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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月29日(月)〜2月2日(金)
今週のテーマは、「社会を守る乗り物 あれこれ」
社会の安全を守るために活躍している乗り物の歴史をご紹介します。

1月29日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「救急車」をご紹介します。

東京に現在のような救急車が登場したのは、2・26事件が起きた年、1936年(昭和11年)のことでした。救急車は、最初に6台が購入され、6つの消防署に配備されました。当時、消防は警視庁の管轄で、警視庁消防部という部署が積極的に救急車導入を進めたんですね。

なぜ、救急車が登場したか…?
それは、交通事故が大問題になっていたからです。1912年(大正元年)の都内の自動車登録台数は、わずか298台だったんですが、20年ほど後の1935年(昭和10年)には、なんと27,000台。年間に500人以上の亡くなる方が出るほどの非常事態になっていたからなんです。6台からスタートした東京の救急車は、多くの生命を救い、生活に欠かせないものになっていきました。やがて、戦争の時代に移り、そして、終戦。3年後の1948年(昭和23年)、東京消防庁となって、19台の救急車で再開されました。

1970年、救急車にとって画期的な変化がありました。サイレンの音が、それまでのけたたましい音から、現在の電子サイレン、これをピーポー・サイレンと呼ぶそうですが、これに変わりました。他の救急車両と区別するためと、道路近くの方々に無用な心理的・生理的な負担を与えないため…だったそうです。

交通事故だけでなく、急病人にとっても心強い味方の救急車は、昨年、平成18年現在では、222台にまで増えています。救命のための車内の設備は、年々向上しておりまして、迅速な出動と機敏な処置で、救われた人命が多いのは、皆様よくご存知のことでございます。昨年、平成18年の出動回数は、東京消防庁管内だけで、およそ69万回という大変な数字になっております。最後になりますが、「救急の日」というものが定められております。それは、9月9日。きゅうきゅう…でございます。



1月30日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「白バイ」をご紹介します。

警視庁の前身、東京警視庁がつくられたのは、1874年(明治7年)のこと。幕末・維新の混乱で乱れていた治安を回復するのに大きく貢献しました。明治10年に起きた西南戦争、警視庁警視隊に作られた抜刀隊の活躍は、歌にまでなり、現在にまで伝えられています。ところが、明治時代の末に新たな強敵、首都・東京の安全を乱す手ごわい敵が現れました。それは、交通事故。オートバイによる交通取締りが始まった、1917年(大正6年)の東京の自動車登録台数は、およそ1,300台になっていました。その結果、交通違反が目に余る状態になり、交通事故が急増していたんですね。

今度は、抜刀隊…というわけには参りません。機動力に対しては機動力…というわけで、最新鋭の乗り物、自動二輪車、オートバイを投入することになったんです。使われたオートバイは、アメリカ製のインディアンというオートバイ。隊員6名で始められたオートバイによる取り締まり、交通取締りに大きな効果がありました。ところで、はじめの頃のオートバイの、どんな色だったかと申しますと、これが赤。このため、「赤バイ」と呼ばれておりました。
1936年(昭和11年)、それまでの赤から、アメリカやヨーロッパの警察にならって白に変えました。お馴染みの「白バイ」という愛称は、このときから始まっているんです。

戦後、高度成長の時代に自動車台数が急増し、交通違反の取締りにあたる白バイの数も増えました。日本のオートバイ産業の発展によって、警察でも最新のオートバイを白バイに取り入れ、白バイは子供たちの憧れのまとになりました。自動車の大型化が進むにつれて、白バイも大型化して参りまして、「ナナハン」に代表される大型オートバイはいち早く採用されております。さて、その白バイ。交通取締りばかりでなく、お馴染み箱根駅伝やマラソンの先導、交通安全教室での模範走行などの安全PR活動にも活躍しているんです。現在、警視庁の白バイの台数はおよそ950台。街では、今日も颯爽とした白バイ隊員の姿が見られます。



1月31日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「警察ヘリコプター」をご紹介します。

警視庁にヘリコプターが初めて導入されたのは、1959年(昭和34年)こと。「はるかぜ1号」と名付けられた第1号機、全国の警察に先駆けて購入された乗員2名の小さなヘリコプターが、現在の警視庁航空隊の始まりでした。

空から道路を見ると、思っている以上に状況が掴めるんです。そろそろ渋滞がひどくなり始めていた東京の道路事情を考えて買い入れを決めた警視庁に先見の明があったということでしょうか。便利さが証明されたため、「はるかぜ2号」 「はるかぜ3号」と続けて購入されていきました。そして意外なことから、ヘリコプターが活躍することになりました。

1964年(昭和39年)、新潟県を中心として大きな地震、新潟地震が発生しました。このとき、警視庁は2機のヘリコプターを現地に派遣、物資の輸送などに活躍、その実力を認められました。災害発生の際、ヘリコプターが大きな力となることを証明したことで、各地の警察本部でヘリコプターを買い入れる動きが高まりました。その後、交通渋滞だけでなく、犯人逮捕に協力する機会も増え、ヘリコプターの軽快な機動力は、地上にもある変化をもたらしました。それは何かと申しますと、パトカーの屋根。現在、すべてのパトカーの屋根には、所属する警察署の名前と番号が書かれているんですね。これは、空から、より早く、より的確な指示を送れるように、という工夫なんです。

現在、警視庁が持っているヘリコプターは14機。さまざまに活動しているのを目にする機会も多いですよね。さて、50年近く前に登場した警視庁ヘリ第一号「はるかぜ1号」、空は飛んでおりませんが、現在でも健在です。と申しましても、博物館に展示されているんです。中央区京橋にあります警察博物館。こちらの1階に、活躍していた当時のままの姿で展示されています。17年間にわたって活躍、飛行時間およそ5,700時間という記録を持っているんです。警視庁航空隊の基礎を築き、多くのパイロットを育てた機体は、操縦席に乗ることも出来ます。警察博物館の最寄り駅は、東京メトロ京橋駅、そして銀座一丁目駅です。



2月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「消防自動車」をご紹介します。

火事と喧嘩は江戸の華…などと言われたように、大都会・江戸は、たびたび大火に見舞われていました。纏持ちを先頭に、火災現場に向かう町火消し、これは絵になる光景でありました。しかし、火を消す能力となると、頼みの綱は手押しポンプの竜吐水(りゅうどすい)だけで、力不足でした。政治を担当していた人たちも、その点は身にしみていたようです。明治維新を迎えると、政府の要人は、早速イギリスから蒸気ポンプを輸入しました。最新式のポンプで確かに放水能力は向上したんですが、道路が狭いため、十分な働きが出来ずに終わったようです。

現在の消防車の原型といえる消防ポンプ車が登場したのは、1917年(大正6年)のことで、アメリカ製でした。当時としては極めて高性能で、多くの火災現場で活躍しました。やがて国産のポンプ車も登場、戦後の再スタートとなった1948年には、ポンプ車およそ530台、ハシゴ車4台という装備になっていました。現在はと申しますと、ポンプ車およそ490台、はしご車90台、化学車およそ50台など、種類も増えまして、全部で1,800台あまりの車両が備えられています。

それにしても、消防自動車はなぜ赤いのでしょう?
実はこれは、法律で決まっているんですね。昭和26年に、当時の運輸省が定めた「道路運送車両の保安基準」というものがありまして、その中に「緊急自動車の車体の塗色は、消防自動車にあっては、朱色とし、その他の緊急自動車は、白色とする」と定められているんです。朱色は、赤ではないんですが、まあ、赤でございます。それでは、なぜ赤なのか?
赤は注意をひく色だから…とか、炎を連想させるから…とか、最初の頃に輸入された消防車の色が赤だったから…など、さまざまな説があります。でも、本当のところははっきりしていないんだそうです。ちなみに外国では、赤のほか、紫・白・黄色・黒など、いろいろな色が使われております。

昨年1年間の東京消防庁管内の火災発生件数は、およそ6,000件、火災原因の1位は放火または放火の疑いがあるもの、2位がタバコの火の不始末となっています。防火をこころがけることはもちろんですが、火事が起きた時には、まず、119番!です。



2月2日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「パトカー」をご紹介します。

街でよく見かける白と黒に色分けされたパトカー。実は、戦後に登場したものなんですね。1950年(昭和25年)、当時のGHQの指示によって、自動車警ら隊、パトカー隊が出現したんです。発足時の台数は、なんと3台でございました。最初のパトカーはどんな車だったんでしょうね。ちゃんと記録に残っていて、アメリカ軍から提供されたオープンカーだったそうです。実は戦前、昭和10年には、6台のトラックに無線を装備した、後のパトカーの原型が登場しているんですが、交通取り締まりのための車が採用されたのは戦後のことになりました。

私たちが慣れ親しんでおります黒と白のツートン・カラーには、どんな由来があるんでしょうか?
よく言われる「当時の舗装されない道路を走り回ると汚れがつく。だから汚れが目立たないよう黒と白にした」…というのは間違いのようですね。本当の理由は、当時、ほとんどの一般車両が一色だったので、ひと目で警察車両と分かるように、下半分を黒、上半分を白に塗り分けることにしたんだそうです。

警視庁から始まった白と黒のパトカーは、次第に各道府県の警察でも採用されるようになり、5年後には全国的に統一されたと伺いました。さて、3台からスタートしたパトカーは、その後次第に台数が増えて参りまして、1958年には都内の全警察署に配備を終えました。さらに、1964年に開かれた東京オリンピックをきっかけに、世は高速道路時代に入り、本格的な車社会がやってきたのです。

パトカーが登場してからほぼ20年たった1969年(昭和44年)、大きな変化が起きました。サイレンです。それまでの「ウーウー」というけたたましい音から、現在の音に変わったんですね。昨日ご紹介した救急車と同じく、住民や道行く人に心理的・生理的な負担を与えないという理由からだったそうです。

パトカーが登場した昭和25年の東京の自動車登録台数は、およそ65,000台、交通事故の発生件数は、およそ6,200件でした。平成17年には、車の数は実に465万台、事故件数は8万件に達しました。平成18年現在、警視庁のパトカーの総数は、およそ1,400台。交通安全のために今日も活躍しているのです。



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