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8月7日(月)〜8月11日(金)今週のテーマは、「東京 1945 夏」 あの夏のさまざまな出来事をご紹介します。
8月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「空襲」をご紹介します。
1944年(昭和19年)11月から本格化したアメリカ軍の空襲は、昭和20年に入ると、激しさを増してきました。3月10日と5月25日、2度の大空襲を中心に、東京は連日のように空襲を受けました。
サイパンやテニアンを飛び立ったB29の編隊は、一路北に向かい、富士山が見えてから右に、東京方面に、進路を変えたそうです。終戦までの空襲回数は、100回以上。全国に落とされた爆弾や焼夷弾の量は、およそ16万トンといわれています。しかし、5月25日の空襲のあと、アメリカ軍は、こんな結論を出しました。
「もはや、東京に攻撃目標なし」
東京都心部の大規模な攻撃はなくなり、代わりに地方都市が新しい目標になっていきました。
1945年、夏。空から攻撃してくるのは、爆撃機ばかりではありませんでした。房総半島の沖にまで姿を現した空母を飛び立った戦闘機が我がもの顔に日本の空を飛ぶようになったんです。戦争末期を体験された方の思い出話には、「爆撃も怖かったが、いきなり襲ってくる戦闘機は、とても怖かった…」という思い出がたびたび出てまいります。
食料を買い出しにいく人を乗せた列車や、学校や畑も攻撃を受けたんですね。東京の最後の空襲は、1945年8月15日、午前1時。現在の奥多摩町(まち)、当時の西多摩郡古里村(ふるりむら)がB29、8機による攻撃を受けた記録が残っています。70歳以上の方であればご記憶でしょう、灯火管制というものがありましたよね。黒い布で電球を覆ったり、黒塗りの電球を使ったりしていました。空襲の際に、明るいと目印になるから…という理由で厳しく制限されていましたが、この灯火管制が解除されたのは、終戦から5日目の8月20日のことでした。平和を実感できたのは、夜になって明かりをつけることが出来るようになった時だった、という印象を持った方が多かったそうです。
8月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「玉音放送」をご紹介します。
1945年(昭和20年)8月9日、日本政府は、ポツダム宣言を受諾することを決定しました。しかし、陸軍の若手将校の中には、無条件降伏に反対する者がいたんです。続く8月14日の御前会議で、昭和天皇は改めて無条件降伏を受け入れることを告げ、翌日正午から、天皇自らがラジオで国民に告げることに決断しました。録音は、14日の深夜、皇居で行われ、完成した2組の録音盤、レコードは、皇居内に保管されたんですね。
反対派はクーデターを実行に移しました。近衛師団長の説得に失敗、師団長を射殺して偽の命令書を出して、部隊の一部を動員したんですね。放送の録音が済んだことを知り、命令が下されました。
「玉音盤を探せ!」
皇居内に兵士が侵入し、録音盤の捜索が続けられました。見つからない。
「必ずある。もう一度、よ〜く探せ!」
その頃、偽の命令が下されていたことが分かり、東部軍司令官田中大将みずから鎮圧に乗り出しました。夜が明ける頃、反乱側は司令官の説得に応じ、クーデターは失敗しました。
8月15日午前7時過ぎ。正午から、天皇陛下の放送が行われることの予告がラジオで流されました。出力は、10キロワットに規制されていたのを、特別に60ワットに引き上げ、海外にも短波放送で流されることになりました。そして、正午過ぎに放送。反乱に加わった将校は、宮城前や、近衛師団司令部などで自決、一部では混乱があったものの、日本は平和の時代に入っていくことになるんです。
8月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「あの夏の暑さ」をご紹介します。
終戦の年、1945年といいますと、お年を召した方に伺いますと…必ずといっていいほど、「いやいや、とても暑かったですよ」という答えが返ってまいります。
当時の気温、どのくらいのものだったんでしょう?
大手町にあります気象庁の1階の天気相談所には、過去の観測資料が保管されています。昭和20年8月は、確かに暑かったんですね。最高気温が30度を超えた日が、20日もありました。終戦の日、8月15日はと申しますと、最高気温32.3度、最低気温は23.6度でした。実は、太平洋戦争中は、天気予報はなかったんです。正確には、軍の機密として公表できなかったんですね。1941年11月30日には、新聞に天気図を載せることが禁止され、12月8日には、気象情報を一般発表することが禁止されました。新聞からもラジオからも、天気予報は消えてしまったんです。
天気予報が復活したのは、ラジオは8月22日。正午のニュースに続いて東京地方の天気予報が流されました。そして、翌日8月23日には新聞の天気予報が復活しました。では、8月22日17時 中央気象台発表の天気予報をご紹介します。
関東地方 北東の風、曇り勝で山岳方面では なほ驟雨(しゅうう)がありませう
復活した天気予報を見て、戦争が終わったことを実感した…という思い出話が多いのは、ご存知の通り。平和が戻ってきたんです。
8月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「食糧不足と闇市」をご紹介します。
太平洋戦争が長引くと、食料不足が深刻な問題になってきました。1945年になると、外地からの輸送量が大きく落ち込み、加えて天候不良が追い打ちをかけました。
1日の必要カロリーは、成人男子の場合で、2500キロカロリーと言われています。しかし、終戦の年には、配給で得られるのは僅か1000キロカロリーほどに下がっていました。新聞や雑誌に、「食べられる野草」あるいは「どんぐりやツルの調理法」の記事が載るほどにようになっていたんです。
カロリーの不足分は、どうやって補っていたか?
各自が努力して、食料を確保していたんですね。ヤミ…という言葉が使われました。
そして、終戦。戦後の混乱期を象徴する言葉に「闇市」というのがありますが、最初の闇市が出来たのは終戦からわずか2週間しかたっていない8月末でした。新宿東口のマーケットが闇市第一号です。闇市は、あっという間に広がりまして、都内だけでも、銀座、渋谷、池袋、上野、浅草などに出来ました。
ここには何でもありました。最初に登場したのは、台所用品と日用雑貨でした。空襲で焼けてしまった人が、それほど多かったんですね。でも、すぐに食料品が中心になりました。闇市では、米でも、酒でも、アメリカのタバコでも、何でも手に入れることができました。ただし、お金さえあれば…のことですが。
人々は、着物や宝石や時計など、食料に変えられるものを次々に手放し、田舎や闇市で食料品を手に入れるようになりました。戦後の流行語のひとつ、「タケノコ生活」の始まりです。
闇市で人気があったのは、米、食用油、砂糖。どれも基準価格の数十倍から数百倍という高値でした。戦争が終わった1945年(昭和20年)、日本は空前の凶作に見舞われます。労働力不足に加えて、肥料を使わずにいたため土地が弱っていたことと、天災が多かったことが原因でした。それがまた、次の値上がりの引き金になったんですね。
戦争が終わり、海外から兵士と一般市民、あわせて600万人が帰国します。食糧不足は、大きな社会問題になり、各家庭では、食料確保が日課になっていたんです。
8月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「マッカーサーと占領軍」をご紹介します。
1945年(昭和20年)8月30日、神奈川県厚木基地に、1機の輸送機が着陸しました。やがて降り立った人物こそ、その後の日本の運命を握る男、マッカーサー元帥でした。それからの5年8ヶ月、約2000日におよぶマッカーサー時代の始まりです。
占領軍の第一波が到着したのは、その僅か2日前のことで、降伏反対を叫ぶ軍人がいることもあって、日米双方が厳重な警戒をする中で、マッカーサーは到着したんですね。つい2週間前までは敵味方だったわけですから、さぞ、緊張して上陸してきたことでしょう。しかし、大きなトラブルもなく、日本軍の武装解除は進み、主要都市から順番にアメリカ軍の進駐が始まりました。2ヶ月もたたないうちに、日本全国に60万人のアメリカ軍があふれました。全国の中でも、東京は大きな変化に見舞われ、焼け跡が目立つ都心の道路には、英語表示の道路標識が作られ、アメリカ軍のジープが走り回ったんです。
9月2日、残暑の残る東京上空は、数え切れぬほどのアメリカ軍機の編隊が通過していきました。この日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズリー艦上で、降伏調印式が行われたんです。日本の全権に続いて、マッカーサー以下が署名、名実ともに戦争が終わったのです。アメリカ軍が東京に進駐したのは、9月8日でした。
GHQ、連合軍最高司令官総司令部が置かれた第一生命ビルをはじめ、都心の焼け残ったビルの多くが、連合軍の施設として接収されました。ところが、東京でも、また、同じようにアメリカ軍の接収を受けた面積が多かった神奈川県でも、何やら陽気な開放感が漂っていた…そうなんですね。緊張して乗り込んできて拍子抜けした、と多くのアメリカ兵が感想を残しています。長く苦しい戦争の時代が終わったことが、人々を無意識のうちに明るい気持ちにさせていたのかも知れませんね。残暑が終わる頃までには、東京の街の混乱は収まり、新しい時代がスタートしていました。
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