|
|
|
7月31日(月)〜8月4日(金)今週のテーマは、「東京 夏の風物詩」 夏に欠かせないあれこれをご紹介します。
7月31日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「蚊取り線香」をご紹介します。
夏といえば、迷惑なのが「蚊」。昔の人も、いろいろと対策を講じておりました。蚊遣(かやり)といいまして、ヨモギの葉などをいぶしていたんです。でも、蚊が退散するより先に、人間の方がまいってしまうほど、けむかったんです。
蚊取り線香が生まれたのは、明治23年(1890年)のことで、それほど古いことではないんです。作ったのは、上山英一郎(うえやま・えいいちろう)という青年でした。殺虫効果のある植物・除虫菊の種をアメリカ人からもらったのをきっかけに、長い研究の末に完成させたんです。しかし、最初の蚊取り線香は、現在の渦巻き型ではなく、普通の線香と同じ棒状でした。便利ではあるんですが、40分ほどで燃え尽きてしまうんですね。そうすると、また…。
何か良い方法はないか?
その時、奥さんの「ゆきさん」が、素晴らしいアイデアを出しました。
「渦巻き型にしてみては、どうでしょう」
さっそくテストに取り掛かり、現在みられる渦巻き型の蚊取り線香を発売したのは、明治35年(1902)のことでした。改良によって、効果は7時間も続くようになりました。「これは便利だ!」あっという間に、渦巻き型が主流になり、それと並行して、原料の除虫菊も輸出が増え、外貨獲得に大きく貢献したんですね。
ちなみに、あの渦巻き、まっすぐ伸ばすと、どのくらいの長さがあると思います?
およそ75センチもあるんですね。発売当時は、手作業で製品が作られていたんですが、熟練者は、1日に3000巻から5000巻も作っていたそうです。さて、ご紹介してまいりましたこの会社、皆さん、よ〜くご存知ですよね。「金鳥の夏 日本の夏」のコマーシャルでおなじみの、大日本除虫菊株式会社です。その後、研究が進んで、昭和33年には、除虫菊の成分は合成できるようになりました。最近では、煙の出ない電気式や電池式の蚊取り製品が出ていますが、ゆるやかに煙が立ちのぼる蚊取り線香の味わいは、いまでも日本の夏の定番の風景になっているんですね。
8月1日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「花火」をご紹介します。
夏といえば、そう、花火。鉄砲が日本に伝わった1543年以降、戦いのための火薬の研究が続けられる一方、観賞のための用途、花火、も作られ始めました。日本人で最初に花火見物をしたのは、徳川家康とも、伊達政宗とも言われますが、はっきりしたことは分かりません。江戸時代の中頃になると、大名や裕福な商人などが川遊びで花火を打ち上げ、それが次第に広まっていったといわれます。花火は江戸の川開きに欠かせないものとなりました。鍵屋と玉屋が人気を競った時代は、江戸時代も末に近い頃でした。明治時代になると、外国から進んだ技術が入り、さまざまな色が加わり、また、格段に明るくなったんです。
花火といえば、派手な打ち上げ花火が取り上げられることが多いんですが、家庭で楽しめる「おもちゃ花火」もなかなか味わいがありますよね。おもちゃ花火の種類は、およそ300種類あるといわれています。「線香花火」や「ネズミ花火」などは、今でも公園や庭先で楽しますが、これも江戸時代から楽しまれていました。夏になると、子供も含めた花火売りが江戸の街を盛んに売り歩きました。「花火売り」は、浮世絵にも描かれるほど生活に密着した光景だったようです。この線香花火ですが、中国からの輸入品に押されて、7年ほど前には、国内最後の工場が、製造を中止してしまったんだそうです。台東区蔵前で四代続く玩具と花火の問屋、山縣商店の社長、山縣常浩(やまがた・つねひろ)さんにお話を伺いました。
山縣さんたちが中心になって、保存運動をはじめ、色がキレイで3段階に変化する、昔ながらの線香花火を復活させることに成功したんですね。現在、1年間に輸入される線香花火、およそ2億本、これに対して国産の線香花火、およそ100万本。だいぶ開きがありますが、少しずつ生産が増えているようです。
8月2日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「スイカ」をご紹介します。
スイカの原産地は南アフリカとされています。ウリ科の植物です。日本には、中国経由で入ってきましたが、16世紀とも17世紀とも言われています。中国には、西の方から伝わったために、西のウリ、西瓜となったそうですよ。江戸時代、スイカは余り人気のある果物ではなかったんだそうですね。皮が固く、水分が少ない…そんな理由ではじめは好まれなかったようです。
明治時代の初めから、改良が進められました。アメリカ産の種を輸入したり、研究が続けられたんです。盛んに研究が行われたのが、奈良県でした。現在でも、スイカの種の生産では、奈良県が断然1位なんですよ。
意外なことがあります。
私たちが馴染んでいるスイカといえば、緑に黒い縞が入っていますよね。あのタイプのスイカが登場したのは、なんと昭和のはじめだったんです。現在の形になるまでには、長い長い改良の歴史があったんです。
昔は夏だけに収穫されたスイカですが、現在は一年を通じて食べることが出来ます。でも、産地によって、出荷の時期が大きく違っているんですよ。早いのが、沖縄や高知県で、年末から春先にかけて。次に、熊本産が、4月から6月にかけて出回ります。千葉産のピークは6月から7月。これからの時期は、山形、新潟、長野などで栽培されたスイカが多くなるんです。ちなみに、生産全国一は熊本県、そして、第二位が千葉県がなんですね。
品種改良とは別に、昭和30年代の中頃に登場したのが、小玉スイカです。大きいのは少人数では食べきれないし、冷蔵庫にも入らない…という声に答えて開発されたものなんですが、最近では核家族化が進むにつれて、生産が増えていると伺いました。スイカは、水分補給が出来て、栄養分も多いんですね。冷やしすぎないように、15度くらいにして食べるのと、一番おいしいそうですよ。
8月3日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ラムネ」をご紹介します。
ラムネが日本にお目見えしたのは、幕末の重大事件、あのペリー来航のときでした。浦賀奉行所の役人たちにアメリカ側が提供したのが最初…といわれます。黒船に乗り込んで緊張する日本側の役人たち。
そこに、突然、「ポン」という音。
「すわ、鉄砲の音か」
慌てふためく幕府側、だまし討ちか、と大騒ぎになったそうです。
レモネードがなまって、次第にラムネと呼ばれるようになりましたが、かなり高い飲み物でした。ラムネが生活に定着したのは、意外な出来事がキッカケでした。明治時代の中頃、東京でコレラが大流行したことがありました。その時、某新聞が、「炭酸の入った水を飲んでいればコレラにかかることはない」という記事を載せたんです。これはいい、というわけでラムネが売れに売れ、値段も下がったというわけです。
最初の頃、ラムネは、コルクの栓をするようになっていました。ちょうど、ワインや、シャンパンのようだったそうです。その後、ビー玉で栓をするようになり、後に、王冠が発明されても、ラムネ業界は昔のままの製法を続けたんです。戦後、清涼飲料の王座をサイダーに奪われ、さらに、新顔のコーラに抜かれましたが、ラムネの人気は相変わらず高いんです。
台東区根岸にある宮岡商店を訪ねてまいりました。昭和26年の創業、年間およそ8万本を製造しています。創業当時は都内に100社ほどあったラムネ製造も、現在では10社ほどになってしまいました。でも、宮岡商店の「三ノ輪ラムネ」のブランドは健在です。工場の製造ラインには活気があります。
そうそう、戦前の海軍の軍艦には、必ずラムネ製造機が設置してあったそうです。水兵さんはラムネが大好きだったようで、海で揺れてもテーブルから落ちないようにラムネのビンは六角形をしているんですよ…と、宮岡商店社長の宮岡茂(しげる)さんが教えてくれました。ラムネのビンは、ずっと昔からリサイクルシステムが取り入れられていました。最近ではプラスチック製のものも出ていますが、やはりガラスのビンが一番ですね。
8月4日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「屋形船」をご紹介します。
屋形船は、古く平安時代から、上流階級の遊び用に造られました。船の上に屋根を取り付けたもので、はるか昔は、数人で川遊びを楽しむためのものでした。江戸時代になると、大名や豊かな町人の遊び用に賃貸するためのものとなりました。賃貸用に豪華に造られ、隅田川の贅沢な川遊びといえば、屋形船を使うものとされていたんですね。
世界最大の消費都市・江戸の賑わいは、花柳界や、豪華な料理屋の発展をもたらし、大川端にはたくさんの船宿が出来たことは、この東京歴史探訪でもお伝えしてまいりました。川べりで夕涼みを楽しむ庶民には無縁の、華やかな世界は、当時の浮世絵にも格好の題材として描かれています。時代が明治を迎えても、明治政府の高官や実業界の利用は盛んに行われました。戦争の気配が濃くなってきた昭和のはじめになると、舟遊びは贅沢として取り締まられるようになり、太平洋戦争が始まると規制されてしまいます。
そして、終戦。
両国の花火大会が再開されたものの、経済の復興と共に、肝心の隅田川の汚れがひどくなり、悪臭がひどくなり、コンクリートの堤防がつくられるなど、大きく落ち込んでしまいます。隅田川で船遊び…など夢のような時代になってしまったんです。でも、屋形船が滅びることはありませんでした。昭和40年代の後半から、隅田川は少しずつキレイになっていき、花火大会が再開され、昔ながらの船遊びを楽しむ人も増えてきたんです。
ディズニーランド、レインボー・ブリッジ、台場など、見事な夜景を楽しめるスポットが増えてことも舟遊びへの関心を高めました。29軒の船宿が加盟している屋形船東京協同組合の屋形船だけでも、85艘10人ほどから貸し切りが出来、100人乗りの大型の屋形船もあるそうです。ちなみに、お値段。料理にフリードリンクが付いて、およそ1万円のコースに人気が集まっているようです。夏の名物、隅田川や東京湾で開かれる花火大会の屋形船の予約は、1年前から予約が入ってしまうほどの人気…と伺いました。
|
|
|
|