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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月13日(月)〜11月17日(金)
今週のテーマは、「東京霊園散歩」
都内各地の霊園を訪ね、その場所にまつわる歴史や、そこで静かに眠る人々のさまざまなエピソードをご紹介します。

11月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、巣鴨「染井霊園」をご紹介します。

東京、巣鴨、高岩寺、通称・とげぬき地蔵。「おばあちゃんの原宿」としておなじみですね。毎月三回、「4」の日の縁日には大変な人出で賑わいますが、この「とげぬき地蔵」から白山通りを挟んで、ちょうど反対側には、喧騒とはまったく無縁な、心安らぐ静けさを満喫できる場所、染井霊園があります。

東京都立 染井霊園は、1872年(明治5年)に霊園として開かれました。江戸時代には、人々はみなどこかの寺の檀家となり、亡くなるとその寺の墓地に葬られるのが普通でした。ところが、明治政府は、国の方針として、「神道」を大々的に復活させることにし、それまで境があいまいだった「神様」と「仏様」を別々に分ける「神仏分離」の政策を勧めました。このため、明治維新後は、人が亡くなったとき、神道のやり方でお葬式が行われるケースが増えました。ところが、困ったのが、墓地。それまで墓地はすべてお寺に所属していましたから、神社には墓地がない。また、文明開化と共に、キリシタンの禁令も解かれたため、クリスチャンも増えてきましたが、教会にも墓地がない。そして、日本を訪れる外国人もどんどん増える一方、中には不幸にしてこの異国で命を落とされるケースも出て参りましたが、そうした方々を埋葬する場所もない。これではいかん、ということで、大慌てで公営の墓地を作る必要に迫られた政府は、1872年(明治5年)7月、青山百人町…現在の青山墓地ほか1か所を埋葬場所に指定。さらに同じ年の11月に4か所を追加しましたが、本日ご紹介する染井霊園は、その追加された場所の一つ。

もともとは播州…といいますから現在の兵庫県、林田藩建部(たけべ)家のお屋敷のあったところです。広さは6万7千平方メートル、東京ドーム、およそ1.5個分。お墓の数はおよそ五千五百ということですから、東京ドームの収容人員のだいたい十分の一。まあ、一つのお墓には何人もの家族が埋葬されますから、単純に比較はできませんが、かなりゆったりとしたスペースであることは確かですね。

ここ、染井の地は江戸時代から有名な植木の産地でした。そう、あの「ソメイヨシノ」もここで生まれた品種なんです。染井霊園の園内にもおよそ百本のソメイヨシノが植えられ、桜の季節ともなりますと、けっこうな人出で賑わいます。



11月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「谷中霊園」をご紹介します。

内回りの山手線に乗って、鶯谷から日暮里へ。電車は急な崖下を通りますが、その崖の上に見えるたくさんのお墓の群れ、こちらが、谷中霊園。もともとは「天王寺」というお寺の敷地の一部でした。開かれたのは、1874年(明治7年)のこと。こちらには、あの「最後の将軍」徳川慶喜、また「ニコライ堂」でおなじみ、ロシア正教会の修道士、聖ニコライ大主教…といった方々が静かに眠っていらっしゃいます。また、上野、浅草といった盛り場に近いせいか、数多くの芸能関係者も葬られています。たとえば、日本近代演劇の祖、川上音二郎。

1900年(明治33年)、フランスは花の都・パリーで録音された「オッペケペー節」、演じておりますのは川上音二郎一座でございます。1896年(明治29年)、音二郎は代議士選挙に出馬ますが、落選して一文無しになってしまいます。こうなりゃ海の向こうで巻き返しだ…と、妻の貞奴をはじめ、二十名近い一座をひきつれ、はるばる太平洋を渡ってアメリカへ。各地で公演を重ねながら艱難辛苦の末大陸横断、さらに大西洋を渡ってロンドン、さらには万博で賑わうパリへ。舞台の上での腹切り&芸者ショウが大受けにウケて、遂には登場したばかりのレコード録音も実現したという次第。残念ながら、最近発見されたこの貴重なレコード、川上本人の声は収録されていないものの、それでも当時の姿を伝える第一級の資料には違いありません。帰国した音二郎は、その後、興行師として活躍しますが、1911年(明治44年)、舞台の上で倒れ、死去。波瀾万丈の人生を、いかにも役者らしく終えたのでした。 日本の近代箏曲、「琴」の演奏家、作曲家としても名高い、宮城道雄も谷中霊園に眠る一人。このほか、天下の二枚目・長谷川一夫、新国劇の創始者・沢田正二郎といった人々のお墓が所狭しと並んでおります。晩秋の風情たっぷりの谷中霊園散歩、ちょっとオススメです。



11月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「青山霊園」をご紹介します。

メガロポリス・東京のまん真ん中にありながら、どこまでも深い静寂を味わうことのできる青山霊園。ところが、かつて、この墓地界隈に、深夜から早朝にかけ、皮ジャンにロンドンブーツ…といった風体の若者たちが行列を作り、散歩する人々を驚かせた時期がありました。
実はこれ、ハードロック、ヘヴィ・メタル系のチケットや整理券を求める列だったのです。招聘元、ウドー音楽事務所のオフィスがこの近辺にあるのが原因でした。チケットがインターネットなどで売られるようになった今は、あの早朝名物の行列も姿を消してしまいましたが、百年ほど前、この界隈を毎日、白馬に乗って通り抜けていたという、青山墓地に眠るこの方も、きっと驚いていたに違いありません。

その人の名は、乃木希典。青山霊園に眠る一人です。霊園にほど近い、外苑東通りに沿った一角に、乃木公園、乃木神社、そして地下鉄の乃木坂駅がありますが、これらの地名はすべてこの「乃木将軍」にちなむもの。今から百年ほど前、日露戦争最大の激戦地・旅順を、合計4万とも5万ともいわれる莫大な戦死者を出しながら、とうとう攻略に成功した陸軍の司令官、乃木。軍事力が何より重視され、戦争が日常茶飯だった時代のこと。司令官クラスの人間ともなると、国際的に知名度が高く、ましてや強敵ロシアを打ち破った司令官ともなると、正にスーパースターだったんですね。将軍の姿を描いた錦絵は大ヒット、また小説・講談なども次々に登場し、「乃木文学」というジャンルまでできてしまったほど。乃木将軍は日露戦争で自らも二人の子供を戦死させていますが、あまりにも多くの人命を失わせてしまった責任を感じ、帰国後、切腹するつもりだったといわれています。それを思いとどまらせ、学習院の院長というポストを与えたのが、明治天皇でした。そして6年後、乃木将軍は明治天皇が崩御なされたとき、そのご大葬の日に、夫人と共に壮烈な自刃を遂げたのです。

さて、青山霊園の関係者で、もしかしたら一番人気が高いのは、人間ではなくイヌかもしれません。その名は…「ハチ公」。あの忠犬ハチ公は、渋谷駅でずっと帰りを待ち続けた飼い主、上野英三郎(ひでさぶろう)の傍らに葬られています。青山霊園散策の折は、是非立ち寄りたいスポットです。



11月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「雑司ヶ谷霊園」をご紹介します。

早稲田から都電にのってゴトゴト、面影橋、学習院下、鬼子母神前…と来て、四つ目の停留所が「雑司ヶ谷」。電車を降りると、すぐ目の前が「雑司ヶ谷霊園」、園内には樹木も多く、この季節は紅葉も楽しめます。ここにもほかの都営霊園と同様、多くの文化人が永遠の眠りについていらっしゃいますが、「ちいさい秋見つけた」の作詞者、サトウハチローもその一人。ほかにも永井荷風、小泉八雲、竹久夢二など、そうそうたるメンバーが並んでおります。

その中にあって、最も有名な方…といえば、やはり、文豪・夏目漱石ではないでしょうか。
漱石の作品「こころ」にも、この雑司ヶ谷霊園が登場しています。主人公が敬愛する「先生」が、毎月、雑司ヶ谷にある友人の墓にお参りしているという設定。実はその友人は「先生」とある女性を争った間柄で、女性が先生の妻になってしまったため、自殺していたのです。ちょっと、朗読してみましょう。

 …私は先生に向かってこういった。
 「先生、雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
 「まだ空坊主(からぼうず)にはならないでしょう」
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
 「今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしてもよござんすか。
 私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
 「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
 「しかしついでに散歩をなすったら、ちょうどいいじゃありませんか」

主人公たちと同様、私たちも霊園散歩に出てみましょう。漱石の墓は、鏡子夫人が妹婿の建築士にデザインさせたという、安楽イスを形どったという巨大なもの。漱石らしくない、とあまりいい評判は聞こえず、菊池寛などは、「夏目さんのお墓は、随分評判のわるいお墓であった。自分で見るとこれじゃ評判のわるいわけだと思った」と、ひどい言い様でございます。皆さんもぜひ、ご自分の目で確かめてみてください。

さて、雑司ヶ谷にはいろいろな方が眠っていますが、我らが川口浩探検隊長もこちらの住人です。父親の作家・川口松太郎、女優・三益愛子、そして妻・野添ひとみといった皆様とご一緒。天国でもハラハラドキドキの毎日が続いているのでしょうか。



11月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「多磨霊園」をご紹介します。

東京で霊園・墓地を探したことがある方ならご存じの通り、現在、都営霊園で墓地を求めるのは至難の業。僅かな空き区画に、物凄い倍率の応募が殺到して、なかなか当たるものではありません。実はこうした問題は、八十年前、既に起こっていました。きのうまでご紹介してきた二十三区内の四つの霊園、染井、青山、谷中、雑司が谷は、大正のうちにほとんど空きスペースがなくなってしまったのです。

そこで東京市当局は大正の中頃、郊外の3つの方角…西、北、東に、それぞれ大規模な公園墓地を作る計画を立て、そのうち最初に作られたのが西側に当たる「多磨霊園」。現在の面積が128万平方bですから、東京ドーム27個分。中央広場から放射状に道が伸び、そこかしこに植え込みや芝生、そして古の武蔵野の面影を伝える赤松の巨木が立ち並んで、それは見事な公園となっています。

オープンしたのは1923年(大正12年)でしたが、最初はとにかく人気がありませんでした。なにしろ練馬・世田谷あたりはほとんど農地だった時代のこと、当時の行政区分でいえば多磨村と小金井村ですから、水道の水で産湯をつかった江戸ッ子の皆さんにとっては、果てしなく遠い、地の果ての場所のように思われていたのです。それが一変したのは、この超大物が、こちら・多磨霊園に葬られることになったから。

1934年(昭和9年)五月、東郷平八郎元帥が逝去。日本海海戦で世界最強のロシア・バルチック艦隊を打ち破った、乃木希典将軍と並ぶ日露戦争の大スターでございます。亡くなった麹町の自宅から、国葬の会場・日比谷公園まで、沿道の人出が60万人、会場付近の人出が70万人。さらにここから多磨墓地までの間にもおよそ60万人!東京の人口900万の時代に200万人以上が、元帥に最後の挨拶をしようと出かけたほどの人気者。この日、空き巣は稼ぎ放題だったと言われるほどです。そして、この埋葬と同時に多磨霊園の人気も急上昇。あの東郷さんがいるならウチも…と、墓地も飛ぶように売れ始めたというわけでございます。

この多磨霊園も、広大なだけありまして、有名人が一杯。「バラが咲いた」「えんぴつが一本」「愛のさざなみ」など、今も愛される曲をたくさん作った作曲家で歌手、浜口庫之助さんのお墓もこちらに作られています。そのほかにも埋葬されている方々のご紹介したいエピソードは山のようにあるんですが、そろそろお時間となりましたので、それは、いずれまたの機会に。



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