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9月11日(月)〜9月15日(金) 今週のテーマは、「東京・水のある風景」 かつて、イタリア・ヴェネツィアに負けず劣らずの「水の都」として、世界にその名を轟かせた江戸・東京、その中でも選りすぐりの水の名所をご紹介します。
9月11日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「佃・月島界隈」をご紹介します。
その昔、江戸、そして東京の街の中には、縦横無尽に水路が張り巡らされておりました。広重や北斎らの浮世絵を眺めても、そこに溢れているのは美しい水辺の風景。幕末の頃、ヨーロッパに大量に輸出されたこれらの絵が、ゴッホやゴーギャンら、印象派の画家たちに大きな影響を与え、江戸への憧れをかき立てたことは、よく知られています。そんな江戸の街の「元祖ウォーターフロント」が、佃島。もともとは、隅田川が江戸湾に注ぐ三角州に浮かぶ、小さな自然の島でした。
1590年、徳川家康が江戸に入ると、島は摂津国佃村、現在の大阪市西淀川区の漁民に与えられ、はるばる移ってきた人々は、この島に故郷の名を与えました。これは、佃村の住民たちが、本能寺の変の折、家康のスピーディな移動のため力を尽くした。そんな縁がもとになっている、と言われています。人々は、さらに故郷の氏神、住吉神社をこの地に分霊、わかりやすくいえば「支店」を作ったようなものですね。この住吉神社の三年に一度の大祭が、世に名高い「佃祭」、次回は再来年の開催でございます。
落語「佃祭」は、佃祭を見物にやってきた小間物屋の次郎兵衛さん、最終の渡し船に乗って江戸に帰ろうとしたら、かつて助けた女に呼び止められる。結局「しまい船」に乗り損ねてしまいますが、ところがその船が定員オーバーで沈没、乗客乗組員全員死亡という大惨事に…というお話。佃島がかつて文字通りの「島」だったことがよくわかります。この名高い「佃の渡し」も、佃大橋が開通したため、1964年(昭和39年)、三百年の歴史にピリオドが打たれました。
「もんじゃ焼き」は、もともとは天然の島だった佃島ですが、後に北側に石川島、そして明治に入ってからは西側に月島が埋め立てられ、この一帯の陸地はどんどん広がっていきました。月島名物といえば、なんといっても「もんじゃ」。このあたり、空襲の被害をほとんど受けなかったため、古くからの町並みが残り、また一方では、ウォーターフロント開発の口火を切った、大川端リバーシティの高層マンションが立ち並び、21世紀の新しい水辺の風景を楽しめる一角となっています。
9月12日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「銀座」をご紹介します。
神戸一郎さんのヒット曲「銀座九丁目水の上」。「水のある風景」で「銀座」が登場することに、もしかしたら驚かれた皆さんも多いかと思いますが、かつての銀座はその四方を水路に取り囲まれた、まさにちょっとした「島」のような存在だったんですね。数寄屋橋、新橋、京橋、三原橋…銀座の入り口にあたるポイントの多くに「橋」という言葉がついていることからも、おわかり頂けるかと思います。
現在はこれらの「橋」は地名として残るだけですが、かつては、すべてが実際の「橋」、銀座は正に「水の都・東京」を象徴するような街だったのです。「銀座九丁目水の上」は、1958年(昭和33年)のヒット曲ですが、銀座を取り囲む水路の一つだった「汐留川」を歌ったもの。皆さん、ご存じのように、銀座は北から順に一丁目、二丁目…ときて、一番南側が八丁目となっていますが、この「汐留川」は八丁目の南側、新橋との境目を流れていたために、それを洒落て「九丁目」といったわけです。この歌を作詞したのは、詩人の藤浦洸(ふじうら・こう)さん。当時、汐留川の杭の上に夜だけ組み立てる屋台のおでん屋さんが営業しており、その屋号が「銀座九丁目」、これを面白がった詩人が歌謡曲の詩を思いつき、ヒット曲が生まれたという次第。ちなみに、この「銀座九丁目」というおでん屋さん、川を埋め立てた後の高速道路下の商店街で、現在も営業中です。
懐かしいポンポン船。「水の都」東京にとって、「船」はなくてはならない存在。縦横無尽に走る水路の上を、大小様々な船がひっきりなしに行き来して、生活必需物資を運んでいました。そしてまた、船の上に暮らしていた人々…いわゆる「水上生活者」も、数多くいたのです。実は、先ほど話に出たおでん屋さんも、当時は水上生活者。明治の末ごろ、東京の人口が200万人ほどだったころ、水上生活者が3万8千人いた、という統計があります。だいたい東京の人口の50分の1が、水路に浮かぶ船の上で暮らしていた、そんな時代があったんですね。しかし第2次世界大戦中から水の上で暮らす人は減り始め、さらに戦後、水路の埋め立てや陸上交通の整備により激減。現在では「水の上で暮らす」という選択肢は、完全に姿を消してしまうこととなったのです。
9月13日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「皇居内堀」をご紹介します。
東京都心で、水のある美しい風景…といえば、まず思い出すのが皇居の内堀ではないでしょうか。かつて文化放送があった四谷から、新宿通りをまっすぐ、つきあたりまで行くと、そこは半蔵門。ここから右に曲がり、お堀に沿って一周してみましょう。ほどなく右手に見えるのが、国立劇場の美しい姿。坂を下りていけば、桜田門には警視庁。日比谷で左に折れると、右手に見えるのは、第一生命館。ここはかつて、GHQ、連合国最高司令部が置かれ、かのマッカーサー元帥が指揮を取っていた由緒ある場所。ビルは既に立て替えられてしまいましたが、マッカーサーの執務室や、昭和天皇と会見した部屋などは、当時のままで残されています。
さて、お堀端を北へと進んでいくと、カルガモで名高い三井物産のプラザ池を通りすぎ、さらに竹橋を過ぎて北の丸方面へ向かうと、あの大きなタマネギが見えてきます。ビートルズ以来、東京ドーム完成まで、ビッグなコンサート会場といえば、ここ日本武道館。この「ブドーカン」という名前が海外にも知れ渡ったのは、1978年(昭和53年)にリリースされた、チープ・トリックの名盤「アット・ブドーカン」というライヴ盤でした。
当時、日本での人気が非常に高かった彼らが、武道館での公演を日本限定発売。それを持ち帰ったアメリカ人が、地元のラジオでかけた所、リクエストが殺到して、この「甘い罠」が全米7位まで上昇。慌ててアルバムも発売したら、なんと全米NO.1に。コンサートホール「武道館」の名前も、全世界に知れ渡ることになったのでした。今でも、お堀に沿って九段の坂を上っていくあの風景は、コンサートに出かける気分を浮き立たせてくれますよね。
さて、武道館の入り口を過ぎて、お堀に沿って左に曲がれば、そこは千鳥ケ淵。ボートに乗って、見事な石垣を眺めていると、江戸時代にタイムスリップしたかのような気分が味わえます。
お堀端の散歩へと戻りましょう。最近、何かと話題になることの多い、戦没者墓苑を右手に見て、英国大使館前を左へ。するとまもなく、出発点の半蔵門が見えてきます。これだけ歩くと…さすがにちょっと、疲れますね!
9月14日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「柳橋」をご紹介します。
井の頭池に流れを発する神田川は、現在の飯田橋駅付近で大きく左側へと流れを変え、ここで江戸城の外堀とつながり、JR中央線に沿ったルートを流れ始めます。御茶ノ水、秋葉原を過ぎて、浅草橋駅付近で隅田川に流れ込みますが、その合流地点が「柳橋」。古くから花柳界が栄えた土地として有名です。
江戸随一の粋な街とうたわれた、この柳橋。「お富さん」の歌ではありませんが、風情のある黒板塀の料亭が立ち並び、夜ともなれば芸者衆が行き交った、そんなオトナの街でした。
「春の夜や 女見返る 柳橋」
正岡子規のこんな有名な俳句もございますが、かつての栄え様は、それは大変なものだったそうです。想像してみてください。当時の隅田川は、現在のようなコンクリート張りではなく、川っぷちの土手はごく普通の地面。そこに上水道としても使われた神田川の清流が流れ込む。大小様々な船が行き交い、川岸には美しい芸者衆の姿。なんとも素敵な風景ではございませんか。今では、当時の栄華を偲ぶよすがもありませんが、現在でも営業中の老舗が、「亀清楼(かめせいろう)」。安政元年創業といいますから、百五十年からの歴史を誇るこちらのお店、古くから角界とのかかわりも深いことから、横綱審議委員会も開かれているという、大変な格式です。もちろん、窓からは隅田川が見渡せて、なんともいい気分。21世紀の現在でさえ、これだけ風景を楽しめる場所、柳橋の花柳界が全盛の頃だったら、どれほど美しい景色を眺めることができたのでしょう。
この柳橋界隈には、現在も船宿がいくつか残っており、またおいしい佃煮屋さんも軒を連ねております。こちらで買った佃煮をつまみに、酒でも飲みながら、かつての柳橋に思いを馳せる。で、お勧めなのが、1956年(昭和31年)の映画「流れる」。柳橋の芸者置屋を舞台にした幸田文の名作の映画化で、監督は名匠、成瀬巳喜男。DVDにもなっております。柳橋のロケ場面もふんだんに登場して参ります。今ではすっかり失われた風景を楽しむ、これもまた、古い映画を見る楽しみの一つではないでしょうか。
9月15日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「荒川遊園地界隈」をご紹介します。
首都高速道路は、東京オリンピック直前、数多くの水路を埋め立てた上に建設されましたが、さすがに埋める訳にはいかなかったのが、隅田川、荒川。首都高速中央環状線を川口へ向け走って参りますと、進行方向左側に、それは見事な隅田川、そして荒川の眺めが広がっております。その二本の川の対岸にあるのが、本日の目的地。王子から都電に乗って四つ目の停留所、「荒川遊園地前」。ここから3分ほど歩いた場所にあるのが「あらかわ遊園」。荒川区が運営している、とってもキュートな遊園地です。遊園地のすぐ後ろ側には隅田川が流れ、東京水辺ラインの発着場も設けられています。
なんともかわいらしい観覧車に乗ると、雄大な隅田川の眺めが楽しめて、気分はスッキリ。また園内には「どうぶつ広場」があって、子供たちはヤギやヒツジ、ウサギ、モルモットなどとの触れ合いを楽しむことが出来るんです。
このあらかわ遊園が誕生したのは1922年(大正11年)。広岡勘兵衛(ひろおか・かんべえ)という方が、当時民営だった王子電車…現在の都電・荒川線の援助を受けてオープンした民営の遊園地でした。入場料は、王子電車の往復運賃とセットで35銭。鉄道会社が、沿線にレジャー施設を設ける、「走り」のような存在だったわけですね。
当時の敷地は広大で、園内には大きな滝や池が作られ、さらには映画館や大浴場などもあり、城北地区の一大レジャーセンターとして親しまれました。当時の宣伝文句をご紹介しましょう。
「東京に最も近き避暑地 山水木石園内貳萬坪完備
暑さ知らずの仙境 凉味萬斛(まんごく)、風景絶景
有名なるあら川大瀧あり 安全飛行塔數十臺建設」
この文句からだけでも、ずいぶん見事な水辺の景色が広がっていたんだろうな…ということがわかります。しかし、戦争が激しくなるとこの遊園地は陸軍に接収され、高射砲陣地に。そして終戦後、荒れ果てていたところを、1950年(昭和25年)、荒川区営の施設として再出発。現在の、のどかな遊園地としての歴史が始まりました。皆さんも秋晴れの休日、お出かけになられてはいかがでしょう。
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