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9月25日(月)〜9月29日(金) 今週のテーマは、「東京ハイウエイ・ストーリー」 総延長およそ300キロ、一日の利用台数110万台。 首都・東京の大動脈となった首都高速道路のさまざまなエピソードをご紹介します。
9月25日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「首都高速・前史」をご紹介します。
1959年(昭和34年)、5月。4月10日に行われた皇太子殿下、現在の天皇陛下と美智子妃殿下、現在の皇后陛下との晴れやかな結婚式の興奮も醒めやらない中、東京にもう一つの興奮が訪れました。5年後、1964年(昭和39年)のオリンピック開催が決まったのです。しかし、準備に充てられる時間は、わずか5年。この二千日あまりの時間のうちに、競技場や宿泊施設を作り、交通網を整えなければならないのです。中でも、頭が痛いのが、東京の道路事情でした。
東京のほとんどが空襲により焦土と化した1945年、昭和20年からわずか14年後。とはいうものの、その復興のスピードはめざましく、モータリゼーションも凄まじい勢いで進んでいました。終戦の年、東京の自動車台数は4万台。ところが、オリンピック開催が決まった当時は、すでにその10倍、40万台を突破しており、さらに毎年3万台近く増え続けていたのです。
その一方、都内の道路整備は絶望的な状況でした。東京中が焼け野原となった戦後しばらくの間は、体系的な都市整備を行うにはまたとない機会。この点、名古屋などは、やがて来るクルマ社会を見越して、「100メーター道路」と呼ばれる幅の広い道路を次々に建設、画期的な戦災復興を遂げたのですが、東京は完全に失敗。大規模な道路といえば、関東大震災後に整備されたほんの一部分だけで、車が溢れてくるともうお手上げ。ラッシュになると都心部での平均走行速度が時速15キロ。日比谷、祝田橋、江戸橋あたりの交差点の渋滞は目を覆いたくなるほどで、あたりはクラクションの洪水。羽田空港から、代々木の選手村予定地まで、およそ2時間もかけなければ辿り着けない有り様で、道路事情の整備は急務でした。
この年の9月、史上最悪、5千人以上の死者・行方不明者を出した「伊勢湾台風」が日本を襲撃。オリンピックの開催に、さらに不吉な影が漂ったのです。しかし、開会式まであと5年。立ち止まる余裕はありません。東京では画期的な道路網建設に向けた動きが始まります。
9月26日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「脅威の突貫工事」をご紹介します。
東京オリンピックの開催が決まったのが1959年(昭和34年)、準備に与えられた時間はおよそ5年。現在の常識で考えれば、どう考えても時間が足りない…と思われますが、高度成長期の日本人は違います。とにかくヴァイタリティが凄かった。関係者の体の中には、凄まじい量のアドレナリンが流れていたんでしょうねえ。既に高度成長に突入していた東京の道路整備を、当時のペースで進めていくと、実は「五百年かかる」という試算があったんだそうです。これを、5年でやっつけてしまおうという、1年で百年分の工事を進めようというわけですから、ハンパじゃありません。
まず、プランが練り上げられました。実際は1953年(昭和28年)から、高速道路建設に向け調査は始まっていましたが、オリンピックの決定により、一気に計画が進められることになったのです。交通渋滞の一番の原因は、交差点での信号待ち。これを解消するには、道路を全て立体交差にした、自動車専用道路を建設するしかありません。夢のハイウエイ計画が始まったのです。
しかし、この過密都市・東京のどこに、そんな高速道路を作る余裕があるのでしょう。新たに用地買収などしていたら、とてもオリンピックには間に合いません。そこで目をつけられたのが、都内の川や皇居のお堀でした。「水の上なら空いてるじゃないか!」というわけで、埋め立てが可能なところは片っ端から埋め立て、無理なら水の中に頑丈な橋桁を埋め込むというやり方。こうした強引なやり方は、後に東京の景観を破壊したと、痛烈な批判を浴びることになりますが、当時、疑問を持った人はほんの一握りでした。東京のシンボルともいうべき「日本橋」も、高速道路の下に追いやられてしまいましたが、これはある意味、仕方のない話でした。というのは、江戸時代以来、東京、いえ、日本のすべての道路の起点はここ日本橋ということになっています。既存の道路網にリンクさせて高速道路を建設するなら、その合流点は、構造上、日本橋近くに設けざるを得なかった…というわけなんですね。さて、いよいよ道路の建設が始まります。
9月27日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「高速1号線」をご紹介します。
オリンピックの錦の御旗のもと、東京は大改造を余儀なくされ、美しい水の風景をさえぎるようにして、首都高速道路は建設されていきました。このうち、オリンピック以前に開通した主な路線は、羽田から都心へ至る「1号線」、そして都心から千駄ヶ谷、代々木方面へ至る「4号線」。つまり、選手や観客が到着する羽田空港と都心、そしてメインスタジアムや選手村のある神宮外苑、代々木方面をつなぐルートが大急ぎで作られたわけです。
当時のヒット曲、城山吉之助(しろやま・きちのすけ)さんが歌う、その名も「高速1号線」。現在も、都心と羽田方面をつなぐ大動脈として、欠かすことの出来ない道路がこの1号線ですが、工事はなにしろ、大変でした。オリンピックのためなら、仕方がない…と、多くの人々がグッ…と言いたいことをこらえていたのですが、しかし生活がかかっているとなれば、そう簡単にはいきません。工事に異を唱えたのは、羽田の漁師の皆さんでした。
羽田周辺は、最高級の「浅草海苔」の漁場。ここにトンネルを建設する。ついては、川を2年間せきとめなくてはならない…と聞いては、黙っているわけにはいきません。そんなことされては、おまんまの食い上げだ…と、猛反対が起きたわけです。実は、最初はここには橋をかける予定だったのですが、空港当局から飛行機の離着陸の妨げになる、とNG。そうなると残された選択肢はトンネルだけ。建設側としても、なんとか納得してもらわなければなりません。そこで生み出されたアイディアが、「沈埋(ちんまい)トンネル」でした。
ちんまい、と申しましても、どこかの方言で「ちっちゃい」とか、そういう意味ではございません。「ちん」は「沈める」、「まい」は「埋める」という漢字。普通は川をせきとめてトンネルを掘り、また埋め戻しますが、このやり方では、そんなまどろっこしいことはいたしません。まず、工場で、大きな密閉されたいくつもの鋼鉄の箱をこしらえます。で、これを、川の中に、つなげるようにして、沈める。沈めた後で、両サイドの壁をこわして、箱と箱をつなげる。つまり鋼鉄の箱を「沈めて」「埋める」というやり方ですね。鉄の箱を埋める工事に要したのは、わずか一日でした。
9月28日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「高速6号線」をご紹介します。
江戸の面影が色濃く漂う東海林太郎さんの「すみだ川」。しかしこんな情緒も、戦後の高度経済成長の中で、次第に失われていきました。洪水を防ぐための、悪名高い「カミソリ堤防」、そして、とどめを刺したのが首都高速6号線の建設でした。
東京オリンピックが無事に終わった後も、都内の道路事情改善のため首都高速の建設は続けられました。1967年(昭和42年)、浅草から見て隅田川の対岸、いわゆる「墨堤(ぼくてい)」の桜、およそ260本が、首都高の工事のため、谷中、染井の二つの霊園に移されることになりました。この桜、もとはといえば、四代将軍家綱公が植えたものに始まり、さらに八代吉宗公が植樹を命じ、以来江戸を代表する名所の一つになったという由緒正しい並木道。それほどの桜を、さすがに切り倒すまではできなかったにせよ、風景も情緒も何もかも関係なくよそへ移し、機能一点張りで情緒にはほど遠い高速道路を通す。高度成長というのは、そんな時代だったんですね。
移転を迫られたのは、桜だけではありません。このあたりにインターチェンジを作るから…と、あの「桜餅」で名高いお寺「長命寺」にも、そして江戸時代から続く老舗「言問団子」にも、移転を迫ったそうですから、時代の雰囲気というものは恐ろしいですね。結局、長命寺や言問団子はそのまま残り、また墨田公園の真上を通る予定だった高速のルートも、ほんの少し内側へ移動させ、墨田公園の中の桜だけは、移転を免れました。また、首都高速道路公団も、工事終了後、川岸に盛り土をして、200本の桜を新たに植え、現在に至っているそうです。
春の桜、夏の花火。隅田川がひときわ華やぐ季節、決まって話題になるのが首都高速の姿です。高度成長から三十年、バブルが弾けて十年、人々は暮らしの豊かさに思いを馳せるようになり、隅田川の上空を横切る高速道路を移動できないか…という真剣な議論が始まりました。墨田区でも、今後20年をメドに、高速道路や公園と川岸の間を通る「墨堤通り」の地下化を目指し、研究を進めているそうです。
9月29日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日本橋大作戦」をご紹介します。
「お江戸日本橋、七つ発ち…」
五街道の起点、いえ、日本のすべての道路の起点となるのが、中央区・日本橋。どれほど見事な橋なのか、場所なのか…と、観光気分で出かけてみると、頭の上に覆い被さる高速道路の眺めにガクッと来た…そんな話をよく耳にします。日本橋といえば、思い出すのが、広重の東海道五十三次、一番最初に出てくるあの木造りの橋ですが、現在の日本橋は1911年(明治44年)に開通した石造りのもので、国の重要文化財にも指定されています。そして、高速道路がその頭上にデーンと出現したのは、オリンピック前年の1963年(昭和38年)のこと。私たちは、もう43年も、この風景と共に暮らしてきたことになります。
もちろん、この東京での私たちの快適な暮らしは、首都高速道路なしには成り立たない…と、そんなことは重々承知してはおりますが、それでもやはり日本橋のあの景色は気になります。これは小泉純一郎前首相にとっても重要な問題だったようで、「日本橋を昔のように思いきって空に拡げよう」「世界で最も魅力的な場所にして欲しい」と、昨年、奥田・前経団連会長ら有識者会議に検討を依頼。首都高速の移動プロジェクトをスタートさせています。
日本橋界隈を空から眺めてみますと、四方からやってきた高速道路がこのあたりで複雑に絡み合い、改めてよくこんな道路を造ったものだ…と、感心せずにはいられませんが、日本を代表する場所の景観が、この道路のために、著しく妨げられていることもまた確かです。
高速道路をどうやって移動するか?
最初に思いつくのは、地下に埋めてしまうということですが、ある試算によれば、かかる費用が3千億から6千五百億! これだけの資金を、いったい誰が負担できるのかが一番の問題になりそうです。有識者会議の報告書では、江戸橋と竹橋の間、およそ2キロの高架部分をトンネル化。また川沿いの建物を撤去して水辺まで公園を拡げる…と、まことに気持ちのいいイメージが描かれてるだけに、なんとか実現したいものですが、さて、どうなりますことか。
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