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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月10日(月)〜7月14日(金)今週のテーマは、「浅草 夏景色」
初夏の風情に彩られた浅草をご紹介します。

7月10日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「四万六千日(しまんろくせんにち)・ほおずき市」をご紹介します。

八代目、桂文楽師匠の至芸「船徳」の一節をご紹介します。遊びが過ぎて勘当された若旦那が、なじみの船宿に厄介になる。ただ居候してるだけじゃ申し訳ないってんで、船頭を買って出たことから起きる騒動のあれこれを描いた、名作落語でございます。この背景になっておりますのが、「四万六千日」。何が四万六千日かと申しますと、ご存じの方も多いでしょうが、神社仏閣へのお参りというのは、できるだけ毎日伺いますと、それだけ御利益が期待できるものですね。それが七月九日、または十日、どちらかの日にお参りすると、なんと一日で4万(よんまん)6千日、およそ126年分も、お参りしたことになるという、チョーお得な日。商店街の大売り出しで「スタンプ倍額」なんてのがありますが、その比じゃございません。なんと4万6千倍! 何で四万六千なのか、その根拠はわかっておりませんが、一説によりますと、お米、一升が、だいたい4万6千粒ほど。それを人の「一生」にかけまして、一日お参りすれば、だいたい一生分という大雑把な計算から生まれた数字ではないか、と言われております。

もともとは七月十日の一日だけだったんですが、一番乗りを目指す気の早い江戸っ子たちが九日の夜半からワサワサとやってくるようになりまして、まあ、大晦日の夜から初詣客が押しかけるようなモノですね。それで九日、十日の両日とも「四万六千日」ということになりました。

この四万六千日に合わせて、浅草寺には「ほおずき市」が立ちます。鮮やかな色のほおずきと、ガラスでできた江戸風鈴を 組み合わせた縁起物の鉢は、それだけで東京の夏の風情を演出してくれる素敵な存在ですが、では、なぜ、ほおずきなのでしょう?
七月十日といえば、お盆の直前。鮮やかなほおずきを、庭先に飾って、家に戻ってくるご先祖様の目印にした…そんな説があるそうですが、かつてこのほおずき市では、現在主流の「丹波ほおずき」よりも、実の青い薬用になる「千成ほおずき」の方が主力商品でした。衛生状態が悪く、病気にかかりやすくなる夏場に、体にいいほおずきを食べておこう。縁起物というよりは、実用品の意味合いが強かったのかもしれませんね。



7月11日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草とお芝居の関わり」をご紹介します。

お聞き頂いているのは、浅草・仲見世の賑わいの様子です。 夏、なんとはなしに心はずむ季節。その昔、明治時代の浅草の小学生にとっては、昨日、七月十日、浅草寺の四万六千日の日が、一学期最後の日。今日、十一日から、夏休みが始まりました。浅草で生まれ育った劇作家、久保田万太郎は、こんな風に子供の頃の思い出を綴っています。

「…浅草馬道の小学校は、この日をもって一学期の試験を終わった。ということは、その晴れぬいた真っ青な空の下に、暑中休暇が来たということ。だから四万六千日と聞くと、人こそ知らぬ、今でもわたくしは、子供の自分のその喜びを、思い浮かべることが出来る…」

確かに、期末試験の終わった日、あるいは一学期最後の日、そして夏休み最初の日…子供の頃の、この二日間は、人生でいちばん幸せな二日間だったかもしれません。「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」浅草寺境内には、この万太郎の有名な句碑がありますが、そのすぐ近くには、江戸から明治にかけ活躍した歌舞伎作者、河竹黙阿弥の記念碑も立っています。

江戸時代後期、老中水野忠邦は、ゼイタクを禁じ、風俗営業を取り締まる「天保の改革」を推し進めましたが、彼が「風紀を乱す」と目の敵にしたものの一つに「お芝居」がありました。こんな淫らなモノを将軍様のお膝元に置いておくわけにはいかん、というわけで、芝居小屋は一斉に浅草に移転させられることになったのです。これが1841年(天保12年)のこと。当時二十代半ばだった芝居作者の河竹黙阿弥も、芝居小屋の移転と共にこちら、浅草寺境内に移り住んできます。
そして、「三人吉三(さんにんきちさ)」「十六夜清心(いざよいせいしん)」「河内山(こうちやま)」「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」「弁天小僧」「髪結新三(かみゆいしんざ)」といった、代表作のほとんどが、ここ、浅草で生まれることになるのです。 現在、夏の芝居見物といえば、クーラーのきいた劇場でゆったりと過ごすことができますが、空調のなかった江戸時代は、まさに難行苦行。トイレなど悪臭がひどく、近づけたもんじゃありません。というわけで、客の入りが、もともと悪い。また、人気俳優たちも、暑いお江戸になぞ、あまりいたくありませんから、いくらかでも涼しい土地を求めて旅興行に出てしまいますから、ただでさえ入らない客がますます入らなくなる。そんなわけで、「夏芝居」は通常の興行より、木戸銭も割安だったんだそうです。



7月12日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、極めつけ浅草グルメ「鰻」をご紹介します。

この季節、浅草で食べたいもの…といえば、なんといっても…そう、鰻。表通りに店を構える大店から、路地裏のさりげないお店まで、そこかしこに「鰻」の暖簾。そして、あの、蒲焼きを焼くときの、なんともいえない、い〜い香りが、歩く先々に漂って参りまして、どこに入ればいいのやら、本当に迷ってしまいます。
鰻、と申しますと、思い出すのが「土用の丑の日」。よく知られている説としては、夏場、客足が落ちるのに悩んだとある鰻屋さんが、知恵者として知られる平賀源内先生に、「何かいい手はないっすかねえ?」とお伺いを立てた所、「この紙を入り口に張りなさい」と、手渡されたのが、「本日 土用丑の日」と書いた紙っきれでした。鰻屋さん、半信半疑でこの紙を戸口に掲げたところ、「なんだいこりゃ?」と、物見高い江戸っ子たちが次々にやってきて、お店は大繁盛、それを見た他の鰻屋さんもみんなマネするようになった…というお話でございます。

「土用」と申しますのは、春夏秋冬それぞれの終わりに、暦の上で基本的には十八日間設けられている、いわば「季節の変わり目」に当たる期間のこと。ですから、実は夏だけではなく、年に4回あるんですね。今年の場合、夏の土用は七月二十日から八月七日まで、そして八月八日に立秋を迎え、暦は秋へと移り変わります。また、一日一日、それぞれ十二支が割り当てられていますから、それぞれの干支が土用の十八日のうち、一度か二度、登場することになる、と、まあ、こういうわけです。今年の「土用の丑の日」は、七月二十三日、日曜日と、八月四日の二回。鰻にとっては、頭の痛い年になりそうです。

何とも味わいのある、八代目・三笑亭可楽師匠によります、落語「士族の鰻」、別名「素人鰻」をご紹介します。
明治になって、勤め先がなくなってしまったお侍さんが、古い馴染みの職人に助けてもらって鰻屋を開店します。ところが、この職人がお酒でしくじり、雲隠れ。仕方なく、自分が料理せざるを得なくなったお侍さんが、慣れない鰻に四苦八苦…という滑稽話です。
鰻は、もちろん江戸っ子たちの大好物でしたから、落語にもしばしば登場して参ります。で、話に登場する鰻屋さんが、これまた、浅草にある、という設定が多いんです。鰻の似合う土地柄なんですね。鰻の香りの染み込んだ暖簾をくぐって、座敷に上がり、白焼きを注文、焼けるのを待つ間、キュウリの「こうこ」で一杯…想像するだけでも、ああ…たまりません。



7月13日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草に残る戦争の爪痕」をご紹介します。

いまから六十一年前、1945年(昭和20年)のこと。三月十日未明、およそ350機のB29の大群が、東京の下町を襲撃。二時間半に渡っておよそ百万発、二千トンにも及ぶ焼夷弾を浴びせかけました。木と紙で出来た日本の家は、あっというまに燃え上がり、隅田川の東はどこもかしこも火の海に。防空壕から外に出れば、低空から容赦ない機銃掃射が浴びせかけられ、人々には逃げ場もありません。仕方ない、川だ…と隅田川に飛び込めば、折からの強風に吹き飛ばされた炎が川面を舐め、ありとあらゆるものを焼き尽くしていったのです。

この「東京大空襲」、死者、およそ十万人。その多くは、女性や子供、お年寄りで、武器を取って戦うことなど最初から無理な人たち、ジュネーブ条約で保護されているはずの「非戦闘員」でした。これだけ大量の遺体を、丁寧に葬ることなど不可能です。多くは、公園などに、穴を掘ってそのまま埋められ、後に掘り出されて改めて火葬、慰霊堂に収められました。浅草から言問橋を渡ったところにある「墨田公園」も、そんな仮埋葬場所の一つ。公園の一角、橋のすぐ近くには犠牲者の追悼碑が建てられ、今も花の絶えることがありません。

八代目・桂文楽師匠の十八番、「明烏」をご紹介します。深刻な空襲の話からガラリと雰囲気が変わりましたが、これもまた、戦争と深いかかわりのあるお話なんです。実は、戦争で殺されるのは、人間だけではありません。落語も、また、命を奪われました。日中戦争が泥沼状態となり、そして太平洋戦争が目前に迫った、1941年(昭和16年)10月。浅草・田原町の本法寺(ほんぽうじ)というお寺に、落語関係者が集まりました。お酒や廓などにまつわる、全部で五十三のお話が「時局にふさわしくない」ということで、以後、上演を自粛することになり、このお寺の一角に、落語のお墓「はなし塚」が建てられたのです。堅い一方だった若旦那が、父親の策略に乗せられ吉原へ行き、花魁と一夜を共にすると、その途端フニャフニャ、骨抜きにされてしまう…というこの「明烏」もその一つ。それにしても、当局から禁じられる前にさっさと自粛し、さらに大きなお墓まで建ててしまうあたり、噺家さんならではのシャレが効いているようにも思えます。
禁演落語は戦後まもなく封印が解かれ、ごく普通に高座に乗せられるようになりました。本法寺は田原町駅のすぐ南側、入り口の両脇には数多くの落語家など寄席関係者の名前が刻まれ、演芸ファンには楽しいスポットとなっています。



7月14日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、浅草の夏の終わりを告げる「カーニバル」をご紹介します。

浅草の夏の始まりが、浅草寺の「四万六千日」とするならば、夏の終わりは、8月、最後の土曜日に開かれる「サンバ・カーニバル」。このカーニバルのアイデアを提案したのは、懐かしい喜劇俳優、伴淳三郎さん、バンジュンさん。昭和20年代流行語となった「アジャパー」で一世を風靡、晩年は性格俳優として活躍された方ですね。で、この、バンジュンさん。青春の日々を過ごした浅草が、戦後、次第に元気がなくなっていくのを見るにつけ、断腸の思いをされていたんだそうです。

 「なんとか、浅草を元気にできないものか…」

そこで思いついたのが、ブラジルのカーニバルでした。バンジュンさんは、ブラジル日系人のチャリティショーのため、現地を訪れた経験があり、そんなことから「あの熱気を浅草で再現できないか」とピンときたんですね。で、バンジュンさんがこの思いつきを仲のよかった当時の台東区、内山区長に話したところ「そりゃいいね!」と、乗り気になり、トントン拍子で実現することになりまして、早速、視察団がリオデジャネイロに派遣されました。

ところが、実際にカーニバルを見てみると、観客席のヤグラはグラグラしていて危ないし、山車から踊り子が転落し、ピクリとも動かなくなっても、誰も助けに駆け寄ったりしない。それどころかどんちゃん騒ぎは、一層激しくなるばかり。こんな激しいモノを浅草で再現できるとは思えない…と、視察団の大半は意気消沈して帰ってきたそうですが、一人、元気だったのが、内山区長。「なんとしても実現するぞ!」と元気に旗を振り、プロジェクト・サンバがスタートしたわけでございます。
そして1981年(昭和56年)、無事、第一回がスタート。参加チームは実に55におよび、観客35万人を動員。本場リオからもパレード優勝チームを来日させるなど、思いつきから始まったお祭りは、大成功に終わったのです。
今では、サンバは、浅草の夏の風物詩として、すっかり定着していますが、参加者の皆さんを強力にサポートしているのが、早稲田鶴巻町のサンバ用品専門店「マルメラアダ」。浅草で、よく使われる楽器についてお話を伺いました。
今年のカーニバルは、8月26日、土曜日、午後1時半からパレードが始まります。灼熱の昼下がり、サンバのリズムに酔ううちに、浅草の夏はフィナーレを迎えます。



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