「スペイン風邪」で抱月はあっけなく世を去ります。そして二か月後、須磨子は、最愛の男の後を追い、自らその命を絶ってしまいます。享年、僅かに三十四。二人が愛の日々を過ごし、そしてその生涯を終えたのは、東京、神楽坂の路地を入った一画。現在、その場所には「芸術倶楽部跡」の案内板が立っています。
3月14日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「神近市子」をご紹介します。
元祖・湘南サウンド、ワイルドワンズの「想い出の渚」。どこまでも明るい、湘南の景色が浮かび上がってくるような、そんな気がいたしますが、実は大正時代、この明るい湘南の一画・葉山で、男女関係のもつれから、陰惨な傷害事件が起きています。その名も「日陰茶屋事件」!
本日の主人公、神近市子は、当時二十八歳。長崎に生まれ、勉強が何よりも大好きだったという市子は、きりっとした目鼻立ちの美少女でした。地元の女学校で学んだ後、もっと学問がしたい…と上京。津田梅子の創立した女子英学塾、現在の津田塾大学に学びます。トイレの中でも単語帳を離さなかったというほど、勉強熱心な彼女に、津田梅子は、学園で教鞭を執るアメリカ人、ミセス・ファングルとの同居を勧めます。この申し出に飛びついた彼女は、朝から晩まで英語漬けの生活を送るようになり、語学の力は飛躍的にアップします。後に、彼女は、この語学力を生かして、「東京日日新聞」の婦人記者として活躍するようになりますが、そんな中で知り合ったのが、アナーキスト・大杉栄。当時は危険思想とされていた無政府主義を説く、どこか陰のあるこの青年に、市子は引かれていきました。ある秋の夜、大杉は市子の下宿に現れます。「尾行はまいてきた。ただ、おなかがへった」市子はありあわせの簡単な食事を出します。ところが食事を終えたあとも、大杉は帰ろうとしません。そして「今日は、泊まっていってもいいんだ…」この日から二人の情熱的な関係が始まったのです。ところが、実は、大杉は名うてのプレイボーイ。もともと妻子がいた上、市子と愛し合うようになったすぐ後、新たな愛人である伊藤野枝とも付き合い始めます。彼は「皆が経済的に自立」「同居はしない」「セックスは自由」という三箇条の「フリー・ラヴ(自由恋愛)」を掲げ、複雑な四角関係を維持しようと提案してきたのです。ところが、実際には、経済的に自立できたのは市子だけ。あまりにも不平等な関係にカッとなった市子は、大杉と野枝の滞在する葉山の旅館、日陰茶屋を訪ね、野枝が帰った後、大杉の首に短刀を突き立てました。大杉は幸運にも一命を取りとめ、市子は懲役二年の実刑に。大杉と伊藤野枝は、その後、関東大震災のどさくさに紛れ、憲兵隊に虐殺されています。一方、市子は、出所後、結婚、出産、離婚を経験。戦後は衆議院議員となり、売春防止法の制定などに力を尽くした後、昭和五十六年、九十三歳で天寿を全うしています。
3月15日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「柳原白蓮」をご紹介します。
今週ご紹介する女性たちの中でも、この柳原白蓮は、飛び抜けて高貴な血筋に生まれついていらっしゃいます。なんといっても、大正天皇のイトコにあたるお家柄。詳しく申し上げますと、彼女の父親の妹、つまり叔母さんが、大正天皇の生母である、柳原二位局というわけです。で、そんな貴婦人、それもすこぶるつきの美女が、夫を持つ身でありながら、6つも年下の男と手に手を取って逃避行しちゃったから世間は驚きました。当時は不倫を厳しく禁じた「姦通罪」のあった時代。しかも、彼女が夫に宛てた「絶縁状」が、天下の「朝日新聞」にドーン!と掲載されたのですから、これはもう、大変な騒ぎでございます。事件が起きたのは、大正十年、十月のこと。柳原白蓮、本名 Y子(あきこ)は、当時三十六歳。父である柳原前光(さきみつ)が芸者に産ませた子で、十六歳で結婚、翌年出産を経験しています。しかし余りにも幼い夫の素行に耐えかね、二十一歳で離婚。しばらくは勉学に励み、実家で暮らしていた彼女ですが、二十七歳のとき、九州の炭鉱王といわれた伊藤伝右衛門と再婚。伝右衛門はなんと白蓮より二十五歳も年上でした。これは、柳原家の当主である兄が、莫大な結納金に目がくらみ、実質的に彼女を売り渡したような縁談だったのです。
生まれ故郷の東京、上流社会から遠く離れて、九州の地で、荒っぽい川筋男たちや、同居する伝右衛門の妾たちに囲まれながらの生活。いくら贅を尽くした家の中でも、彼女の孤独は募るばかり。たった一つの慰めは、娘時代から続けている「短歌」、白蓮というのも歌を詠むときのペンネームでした。そんな彼女の前に現れたのが、六歳年下、東京帝大法学部に在籍する美青年、宮崎龍介だったのです。二人はたちまち恋に落ち、冒頭でお話したように駆け落ち。この時、彼女のお腹の中には、既に龍介の子供がいました。上京後、白蓮は肉親に騙され、一度は実家に幽閉されてしまいますが、翌年、関東大震災のどさくさに紛れ、ようやく龍介と再会。幽閉中に生まれた息子もまじえ、静かな愛の日々が始まったのです。晩年、白蓮は緑内障で失明するなど、病に悩まされましたが、そんな妻を、夫・龍介はしっかりと介護し続けました。昭和四十二年、白蓮は八十三年の波乱に満ちた生涯を終え、その四年後、龍介も七十九歳でその後を追ったのです。二人が長年暮らしたのは、目白駅にほど近い、静かな住宅地の一画でした。
3月16日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「阿部定」をご紹介します。
昭和五十一年に公開され、センセーションを巻き起こした、大島渚監督の映画「愛のコリーダ」。この映画にインスパイアされて生まれたのが、このヒット曲「愛のコリーダ」というわけです。「愛のコリーダ」が、映画から四十年前に起きた猟奇殺人事件、「阿部定事件」を元に作られたことは、ご存じの方もたくさんいらっしゃるでしょう。愛にはいろいろな形がありますが、さしずめ、この阿部定さん、そして殺された石田吉蔵さん、二人の愛の形は、かなり独特なものでした。
定は、明治三十八年、東京・神田の畳職人の娘として生まれ、比較的恵まれた少女時代を過ごしています。ところが、15歳の時、レイプされて処女を失い、それがきっかけとなって不良と付き合うようになり、やがてごく自然に夜の世界の住人となっていきました。
二十代は、各地の遊郭を転々としたり、お金持ちの妾になったりという日々。そして三十二歳、中野、新井薬師に近い鰻屋で働き始め、そこの主人である石田と関係を持つようになります。もともと無類の女好きだった石田、そしてやはり男なしでは暮らしていけない定。二人はお互いに、相手をこれまで関係を持った中で最高の異性だと思うようになっていきます。
しかし、石田は妻子ある身。やがて、定との関係が、妻にバレてしまう日が来ました。二人は、そのまま家出することになり、各地の待合、今で言うラブホテルを転々として日々を過ごします。その間の二人の関係は、それは凄まじいものだったとか。そして、情交を繰り返すうち、その関係はさらにエスカレート。「首を絞めるといいんだってな…」という石田の一言から、二人は危険なプレイへと一歩を踏み出します。そして、昭和十一年五月十八日…歓喜の絶頂で定は石田の首を締め上げ、男はそのまま絶命してしまったのです。
定は、持っていた肉切り包丁で、彼の局部を切断。それを紙に包んで懐に入れ、夜の街へとさ迷い出て行きました。いちばん大切な人の、いちばん大切な場所。それを切り取って持ち歩きたかった、いつも一緒にいたかった。そのままにしておけば、後でおかみさんが触ると思った、それが嫌だった…と後に定は話しています。
定は懲役6年の刑となり、5年目に恩赦で出獄。
戦後はこの事件をお芝居にして自らヒロインを演じたりした後、各地の料理店やホテルなどで働き、70年代以降は、その消息は杳としてわからなくなっています。
実は、彼女が出演している「猟奇女犯罪史」という映画がありましす。
阿部定さん、もしご存命なら、いま、百一歳です。
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