|
|
|
12月25日(月)〜12月29日(金) 今週のテーマは、「東京の門前町」 都内の歴史のある門前町をご紹介します。
12月25日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、池上本門寺の門前町、大田区「池上(いけがみ)」をご紹介します。
池上本門寺では毎日、朝5時と夕方6時、池上の高台から鐘の音が響き渡ります。1282年(弘安5年)、日蓮上人は、武蔵野国池上、現在の東京都大田区池上の地で亡くなりました。この土地の豪族・池上氏が寄進した、およそ7万坪の土地に建てられたのが、現在まで続いている池上本門寺なんですね。
東急池上線の池上駅を降りると、本門寺までの道をたどります。和菓子や漬物、仏具といった、どこの門前町にもある商店が並びますが、ここ池上では、名物のくず餅を売る店が目立ちます。門前町を抜けると、大きな門、総門があります。門を抜けると、目の前に96段の石段ががあり、ゆっくりと昇ってゆくと、本門寺の広い境内に着きます。実に静かです。このお寺には広い墓地があるんですが、たくさんの有名人が眠っているんです。文豪・幸田露伴、歌舞伎の松本白鸚(はくおう)、先代の片岡仁左衛門、眠狂四郎でおなじみの俳優・市川雷蔵、そして、戦後の日本に明るさをもたらしてくれた、プロレスの王者・力道山も。力道山のご縁なんでしょうか、毎年行われる節分の豆まきには、プロレスやK−1、大相撲など格闘技の有名人が参加することが多いんだそうです。節分には、2万人もの人出があります。
年間行事で一番多くの人出があるのが、10月11日から13日にかけて行われる「お会式(おえしき)」です。特に、夜に「万灯練り行列」が行われる12日の参拝者は、およそ30万人。夜7時頃からはじまる練り行列は、およそ3000人の参加者が、2キロほどの距離を練り歩きます。纏や、色とりどりの照明に浮かび上がった万灯(まんどう)が延々と続き、深夜まで賑わいが続きます。参詣客の便を考えて開通した池上線は、ふだんはのんびりとした路線なんですが、この日ばかりは増便を出さなければさばけないほどの人出になります。都内でも有数の長い歴史のある門前町・池上。街を発展させてきた本門寺と共に、良さを保って成長しているようです。門前町・池上の最寄り駅は、東急池上線・池上と、都営地下鉄浅草線・西馬込です。
12月26日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、江東区「門前仲町」をご紹介します。
近頃、時代小説、それも江戸・深川界隈を舞台にした作品が人気を集めています。池波正太郎・宮部みゆき・山本一力などの作品をお読みになっている方も多いことでしょう。江戸時代のはじめ、三代将軍家光の頃、深川の永代島と呼ばれていたあたりに富岡八幡宮が作られました。砂州を埋め立て、6万坪あまりの広大な敷地となって「深川の八幡様」として信仰を集めました。1698年(元禄11年)、隅田川に4番目の橋、永代橋が架けられ、橋の完成によって、それまでは渡し船に頼っていた深川が大きく発展することになりました。
富岡八幡宮といえば、江戸勧進相撲の発祥地としても知られています。はじめて相撲興行が行われたのは1684年、永代橋が完成する前のことでした。相撲との深いつながりを示し、境内には横綱碑をはじめとして、多くの記念碑があります。江戸三代祭りの一つ、「深川祭り」は有名ですが、重さ4.5トンの日本一の大みこしは、境内で見ることが出来ます。
一方、深川不動堂はどのように作られたかと申しますと、江戸時代も半ば、勢力をつけてきた町人の間に不動信仰が高まり、成田山から本尊の出開帳、まあ、出張展示でございますね、これを望む声が強くなってまいりました。実現したのは、1703年と申しますから、赤穂浪士討ち入りの翌年のことでございました。江戸の開帳の場になったのが、現在の深川不動堂になっております。
深川不動では、年中、1日5回の護摩(ごま)修行が行われております。厄除け・家内安全などを祈る人の姿がみられます。深川は、江戸時代から門前町として発展、やがて料理屋や芸者が人気を呼んで、浅草と並ぶ下町の盛り場として賑わいました。明治・大正・昭和…と時代が移っても、門前町として栄え、現在では地名のほかに、駅名にまでなり、「もんなか」の略称で呼ばれています。富岡八幡宮・深川不動尊、どちらの参道にもおなじみの、和菓子・漬物といった店が並んでいますが、一段と賑わうのが、縁日。毎月1・15・28日は、両方の縁日になっておりまして、たくさんの屋台が出て、たくさんの人出があるんです。最寄り駅は、東京メトロ東西線、その名も門前仲町駅です。
12月27日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、葛飾区「柴又」をご紹介します。
葛飾区柴又。正式の呼び名は、経榮山題経寺(きょうえいざん・だいきょうじ)というんですが、誰もが「柴又の帝釈さま」と呼びます。江戸時代初期の創建で、300年以上の歴史があるお寺なんです。江戸時代の後半から参詣客がふえ、明治時代になっても変わることはありませんでした。鉄道が引かれたのも早く、1899年(明治32年)に帝釈人力鉄道というものが開通しております。この鉄道、客車の定員は6人。長さ1メートル80センチ、幅1.2メートルの車両を一人で、風の強い日は二人で押していたんです。当時の日本鉄道・金町駅までの営業距離は1.2キロでした。営業車両の数が64両もあった人力鉄道で、繁盛していたんだそうです。
1912年(大正元年)現在の京成電鉄の前身、京成電気軌道が開通、当初から電車の運転が行われ、さらに便利になって、帝釈天への参詣者が増えました。帝釈天へお参りして、江戸時代から名高かった川魚料理の店で食事をし、参道に並ぶ名物を土産に買って帰る…という、ごく普通の門前町だったんです。日本中に「柴又帝釈天」の名を広めたのはご存知、「男はつらいよ」。はじめはテレビで話題になり、後に映画化されて48本もつくられ「国民的映画」とまで呼ばれる映画でした。主人公・寅さんのふるさと柴又は、全国からたくさんの観光客が集まるようになりました。
現在、柴又駅前には渥美清さんが演じた寅さんの像が建てられ、街の様子もだいぶ変わってきています。しかし、東京都内とは思えないほど、のどかな気持ちにさせてくれる不思議な魅力がある街なんですね。帝釈天に向かう両側の商店も、よその観光地にくらべてのどかな感じがします。映画の場面そのままの景色がそのまま残されているのも嬉しいことです。
帝釈天の裏手には、江戸川が流れています。「男はつらいよ」にもたびたび登場した矢切の渡しも相変わらずの人気。広々とした土手の景色はあまり変わっていないようです。江戸の人々や寅さんも味わった川魚料理も健在、草だんごも変わらぬ定番のお土産になっています。全国区になっても、暖かさは変わらない…そんな門前町が柴又なんです。柴又帝釈天の門前町。最寄り駅は、京成電鉄金町線・柴又駅です。
12月28日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、江東区「亀戸」をご紹介します。
江戸時代から、「亀戸天満宮」「亀戸の天神さま」として親しまれている亀戸天神社の門前町として栄えてきました。まつられているのは、学問の神様・菅原道真(すがわら・みちざね)。亀戸天神の歴史は古く、1662年(寛文・かんぶん・2年)、四代将軍・家綱(いえつな)が土地・建物を寄付して立派な社殿が完成しました。学問の神様をまつる目的のほかに、どうやら、幕府の亀戸や本所の開発事業に役立てたいという狙いもあったようです。
江戸の郊外・亀戸村は、それまでは数多い小さな集落のひとつだったんですが、天神社の完成によって次第に参詣客がふえ、江戸市民の身近な行楽の場になっていきました。夜が明けないうちに江戸を発ち、舟や馬も使ってのんびりと亀戸村を目指したんですね。亀戸天神には、お参りする他にも、いろいろな楽しみがありました。まずは、花。季節ごとに目を楽しませてくれました。梅・藤・菊などが有名で、なかでも、見事な藤は歌川広重の「名所江戸百景」にも取り上げられ、現在でも、毎年多くの見物客を引き寄せているほど見事なものです。
続いては、味覚。門前町の常として、味にうるさい江戸っ子を満足させる店が次第に揃っていきました。そば・うなぎ・すし・うなぎをはじめとした川魚料理など、参詣客が増えるにしたがって、種類も増えたんですね。お参りして、花を楽しんで、食事も済んだ…となれば、次はお土産。現在も繁盛している、創業200年という「くず餅」や「あんみつ」でおなじみの船橋屋をはじめ、亀戸天神の周辺には長く愛されてきた和菓子屋さんが多いんですね。
さて、現在にも学問の神様・菅原道真公の信仰は変わることがありません。今年、平成18年の正月3が日の参詣者は、およそ15万人だったんですが、そのうちの実に7割が受験生とそのご家族だったそうですから、高く評価されていることがわかります。中学受験・高校受験・大学受験、そして、就職試験と、合格祈願の文字が書かれたたくさんの絵馬が並ぶおなじみの風景が、もうすぐ見られることになります。亀戸天神の境内には、たくさんの亀がいる池や、ふたつの太鼓橋など、心を落ち着かせる効果があるようです。受験生をお持ちの方も、そうでない方も、訪ねてみてはいかがでしょうか?
最寄り駅は、JR総武線・亀戸駅です。天神様までは10分ほどかかりますが、にぎやかな商店街のぶらぶら歩きをお楽しみください。
12月29日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、足立区「西新井」をご紹介します。
西新井大師が開かれたのは、平安時代のはじめの頃、1100年以上昔のことになります。西新井…という地名は、開祖の弘法大師にちなんでいて、弘法大師が一心に祈ると、お堂の西側にあった涸れ井戸から水が湧き出した…という言い伝えによるものなんだそうです。西の新しい井戸、これが「西新井」になったというわけです。
「厄除け」「火除け」の大師様として昔から有名で、おなじみの江戸切絵図にも西新井大師堂の名が見られます。絵図には、千住大橋を渡った先に「西新井大師」への参詣の道が、はっきりと記されています。厄除けのほかにも、このお寺は一年を通して花を楽しむことで知られていました。種類が多いんですね。一年に楽しめる花が、およそ30種類!なかでも「ぼたん」は有名で、ぼたん寺の別名があったほどです。
鉄道の開通は、といいますと、少々遅くなりまして、1931年(昭和6年)に大師前駅が出来ています。現在の東武線大師線の前身です。現在の営業路線、なんと1キロ!無人駅ではありますが、正月や毎月1日と21日の縁日当日、花の見ごろの時期などはたくさんの乗客が利用します。
古くから関東三大薬師のひとつとして定着しておりまして、西新井大師には日帰りの行楽を兼ねた参詣客が、たくさん訪れていたようです。そのため江戸時代から門前町が出来、賑わっていました。現在でも、それほど規模は大きくないんですが、いわゆる正統派の門前町の雰囲気を十分に残しています。繁盛している料理屋、みやげ物屋が多いんですね。威勢のいい呼び声、これを聞くと、参詣客も元気が出てくるほどです。
土産に草だんごを売る店が多く、山門の前に店を構える中田(なかだ)屋さんの開業は、なんと江戸時代の中ごろといいます。手元に天保3年、170年以上前の江戸名所図会がありますが、現在と同じ場所で営業をしています。長い年月をへても変わらない信仰を集めているお寺や神社、そして参詣客に愛されて発展してきた門前町。東京にも、まだまだ元気な門前町があるんですね。
|
|
|
|