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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月22日(月)〜1月26日(金)
今週のテーマは、「東京 消えた駅名紀行」
さまざまな理由で駅名が変わった東京の駅をご紹介します。

1月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「火薬庫前駅」をご紹介します。

江戸時代、甲州街道沿いの地に、幕府の火薬や武器を保管する蔵、焔硝蔵(えんしょうぐら)が置かれていました。徳川幕府が倒れ、明治の世になるとそのまま陸軍省の火薬庫となりました。1913年(大正2年)、現在の京王電鉄の前身の鉄道が開通、あたり一面畑だった当時のことですから、当然「火薬庫前」と名づけられました。ここから、代々木演習場、現在の代々木公園まで、必要な弾薬や爆薬を甲州街道を使って運んでいたんですが、牛が引く荷車が活躍していたそうです。大変な危険物を載せているんですから、車の100メートルほど前を、雇われた近所の農家の方が、大きな赤旗を振って先導していたそうです。これは、土地の古老から伺ったお話でございます。

物騒でユニークな駅名は、4年ほどで地名の「松原」というものに変わりました。やがて大規模な軍縮が実施され、火薬庫は廃止、広い敷地は、新しい利用先を探すことになりました。今から80年以上も前のことです。名乗りをあげたのが、ある大学と築地本願寺でした。その大学は明治大学。1934年(昭和9年)、明治大学予科が移転してきたのを機に、この駅名は、現在の「明大前」に変わったんですね。

火薬庫の西側の部分は、関東大震災で大きな被害を受けた築地本願寺が墓地を移転しました。現在の築地本願寺別院 和田堀廟所(びょうしょ)です。ここには、実に多くの有名人が眠っています。小説家では、樋口一葉、海音寺潮五郎、ハードボイルド小説で一世を風靡した大藪春彦、政治家では、佐藤栄作、昭和を代表する作曲家・古賀政男、まだまだ数え切れぬほどです。広い敷地は、まるで公園のようなたたずまいをみせていて、隠れた桜の名所にもなっているんですね。甲州街道は、現在は道幅が広くなり、都内でも通行量の多い道路になっています。でも昔は、のんびりと牛の荷車が通っていたんです。



1月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「江戸橋駅」をご紹介します。

都営地下鉄の最初の路線、浅草線が開通したのは1960年(昭和35年)。はじめに押上・浅草間が開通、次第に都心部に延びていったんです。都営地下鉄・江戸橋駅の開業は、2年以上たった1963年2月でした。新しく駅が出来る場合、その駅の所在地名を取ることが多いようなんです。♪お江戸日本橋〜、の日本橋の隣りに架かる江戸橋にちなんで、当時の付近の地番は江戸橋でしたから、すんなりと駅名が決まったんです。日本橋駅は、当時の営団地下鉄・銀座線。江戸橋駅は、都営地下鉄・浅草線…隣り合わせていました。全く別々の駅として、問題になることはなかったんですね。

ところが、4年後に東西線が開通したころから、こんな声が多くなってきたんです。「すぐ隣の駅なのに紛らわしい」「乗り換えするのに不便だ」当時は日本経済が成長を続けている時代。外国人旅行客や国内の出張客が増えていましたが、変更することはありませんでした。1973年、駅の付近の地番が、それまでの江戸橋から日本橋に変わりましたが、以前の駅名が親しまれ定着しているということで、変更を検討するまでには至りませんでした。ところが、世の中は交通局の予想を上回る速さで大きく変わっていたんです。

東京の地下鉄網が急成長すると、駅名がまぎらわしい…という声が高くなり、さらに、高度成長の結果、観光や商用で来日した外国人の利用が増え、「エドバシ? ニホンバシ? 分かりません!」ということで、より分かりやすい駅名が必要になってきたんですね。そして、元号が昭和から平成に変わった1989年3月。江戸橋駅は、日本橋駅に変わったんです。今になって思うと、江戸橋というのはいかにも洒落た地名・駅名だったように思うんですね。止むを得ないとは思うんですが、「江戸橋駅」復活を望む声は、残念ながら多くはないようです。



1月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「淺川駅」をご紹介します。

中央本線・淺川駅は、長い歴史のある駅なんですね。開業は、1901年(明治34年)といいますから、今年で開業106年になります。駅名の「淺川」は、近くを流れる川の淺川にちなんでいます。昔も今も、近くの名所と言えば、標高599メートル、遠足やハイキングでおなじみの高尾山と年間の参詣者300万といわれる、大本山高尾山薬王院(やくおういん)です。小学校の遠足で、浅川駅から徒歩で高尾山まで歩いたよ、という方もいらっしゃることでしょう。

さて、この浅川駅。次第に利用者が増えて、地元の人々からも「広く知られた駅名に変えたほうが良いのではないか?」という声が上がってまいりました。現在の「高尾」に変わったのは、1961年(昭和36年)のことでした。6年後には、京王電鉄の高尾線も開通、駅の利用者が増えました。案外知られていないことですが、高尾駅は山梨県・甲府方面の普通列車の始発駅なんですよ。今年の大河ドラマの舞台として、利用者が増えそう、と期待しているようです。

高尾駅の北口駅舎は、建ってから今年で80年になる木造建築です。大正天皇の葬儀、「大葬の礼」の際に、新宿御苑に仮につくられた駅舎に使われた木材を再利用したものなんですね。お寺や神社を思わせる個性的な建物で、10年前に始まった「関東の駅百選」でも、第1回の26駅の中に選ばれました。駅の建物の前で記念写真を撮る姿も多い、名物駅舎なんですね。

名物といえば、この駅で有名なのは、つい居眠りをしての乗り過ごし。会社帰りに仲間と軽く一杯。よくある光景ですが、電車に乗ったらついウトウト、眼が覚めたら終点の高尾だった。こんな経験をお持ちの方、今も昔も少なくないようです。小学生時の頃の遠足から、社会人になってのささやかな失敗まで、記憶に残っているのが浅川、そして高尾駅なのであります。



1月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「志村駅」をご紹介します。

戦後の復興が終わり、経済成長の段階に入ると、住宅不足が大きな問題になってきました。そこで、現在の都市再生機構の前身、日本住宅公団は都心部に通うのに便利な、巨大な団地を作ることになったんです。スタートしたのは、1956年(昭和31年)のことでした。候補になった場所は、板橋区の広大な湿地帯、徳丸原(とくまるがはら)あるいは徳丸田んぼと呼ばれていた一帯でした。およそ10万坪の区画に団地が作られるのに合わせて、都営地下鉄6号線、現在の都営三田線が作られたんですね。

地下鉄の開業は、1968年12月。当時の駅名は「志村」でした。開業初年の1日あたりの乗客数、どのくらいだったと思います? 1日の乗客数、630人!と記録に残っております。利用するのは工事関係者がほとんどだったようですから、少ないのも止むを得ないところでしょう。完成から8ヶ月足らずで、地番変更のため駅名が変わりました。新しい駅名は、都営地下鉄・高島平駅、現在の駅名になったんです。平というのは、見渡す限りの平坦な土地だったことから分かりますが、高島、とは何か、となりますね。実は、この土地に縁の深い人物の名前なんです。

江戸時代も末、高島秋帆(たかしま・しゅうはん)という砲術家がおりました。長い鎖国に慣れていた幕府や国民に対して、「国を守るには、強力な大砲を持たなければだめだ!」こう主張しておりました。やがて、幕府の許可を得て、大砲や鉄砲を使った訓練を行いました。訓練に使われたのが、さきほどの徳丸が原だったんです。江戸市中のどこからでも、大砲の音が聞こえたそうです。訓練が行われたのは、あのペリーが黒船を率いて日本を訪れる20年も前のことでした。

高島秋帆の主張が、やがて新しい時代が始まる切っ掛けになってゆくんですね。この高島秋帆にちなんで、高島平という地名が生まれたんです。団地の入居は、1972年から始まり、数年のうちに団地だけで2万人、地域全体では5万人もの人口が増えることになりました。大規模団地として名高い、高島平団地と共に、高島平駅も全国に知られるようになっていったんですね。



1月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「西銀座駅」をご紹介します。

東京の地下鉄といえば、戦前に完成した、渋谷と浅草を結ぶ銀座線だけの時代が長く続いていました。戦後、初めて作られた地下鉄が丸の内線でした。颯爽と登場した真っ赤な車両は、まことに新鮮でありました。都心部を貫通する路線ですから、当然、大人の町・銀座も通ります。数寄屋橋交差点の下にあたる場所に作られた新しい駅は、西銀座駅と名づけられました。開通は、1957年(昭和32年)12月でした。

当時の数寄屋橋界隈はどんな様子であったかと申しますと、日本の復興が終わり高度成長が始まった時代だったんですね。大企業の発展と共に、バーや高級クラブが増えていた銀座は、丸の内線の開通により一層にぎわったんです。お洒落な街・銀座、なかでも新しい遊び場が出来始めていた西銀座は人気を集めたんですね。ショッピングセンターや高級品を扱うデパートも次々に完成、有楽町から数寄屋橋にかけての一帯は、華やかさを増していったんです。こんな新しいおしゃれな街を歌った歌、フランク永井が歌う「西銀座駅前」も大ヒットしました。当時の流行語そのままにいかした街で、最新のファッションや流行が生まれる街として注目され、当時全盛期だった日活映画をはじめ、たくさんの映画の舞台にもなりました。全国に知られた森永の広告塔は、あの頃、いろいろな場面に登場していましたよね。本当に華やかな街でした。

ところが、この「西銀座」という駅名は長くは続かなかったんですね。1959年、5年後の18回オリンピック大会が東京で開催されることが決まりました。東京の都心部が大きく変わっていくことになり、第3の地下鉄路線、日比谷線の建設が急ピッチで進められ、3つの路線が集中する銀座は、銀座線・丸の内線とあわせて、「銀座総合駅」とすることになりました。1964年8月29日、オリンピックの開会式が近づいていた頃、日比谷線が全線開通、同時に、銀座総合駅が誕生したんです。2年後、交差点角にソニービルが完成、数寄屋橋のあたりは銀座通りと並ぶ賑わいを見せるようになりました。その後、世界の有名ブランドの店が相次いで出店、現在も増え続けているのは、皆様よ〜くご存知のとおりでございます。現在、西銀座の名前を残しているのは、西銀座デパート、西銀座駐車場など、ごく少数なんですが、銀座の賑わいは相変わらず、いや、西銀座駅が開業した50年前の比ではないようです。



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