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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
9月18(月)〜9月22日(金)
今週のテーマは、「東京の盛り場」
さまざまな東京の盛り場をご紹介します。

9月18日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。


9月19日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「新宿」をご紹介します。

甲州街道の最初の宿場として栄えた内藤新宿、トウガラシの産地としても有名でした。明治時代になって大きく発展するきっかけになったのは、蒸気機関車。1885年(明治18年)、宿場の北、角筈に日本鉄道の新宿駅が完成しました。現在の山手線ですね。完成した当時は利用者が少なく、雨の日などは利用者セロの日もあったそうです。数年後、現在の中央線が完成、昭和のはじめまでには、現在の京王線や小田急線の前身の会社も、相次いで営業を始めました。郊外から都心に通うサラリーマンや学生が利用するための映画館や劇場、レストランや酒場、それに、大きな書店が作られ、文化人の姿が似合う町になっていったんです。

やがて、太平洋戦争が始まり、新宿の街は焼け野原になってしまいました。戦後の復興の象徴となった闇市第一号が新宿駅に出来たことは、先月のこのコーナーでもご紹介しましたよね。間もなく、新宿を文化的で健全な娯楽を楽しめる街にしよう…という運動が始まったんです。
演劇の殿堂、歌舞伎の劇場をはじめ、いろいろな芸能施設を集めた一大芸能センターを作る計画でした。まず、町名が決まりました。歌舞伎町…。計画は途中で挫折したんですが、町名は残りました。現在では日本一の、いや世界一の歓楽街「歌舞伎町」に発展しているのはご存知の通りでございます。

学生運動が盛んな時代には、デモ隊と機動隊が激突したこともありました。1960年代そして70年代には、ヒッピーやフーテンなどが話題になり、新しいファッションや流行の発信地として有名でした。駅の西口にあった淀橋浄水場跡地が、新しいビジネス用地として生まれ変わることが決まったのは、1966年。新宿の高層ビル第一号の京王プラザホテルが完成したのは、1971年。そして、20年後の1991年には都庁が移転しました。僅か20年ほどで、あの高層ビルの群れが出来上がったんですね。現在の新宿駅の1日の乗降客数、およそ350万人! デパートや大型電気店もさらに進出、日本一の盛り場はますます成長しています。



9月20日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「錦糸町」をご紹介します。

江戸時代、このあたりは大名の下屋敷、旗本や御家人の住まいが多かったようです。池波正太郎の作品「鬼平犯科帳」にもたびたび登場しています。私鉄の総武鉄道の本所駅が開業したのは、1894年(明治27年)のことでした。その後、20年ほどしてから、現在の駅名・錦糸町に変更されました。錦糸町というのは、このあたり一帯が、通称、錦糸堀と呼ばれていたためで、錦糸の由来には、いくつかの説がございます。

その1.堀が多い土地で、朝日夕日が堀にさして、錦糸、錦の糸のようだったから
その2.堀のひとつに岸堀というのがあり、それが変化したもの
その3.近くで、琴の糸、錦糸を作っていたから

今となっては、どれが本当なのか分かりません。

現在の墨田区や江東区、戦前の表記ですと、本所区や深川区には、明治から大正にかけて、さまざまな工業が発展しました。マッチ、石鹸、レンガ、繊維、自転車、そして時計。活気に満ちた産業を支える従業員は休日になると、娯楽を求めて外出しました。当然ながら、劇場や映画館が次々に作られていったんです。1937年、錦糸町の駅前に、巨大な施設が完成しました。江東楽天地。映画館、劇場のほかいろいろと楽しめる工夫がされていました。現在では東京楽天地と名前が変わっていますが、相変わらず人気があるんです。この街、気軽に立ち寄れる店が多いのは、昔も今も変わりません。「どう、軽く一杯?」なんていう会話が、毎日毎日、総武線の車内で交わされていることでしょう。

錦糸町の楽しみは夜ばかりじゃありません。例えば、鮮魚の店、魚寅(うおとら)。この店を知らないのはモグリ、といわれ、駅前のランドマークになっています。マグロとタコのぶつを売る売り場には、いつも行列が出来ているんです。3年前には、東京メトロ・半蔵門線が乗り入れ、賑わいが増しました。JRとあわせた1日の乗降客数は、およそ25万人。総武線では第一位です。これに加えて、駅前のバスターミナルの賑わいもなかなかのものです。現在、16路線も乗り入れているんです。古い資料によると、明治時代の歌人で、小説「野菊の墓」で知られる伊藤左千夫は、鉄道が開通する5年ほど前に、現在のバスターミナルのあたりに住んでいました。何をしていたかといいますと、牧場を経営していたそうですよ。今年、駅の周辺に大きなショッピングモールがオープンしました。隣の亀戸とともに、東京の7つの副都心のひとつに数えられている錦糸町、本当に活気のある盛り場なんです。



9月21日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、戦後派の盛り場「池袋」をご紹介します。

江戸時代までは、小さな池の多い湿地帯だったとされています。明治時代になってからも、ホタルの名所として知られていたほどで、賑わいとは無縁の近郊農村だったんです。発展のきっかけは、やはり鉄道の開通でした。1903年(明治36年)、日本鉄道の池袋駅が開業しました。でも、しばらくは以前と変わらぬ寂れた駅舎がポツンと建っていたんです。開業からおよそ10年後、現在の西武池袋線と東武東上線が相次いで開通。計画では線路が都心部に延び、池袋は、ただの通過駅になるはずでした。しかし、諸般の事情で延長工事は実現しませんでした。こうして大きなターミナル駅として発展する基礎が出来ていったんですね。1918年(大正7年)、この街を大きく変える出来事が起きました。立教大学が築地から移転、続いて、師範学校、後の学芸大学や、いくつかの学校が池袋近辺に開校しました。

太平洋戦争が終わると、池袋も一面の焼け野原になっていました。いちはやく復興したのは、闇市でした。池袋の闇市、西口マーケットは、一番遅くまで、東京オリンピック直前の昭和37年まで営業していたんですね。有名な小説にもしばしば、登場しました。水上勉の「飢餓海峡」や五木寛之の「青春の門」には、たくましく生きてゆく庶民の舞台として描かれていましたね。ご記憶の方も多いことでしょう。

高度成長期に入ると、西武百貨店、東武百貨店などが急成長、高校生や大学生が溢れる若者の街として人気になったんです。昼は若者、夜は、若者と、寄り道して一杯…という社会人で賑わう街になりました。その後の発展振りは、皆様もよ〜くご存知でしょう。都内有数のショッピング街となったのに加えて、東京芸術劇場から小さな劇場までたくさんの劇場やホールが出来ました。映画館も多いですし、寄席まであるんです。そして、大型書店の激戦区でもあります。

最近の池袋、専門学校が多いんです。パソコンや料理、演劇…バラエティに富んでいます。当然、若い人が集まる。東口も西口も、通行量の多さは東京でも一、二を争うことでしょう。池袋駅の1日の乗降客数、新宿駅の350万人は及びませんが、250万人といわれます。駅を少し離れると、江戸時代の名所もたくさん残されていますので、街歩きには絶好ではないでしょうか。



9月22日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京を代表する盛り場「浅草」をご紹介します。

浅草の歴史は古く、少なくとも平安時代には、浅草寺の大きな伽藍が完成していたそうです。また、昔から、漁村として、隅田川の渡しがある集落として広く知られていたんですね。江戸時代になってから、浅草の人々は、日本橋や神田に行くことを、「江戸に行ってくる…」と言っていたそうです。
ともかく、浅草は両国と並んで江戸でもっとも古い盛り場なんです。江戸時代には、浅草では、いろいろなお祭りがあり、見世物や芝居や美味い食べ物を味わうことも出来ました。それから、吉原という一級の歓楽街もありましたよね。

浅草といえば「興行」を思い浮かべる方も多いことでしょう。明治の初め、浅草寺の土地が公園に指定され、広い区域を1区から7区に分けたんです。6番目の区画、六区が興行の地域で、「浅草六区」が興行街の代名詞になりました。明治の末には活動写真、大正中頃には浅草オペラが、昭和初期には映画という具合に、次々に人気を集める娯楽が登場していったんです。
戦災で浅草は焼け野原になりましたが、いち早く復興して営業を再開したのは映画館でした。しかし、1958年(昭和33年)をピークに、映画の人気は急降下、浅草六区の映画館は急速に姿を消していきました。映画だけでなく、喜劇の殿堂といわれた劇場は少なくなり、多くのコメディアンを生み出してきたストリップ劇場も減りました。でも、浅草の盛り場としての魅力は安泰なんです。昨年のつくばエクスプレスの開通によって新しい客層が増えているようですし、年間3000万人!とも4000万人ともいわれる参詣を兼ねた観光客の数は減っていません。

浅草の魅力って何でしょう?
月曜日の放送で、「盛り場」を辞書で引きますと、人が多く寄り集まってにぎやかな場所、繁華街…とあります。浅草こそ「盛り場」の典型といって良いのではないでしょうか。大いなるマンネリと申しましょうか、ここは誰もが安心できる場所なんですね。それにしても、初詣から、暮れの羽子板市まで、こんなにたくさんの行事が行われている街は、他にないでしょう。古くからあるのに、新しいことを積極的に取り入れている、とても不思議な街なんです。貪欲に取り入れて、それが不思議でも何でもなく似合ってしまうんです。一番良い例が、1981年から始まった「浅草サンバカーニバル」。すっかり夏の終わりのイベントとして馴染んでいますよね。



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