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7月17日(月)〜7月21日(金)今週のテーマは、「四谷風土記」 放送開始から54年間お世話になった四谷の町をご紹介します。
7月17日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
7月18日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「四谷の歴史」をご紹介します。
四谷、この地名の起こりにはいくつかの説があります。このあたりに4つの谷があったから、いやいや、茶店が4軒あったからだ…どうもハッキリしないようです。江戸時代はじめには、四谷のあたりは、見渡す限りの野原だった、と古い記録に記されています。江戸と、甲斐(かい)現在の山梨県を結ぶ甲州街道沿いにあることから次第に発展していきました。江戸城三十六見附、といわれるように、江戸城には多くの城門がありましたが、1639年(寛永16年)に出来た四谷御門はとても重要な門でした。なぜかと申しますと、敵が押し寄せてきて、江戸城危うし! となった時に、将軍が落ちのびる道の一つが甲州街道だったんです。
有名な服部半蔵を頭(かしら)とする伊賀衆や、先手組(さきてぐみ)などの実戦部隊の屋敷を置きました。さらには、江戸城近くにあった寺を、四谷周辺に移しました。敵が攻めて来た時の防衛線にする狙いがあったようです。
四谷が発展したきっかけの一つに、あの明暦の大火がありました。江戸市中のほとんどが焼けてしまった中で、四谷は被害がなく、焼け出された商人や職人が移り住み、人口が増えた…というのです。江戸時代は、200年以上にわたって平和な時代が続き、四谷は江戸の西の出入り口として栄えることになりました。絹織物や野菜、果物などが、馬の背や荷車に乗せられて江戸に運ばれ、運送業者が集まる街として活気があったんですね。
そうそう、四谷といえば、江戸の人々になくてはならぬものがありました。それは、水道。1653年に開通した玉川上水は、多摩川の羽村(はむら)から40キロあまりの距離を水路で導かれていました。四谷大木戸近く、現在の四谷四丁目交差点あたりからは、石や木の樋(とい)によって江戸市中に水を供給していたんです。江戸っ子が、「俺は、水道の水で産湯をつかったんだ!」などと自慢している水道、この水なんですね。
7月19日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「明治時代以降の四谷の歴史」をご紹介します。
1868年(明治元年)、明治政府は江戸を東京と改め、新しい時代が始まりました。幕府の権威を示していた四谷御門(ごもん)は、明治5年に取り壊されました。実はこの門は、枡形(ますがた)という造りで、敵が一度に入ってこられないように複雑な構造になっていたんです。明治時代の地図を見ると、江戸時代そのままに、道路が大きく迂回しているのがわかります。
幕府があってこその江戸であり、四谷でした。大名が国元に引き上げ、空屋敷が増え、商店の売り上げは激減しました。文字通り、灯の消えたような、さびれようでした。当時の地図には、桑畑や茶畑が点々と見られ、空き地の有効活用をしていました。やがて、回復の兆しがみられます。明治政府が積極的に進めた近代化政策によって、官庁や学校が作られ、新しい住民が増えてきたんです。明治11年には、新宿区の前身・四谷区が誕生しました。明治28年、八王子と新宿を結ぶ甲武(こうぶ)鉄道が延長され、四谷にも駅が出来ました。現在のJR・中央線で、外堀の一部を埋め立てて線路と駅が作られたんです。一両だけの電車が、およそ6分間隔で運転されました。
明治36年、新宿と半蔵門の間に、東京市街鉄道が開通しました。とても便利な乗り物でした。でも、四谷には大変な難所があったんです。さきほど申しました、取り壊された四谷御門の部分が、昔のままに大きく曲がったままで残っていたんです。旧甲州街道、現在の新宿通りを真っ直ぐに結んだ橋が完成したのは、1913年(大正2年)のことでした。四谷見附橋。四谷といえば、あの橋を思い出す方も多いことでしょう。まるで外国の風景のような、ロマンチックな橋でした。照明や欄干の装飾も凝っていて、いかにも大人の街という感じを受けたものです。80年にわたって親しまれましたが、老朽化と道路の拡張工事のために架け替え工事が行われ、平成3年に現在の橋が完成しました。
7月20日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「四谷怪談の主人公・お岩さんの真相」をご紹介します。
四谷、といえば、全国に知られている話がございます。それは…四谷怪談。江戸を代表する劇作家であった四世鶴屋南北(つるや・なんぼく)の代表作として知られる「東海道四谷怪談」でございます。しかしながら、この怪談噺し、現実のお岩さんのお話とは大きな違いがあるようです。
お岩さんは実在の人物なんで、江戸時代の初めに四谷に住んでいた、御家人田宮伊右門の妻、岩。夫婦仲もよく、働き者だったそうです。その上、信心深い。近くのお稲荷さんに毎日お参りをしていました。倹約するかたわら、せっせと働いて、苦しかった家計が次第に豊かになっていった…というお話なんです。お岩さんが信心していたお稲荷さん、人呼んで「於岩(おいわ)稲荷」、お岩さんが亡くなった後も、お参りにやってくる人が増える一方でした。
それから200年ほどたった頃。ヒット作を作ろうとしていた鶴屋南北、四谷の於岩稲荷に注目しました。そして、南北が生きていて時代に起こった凶悪事件やゴシップを巧みに取り入れ、新作を作り上げたんですね。欲に目がくらんだ夫が、邪魔になった妻に毒を盛り、悪だくみの限りを尽くして死に追いやる。やがては自分も滅びていく…という内容でした。さらに、ヒットする要素として忠臣蔵に関わる話、忠臣蔵外伝(がいでん)に仕立てて発表したんですね。「東海道四谷怪談」は大受けに受けて、やがて、講談や怪談噺しにもなりました。でも、芝居を上演すると、不思議なことが起きるようになりました。病人が出る、ケガ人も出る…といったトラブルが続いたんです。
「これは、お岩さんの祟りに違いない」
それからは、四谷怪談を上演する時には、関係者一同が、お岩さんにお参りするようになり、現在でも続けられています。四谷警察署の裏手にある、於岩稲荷田宮神社と、すぐ近くにある陽運寺(よううんじ)には、今も訪れる人が多いんですね。さて、気の毒なのはお岩さんです。おどろおどろしい世界とは無縁だった武士の妻、お岩さん。あの世でどう思っているのでしょう。もっとも、作者の鶴屋南北は、あくまで架空の物語として作り上げています。四谷は東海道ではなく甲州街道沿いですし、登場人物も変えてはいるんです。全国に知られた怪談のモデルになったお岩さんは、芝居とはまったく違った一生を送った女性だったんです。於岩稲荷田宮神社と陽運寺の最寄駅は、東京メトロ丸の内線の四谷三丁目駅です。
7月21日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「四谷の街の歴史めぐり」をご紹介します。
1952年(昭和27年)、3月31日、わが文化放送が開業いたしました。コールサインは、そうです、J・O・Q・R。最初の周波数は1310、その後、1310から現在の1134に変わりました。
四谷歴史探訪は、四ッ谷駅からスタートしましょう。駅前の橋が、四谷見附橋、橋の下は江戸城の外堀なんです。駅前には四谷御門の石垣の一部が残されています。なかなか立派でございます。新宿通りを西に、新宿方面に向かいまして、すぐ左手を入ると、服部半蔵が眠る西念寺(さいねんじ)、池波正太郎の「鬼平犯科帳」でお馴染みの長谷川平蔵の菩提寺戒行寺(かいぎょうじ)、四谷怪談で知られるお岩さんに円のある於岩稲荷などがあります。
お寺が点在する一画を抜けますと、外苑東通りに出ます。目と鼻の先が四谷三丁目交差点です。このあたりは、江戸時代も現代も活気があります。道幅は広がりましたが、四谷界隈を歩くときには、江戸時代の地図、江戸切絵図が役にたつんです。
新宿通りの次の交差点は四谷四丁目交差点です。ここには、江戸時代に四谷大木戸が置かれていました。大木戸は、江戸に出入りする人の検問所で、日の出と共に開け、日没と共に閉めていました。物資が集まる場所にもなっていて、賑わっていたんですね。玉川上水は、このあたりから地下を通って、江戸市中に水を送っていました。ここまで、ゆっくり回って半日コースでしょうか。四谷の散策は、変化があって楽しめるんですが、水分補給をお忘れなく!それから、坂道もありますので、ぜひ、歩きやすい靴でお出かけください。最寄り駅は、JR中央線の四ッ谷駅、東京メトロの四ッ谷駅と四谷三丁目駅です。
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